Properties & Sights

東・東南アジア | 構成資産・みどころ一覧

奄美大島

Amami-Oshima Island
奄美大島
奄美大島は、中琉球に位置する奄美群島で最大の島です。群島最高峰の湯湾岳(標高694m)に代表されるように、面積の8割以上を森林が占めています。スダジイの自然林や、カシやシイの切り株や根から新しい芽が伸びてできる萌芽林のほか、汽水域には西表島に次いで国内で2番目に広いマングローブ林があります。そのような豊かな植生に守られるように、奄美大島の固有種で、オスになることを決める「Y染色体」を持たないのにオスが誕生する哺乳類アマミトゲネズミや、「日本一美しいカエル」と称される金褐色の斑紋が目を引くアマミイシカワガエルなど、特徴的な動物が多く存在しています。また、奄美大島と徳之島の固有種の哺乳類アマミノクロウサギや、絶滅のおそれのある鳥類のルリカケスなど、遺存固有種の動植物も多く生息しています。
詳細ページを見る Arrow-right

荒船風穴

Arafune Cold Storage
荒船風穴
荒船風穴は、群馬県と長野県の県境にそびえる荒船山の北麓、標高約900mの位置にあり、現在の下仁田町の一部となります。その一帯は新世代第三紀の貫入岩が露出し、その岩塊が崩落して谷を埋めたことで、地中には空間が多く見られます。冬季に岩塊は猛烈に冷やされて、そこに雨水が浸み込んで氷や凍土をつくります。夏になっても冷えた環境は保たれて、岩の隙間から冷気が吹き出す風穴となっています。夏の暑い時期には吹き出し口から流れる気流により、その大きな温度差から白煙となる光景も見ることができます。
詳細ページを見る Arrow-right

西表島

Iriomote Islands
西表島
西表島は4島の中で唯一南琉球に位置する島です。現在の琉球列島は、およそ1,200万年前までユーラシア大陸とひと続きでした。200万年前ごろまでに起きた大規模な地殻変動の影響で、ユーラシアプレートにフィリピン海プレートが沈み込み、現在の琉球列島西側に「沖縄トラフ」と呼ばれる海域が生まれ、徐々に大陸と切り離されました。しかし、南琉球では海面が低下する氷期、海面が上昇する間氷期が繰り返される中、大陸とつながったり離れたりを繰り返し、長い間大陸の生き物が行き来する環境となり、最終的にはその一部が現在の西表島に取り残されました。中琉球では「生きる化石」とも言える遺存固有種が多く見られるのが特徴的である一方で、南琉球に位置する西表島ではほとんどみられず、近縁種が大陸に存在するイリオモテヤマネコなど新固有種が多く生息しているのが特徴として挙げられます。
詳細ページを見る Arrow-right

王宮(フエ)

Hue Imperial City / Hoàng Thành Huế
王宮(フエ)
フエの王宮は、19世紀から20世紀に栄えたグエン朝ゆかりの建造物群で、ベトナムで初めての世界遺産である「フエの歴史的建造物群」の構成資産のひとつです。北京の故宮を参考にし、その約4分の3の規模で建設されました。フォーン川の左岸に位置し、高さ約6.6m、幅約21mという大城壁に囲まれた、一辺約2.2kmの正方形の都城です。東洋思想やベトナムの伝統、西洋の軍事建築であるヴォーバン様式の要素を取り入れて建設計画が進められました。南側にある正門(午門)を抜けるとあらわれる太和殿は、皇帝の政務の空間でした。中国明清時代の構造技法を踏襲した建築様式となっており、中には皇帝の座した金色の玉座が残っています。太和殿の柱の一部には、5本の指の龍が巻き付くデザインが施されており、これは皇帝を象徴するものとされています。
詳細ページを見る Arrow-right

沖縄島北部

Northern part of Okinawa Island
沖縄島北部
沖縄本島最高峰の与那覇岳(標高503m)や伊湯岳(446m)などの山々がある沖縄島北部が「やんばる(山原)」です。範囲の明確な定義はないものの、国頭村、大宜味村、東村の3村を世界遺産では「やんばる3村」と呼んでいます。3つの村にまたがる「やんばる国立公園」には、国内最大級の亜熱帯雨林が広がります。飛べない鳥として知られるヤンバルクイナや沖縄県の県鳥でもあるノグチゲラのほか、遺存固有種のオキナワトゲネズミやヤンバルテナガコガネ、オキナワイシカワガエル、1996年に初めて見つかったヤンバルホオヒゲコウモリなど、希少な生物が存在します。また、与那覇岳などの斜面には豊富な降水量に裏打ちされた雲霧林が広がっています。20~30度の傾斜地が多いため、多量の雨水の流入によって川床と川岸が周期的に冠水する「渓流帯」が存在し、環境に適応した渓流植生が根を張っており、今でも新種が発見されています。
詳細ページを見る Arrow-right

遠賀川水源地ポンプ室

Onga river Pumping Station
遠賀川水源地ポンプ室
福岡県中間市に位置し、1910(明治43)年に操業を開始した「遠賀川水源地ポンプ室」は、1901(明治34)年の操業を開始した官営八幡製鉄所の鋼材生産量の倍増を目指すため、11.4㎞離れた遠賀川から製鉄所へ大量の工業用水を供給するための施設として建設されました。遠賀川の東岸に建つポンプ室は、2階建てのイギリス式レンガ積みの建物で、丸窓や半円アーチ窓の一部には灰白色の鉱こう滓さい煉瓦が使用されています。建物は2棟が並ぶ大きな建屋で構成されており、かつて北側の棟には送水用の蒸気ポンプが、南側の棟には動力源となるボイラーが設置されていました。1950年代にポンプの動力源が蒸気から電気へ移り変わりましたが、100年以上が経過した現在もその役割は変わることなく、製鉄のための送水を続けています。
詳細ページを見る Arrow-right

外朝(北京の故宮)

Outer Court
外朝(北京の故宮)
北京の故宮の顔ともいえるのが、外朝と呼ばれるエリアです。敷地中央の乾清門を境とした南北2つのエリアの南側に当たります。ここは皇帝が公務を行った場所で、前三殿と称された3つの建物、太和殿・中和殿・保和殿が南北に並びます。最も南にある太和殿は現存する中では中国最大の木造建造物。東西約64m、南北約37m、高さ約35m以上にも及び、その威容は見る者を圧倒します。ここは皇帝の即位や結婚、祭礼など重要な行事や儀式が執り行われた場所で、龍をモチーフにした彫刻が随所に施されているのを見つけることができます。内部には金箔張りの柱や玉座などもあり、別名「金鑾殿」とも呼ばれました。1420年に創建されましたが、幾度かの火災に見舞われ、現存しているのは1695年に再建された建物です。
詳細ページを見る Arrow-right

春日大社

Kasugataisha Shrine
春日大社
古くから神が宿る山として人々の信仰を集めてきた春日山(御蓋山)の西麓に、春日大社は鎮座しています。国家鎮護の社として創建された春日大社は、山も含めると約30万坪(約100万㎡)にも及ぶ神域を有しています。その起源は、8世紀に武神として崇敬される武甕槌命が白鹿に乗って御蓋山に降臨したという伝承にあります。春日大社は藤原氏の氏神を祀っていることから、藤原氏や朝廷の篤い崇敬を受けて栄えました。平安時代に神仏習合思想が広まると、藤原氏の氏寺であった興福寺と一体化し、さらなる発展を遂げました。現在、毎年1月2日には、興福寺の僧侶が春日大社に参詣する社参式が行われており、神仏習合時代の神前読経の歴史を今に伝える行事となっています。
詳細ページを見る Arrow-right

春日山原始林

Kasugayama Primeval Forest
春日山原始林
奈良市の市街地東方に位置する春日山原始林は、春日大社の神山・御蓋山の後方に広がり、美しい稜線を形成している緑豊かな森です。ここは841年に仁明天皇の勅命により狩猟と伐採が禁止され、春日大社の神域として守られてきました。常緑のシイやカシなどの照葉樹林が広がるなかに、「春日杉」と呼ばれるスギやモミ、ツガといった針葉樹、ツル性植物やシダ植物など、約800種もの植物が生育しています。また、メタリックブルーの体をもつルリセンチコガネをはじめとする昆虫類、さまざまな野鳥、シカやムササビなど哺乳類の住処でもあります。市街地に隣接しながらも原始的な姿を保っているこの森は、その貴重な植生が評価され、1924年に天然記念物、1955年には特別天然記念物に指定されました。
詳細ページを見る Arrow-right

勝連城跡

Katsuren-jô site
勝連城跡
勝連城(かつれんじょう)は、琉球王国が安定していく過程において、国王に最後まで抵抗した有力な按司である阿麻和利(あまわり)が暮らしていた城です。自然の断崖を利用して築城された、まさに難攻不落の城と言えます。阿麻和利は1458年、国王の重臣であった護佐丸(ごさまる)を滅ぼしました。その後、王権の奪取を目指して首里城を攻め立てましたが、大敗を喫して滅びることとなりました。現在の勝連城からは、中国製や日本製の陶磁器類が大量に出土しています。このことからも、阿麻和利をはじめとする歴代の城主たちが、海外と活発に交易を行っていた様子がうかがえます。
詳細ページを見る Arrow-right

嘉峪関

Jiayuguan
嘉峪関
「嘉峪関(かよくかん)」は甘粛省嘉峪関市に位置し、明代(1368~1644年)に築かれた「万里の長城」最西端の城塞です。最東端の「山海関」が「天下第一関」と呼ばれるのに対し、最西端の「嘉峪関」は「天下第一雄関」と呼ばれました。また、その堅固さから、延々と続く辺境の防衛線にがっちりと鍵をかけて守ることを意味する「連陲鎖鑰(れんすいさやく)」とも呼ばれました。シルク・ロードの交通の要衝、そして内城、外城、甕城(おうじょう)や城壕(じょうごう)からなる三重の防御施設を備えた軍事防衛拠点として、西域統治において重要な役割を果たしました。
詳細ページを見る Arrow-right

官営八幡製鐵所

The Imperial Steel Works, Japan
官営八幡製鐵所
欧米を手本に殖産興業政策を進めていた明治政府は、鉄鋼の国産化をめざし、福岡県北部にある筑豊炭田に隣接した八幡村(現在の北九州市)に、「官営八幡製鐵所」を設立しました。日清戦争(1894~1895年)後の軍備拡張に伴う製鋼業振興政策として、1895(明治28)年、政府は鉄鉱石からの製せい銑せんから鋼材の生産までを一貫して行う「銑せん鋼こう一貫製鉄所」の建設を決定し、1897(明治30)年にその建設に着工します。日清戦争で獲得した多額の賠償金などをもとに、ドイツのグーテホフヌンクスヒュッテ社の技術協力を得て、1901(明治34)年2月5日、八幡製鐵所東田第一高炉への火入れが行われました。こうして当時の最新技術を導入した、アジア初の銑鋼一貫製鉄所として操業を開始しました。
詳細ページを見る Arrow-right

元興寺

Gangô-ji Temple
元興寺
元興寺は、蘇我馬子が6世紀に創立した日本最初の本格的寺院である飛鳥寺(法興寺)を起源としています。平城京遷都に伴って飛鳥から移転し、そのしばらく後に造営が始まり、8世紀後半にかけて大伽藍が整えられました。朝廷の保護を受けた南都七大寺のひとつとして発展し、三論・法相(ほっそう)など教学の中心となりました。現在、市内中心部で町家が軒を連ねる「ならまち」として親しまれる一帯は、奈良時代にはほぼ全域が元興寺の境内でした。広大な敷地には金堂や講堂、五重塔などが立ち並び、南都を代表する大寺院として隆盛を誇りました。しかし、律令国家の衰退によって、経済的基盤を失い、元興寺は徐々に凋落の道をたどりました。
詳細ページを見る Arrow-right

旧グラバー住宅

Glover House and Office
旧グラバー住宅
「旧グラバー住宅」は、南山手と呼ばれる居留地に位置する、現存する日本最古の木造洋風建築です。1858(安政5)年、日米修好通商条約の締結によって開港した長崎では、港を望む丘陵地に外国人居留地が定められました。1859(安政6)年、スコットランド出身のイギリス人貿易商トーマス・ブレーク・グラバーは21歳で来日します。南山手3番地の大きな松の木のすぐ横に邸宅を建てたグラバーは、この邸宅に「IPPONMATSU」という愛称を付けました。このことから、邸宅は「一本松邸」とも呼ばれました。
詳細ページを見る Arrow-right

景山

Jingshan Hill
景山
北京の中軸線上で最も高い地点にある景山公園は、故宮の北側に位置し、明・清代にわたって皇帝の庭園として利用されてきました。高くそびえる景山(旧称・万歳山)は、明の永楽帝の時代、故宮建設のために堀が掘られた際、その土が積み上げられて形成されたものです。園内には、皇帝が宴会を催したり花見をしたりする娯楽活動の場所として、数々の宮殿や東屋、楼閣なども建てられており、その建物は南北軸に沿って対称になるように配置されています。人工的に積み上げられた山と華麗な宮殿建築が一体となって、美しい園林を作り上げているのです。1928年に一般開放されてからは、民衆の憩いの場として機能しています。山頂に登ると、南には華麗な故宮の宮殿、東には現代の高層ビル群が広がり、北京の長い歴史を体感できる雄大な景色を見渡すことができます。景山公園は四季折々で違った表情を見せるのも魅力で、園内には牡丹や芍薬などの花々が咲き、木々の葉が色づく秋には青空とイチョウ、そして紅い城壁のコントラストが人々の目を楽しませています。
詳細ページを見る Arrow-right

興福寺

Kôfuku-ji Temple
興福寺
法相宗の大本山である興福寺は、その前身である「山階寺」が669年に造営されたのが始まりです。これは、藤原鎌足が大病した際、妻である鏡女王が夫の回復を祈願し、釈迦三尊や四天王といった諸仏を安置するために建てたものと言われています。のちに飛鳥の「厩坂寺」を経て、平城遷都に伴い平城京に移されて興福寺となりました。ここは藤原氏一門の氏寺ですが、主要堂塔の建立の発願は、天皇や皇后によるものが多いことが特徴です。平安時代以降は再三の火災に見舞われながらも、その都度復興を遂げてきました。そうした背景には、藤原一族の強大な権力がありました。
詳細ページを見る Arrow-right

国立西洋美術館

The National Museum of Western Art / Musée National des Beaux-Arts de l’Occident
国立西洋美術館
国立西洋美術館は東京の上野恩賜公園内にあり、実業家松方幸次郎が収集した美術品コレクション(松方コレクション)を基礎に、西洋美術作品を収蔵・展示するために建設されました。第二次世界大戦末期、松方コレクションはフランス政府に接収されていましたが、1953年に日本へ寄贈返還されることとなります。その際、フランス政府は返還の条件として、新たな美術館を建設することを求めました。これに応えるため、フランスの建築家ル・コルビュジエの基本設計をもとに、彼の弟子である前川國男、坂倉準三、吉阪隆正によって日本で実施設計が行われました。1959年に完成した国立西洋美術館は、近代建築の巨匠ル・コルビュジエによる日本唯一の作品であり、その後の日本現代建築にも大きな影響を与えたのです。
詳細ページを見る Arrow-right

座喜味城跡

Zakimi-jô site
座喜味城跡
座喜味(ざきみ)城は、1420年頃に有力な按司である護佐丸によって築かれました。護佐丸は当初、座喜味の北東約4㎞にある山田グスク(現在の恩納村)を居城としていました。しかし、今帰仁(なきじん)城の攻略に参戦した頃、敵からの防御や長浜港を控えた地の利を考慮し、高台にある座喜味の地に築城したとされています。また、国王の居城である首里城と迅速な連絡を図るという国防上の理由から、首里城がよく見渡せる丘の上が選ばれました。二つの廓を囲む城壁には、地元で採れる琉球石灰岩が使われています。その積み方は、「野面積み」や「布積み」が進化したとされる「あいかた積み」という手法が多く用いられているのが特徴です。さらに、中央にくさび石をはめて2つの石をかみ合わせることで造られたアーチ石門も大きな見どころですが、このくさび石を用いる方法は他のグスクには見られません。これらの高度な特徴からは、護佐丸が極めて優れた築城技術を持っていたことがうかがえます。
詳細ページを見る Arrow-right

山海関

Shanhaiguan
山海関
「山海関」は河北省秦皇島市に位置し、中国本土を北方遊牧民の侵入から守る「万里の長城」の最も東にある城塞です。明代(1368~1644年)に築かれた万里の長城の東の起点であり、その戦略的な立地、強固な防衛機能、壮大な規模から「天下第一関」としても知られています。「山海関」という名前は、北の燕山山脈と南の渤海との間に築かれたという、特徴的な地理的要因に由来しています。かつては城塞の四方の門に「甕城(おうじょう)」とよばれる半円形の出城があり、関所の周囲に二重の防御線を作り鉄壁の守りを誇っていました。現在は、東門の甕城のみを見ることができます。ここには、「鎮東楼」をはじめとする5つの防衛拠点が配置され、それらは国境を守る「五虎」と称されていました。
詳細ページを見る Arrow-right

識名園

Shikinaen
識名園
識名園は、1799年に造営された琉球王家最大の別邸の庭です。当時は国王一家の保養だけでなく、中国皇帝の使者である冊封使を接待する場としても使用されていました。識名園の造園形式は、池のまわりを歩きながら景色の移り変わりを楽しむ「回遊式庭園(かいゆうしきていえん)」が採用されています。回遊式庭園は、日本の近世に大名たちが競って造るようになった形式ですが、識名園には琉球独特の工夫が随所に見られるのが特徴です。「心」の字をくずした池(心字池)を中心に、池に浮かぶ島には中国風あずまやの六角堂や大小のアーチ橋が配され、池の周囲には琉球石灰岩が積みまわされています。1941年(昭和16年)12月13日には国の「名勝」に指定されましたが、1945年(昭和20年)4月の第二次世界大戦の沖縄戦によって破壊されてしまいました。その後、1975年から1996年(昭和50年~平成8年)にかけて、総事業費7億8千万円を投じた復元整備が行われます。その結果、1976年(昭和51年)1月30日に再び国の「名勝」となり、2000年(平成12年)3月30日には「特別名勝」に指定されました。敷地の指定面積は4万1,997㎡に及び、そのうち御殿をはじめとするすべての建物の面積は、合計で643㎡(約195坪)となっています。
詳細ページを見る Arrow-right

紫禁城

Forbidden City
紫禁城
北京の中心部に位置する故宮は、かつて紫禁城と呼ばれ、明・清時代の約500年間、計24人の皇帝が居城とし、政治の中枢となった場所でした。清が滅びた後、「昔の宮殿」を意味する「故宮」と改称され、現在は博物館として機能しています。「紫」は天帝の在所や皇宮・朝廷を指した紫微垣に、「禁」は宮殿が一般の立ち入りを厳しく禁じていたことにそれぞれ由来して、紫禁城と呼ばれるようになったそうです。敷地は東西約750m、南北約960mと広大で、周囲は壮麗な深紅の城壁に囲まれ、四方にそれぞれ門が配置されています。ハイライトの一つが、敷地の南側、皇帝が政務を行った外朝と呼ばれるエリアに並ぶ3つの建物です。現存する中国最大の木造建造物、太和殿をはじめとする壮観な眺めを楽しむことができます。
詳細ページを見る Arrow-right

首里城跡

Shuri-jô site
首里城跡
首里城は、三山時代には中山(ちゅうざん)王国の居城でした。その後、1429年に琉球王国が統一されてから1879年に至るまで、長きにわたり王国の居城として政治や外交、文化の中心であり続けました。城は、王国にとって重要な拠点である那覇港や首里の街を見下ろす丘の上に、その地形を巧みに活かして築かれています。構造は内郭(内側城郭)と外郭(外側城郭)に大きく分けられ、内郭は15世紀初頭に、外郭は16世紀中期に完成しました。正殿をはじめとする城内の各施設は東西の軸線に沿って配置されており、西側を正面としているのが大きな特徴です。
詳細ページを見る Arrow-right

城門(北京の故宮)

The Gates of the Forbidden City (Beijing)
城門(北京の故宮)
北京の故宮の周囲には東西南北それぞれひとつずつ城門があり、南は午門、北は神武門、東は東華門、西は西華門と呼ばれます。また、故宮内部にも多くの門が存在します。南側の外朝(政治や儀礼の場)と、北側の内廷(皇帝の私的空間)の間には、2つの空間を隔てる乾清門があります。皇城の南端に位置する天安門を入り、故宮の入り口となる端門、正門である午門、外朝入り口の太和門、そして乾清門を経て内廷へと至る多層構造は、中国古代の都城の配置である「五門三朝」の制度に影響を受けているとされています。
詳細ページを見る Arrow-right

鐘楼・鼓楼(北京の中軸線)

Bell and Drum Towers
鐘楼・鼓楼(北京の中軸線)
南北に延びる北京の中軸線の最北端に位置し、鮮やかな朱色の壁や灰色の瓦が目を引くのが鐘楼と鼓楼です。これらは元・明・清代の700年以上にわたって巨大な銅鐘や太鼓で街中に時を告げ、都市の時報の中心として機能しました。現存する鐘楼は清代に再建されたもので、高さ47.9m。梁のないレンガと石造りのアーチヴォールト構造が特徴で、中に重さ63トンもの巨大な銅鐘が吊り下げられています。かつては柔らかく大きな余韻のある響きを持つこの鐘の音が数十km先まで届けられていました。
詳細ページを見る Arrow-right

新原・奴山古墳群

Shimbaru-Nuyama Mounded Tomb Group
新原・奴山古墳群
沖ノ島での祭祀を執り行い、島に宿る神への信仰を「宗像三女伸信仰」へと発展させた古代豪族・宗像氏の墳墓群です。宗像氏は5世紀から6世紀にかけて、当時は入り江だった場所に面し、沖ノ島へと続く玄界灘を一望できる台地の上にこの古墳群を築きました。現在、現地には前方後円墳5基、円墳35基、方墳1基の計41基が残されています。それぞれの古墳が造られた時期は異なっており、沖ノ島で岩陰祭祀が始まった5世紀後半には、大型の前方後円墳(22号墳)や中型の前方後円墳(1号墳)が築かれました。中型の前方後円墳(12,24,30号墳)は6世紀前半から半ばにかけて築かれました。また、小型の円墳群(34~43号墳)は6世紀後半のものです。5世紀に築かれた7号墳は、宗像地域では数少ない方墳であり、ここからは沖ノ島の祭祀遺跡と共通する鉄斧が見つかっています。前方後円墳をはじめとする古墳の形状や、周囲を巡る溝などが当時の姿をよく留めています。
詳細ページを見る Arrow-right

瀋陽の故宮

Imperial Palaces of the Ming and Qing Dynasties in Shenyang
瀋陽の故宮
清の前身、後金を建国したヌルハチによって建設されたのが瀋陽の故宮です。中国を統治した最後の王朝、清の礎を築いた場所とも言えます。敷地面積は約6万㎡と北京の故宮に比べて規模は小さいものの、東路・中路・西路の3つのエリアに分けられ、約70の建物が建ち並びます。最も早い時期に建てられたのが、1626年創建の大政殿です。東路に位置し、遊牧民族の住居パオのような八角形の建物となっています。大政殿へといたる通路の両側には、すべて同じ建築様式で建てられた10の建造物群があり、十王亭と呼ばれています。ここは、ルーツである女真族の狩猟組織を発展させた清の軍事制度「八旗」の拠点であり、またそれを象徴する建物でもありました。中路の正殿である崇政殿は、清代皇帝の居住地でした。2代目ホンタイジはここで政務を行ったそうです。西路の北部には文遡閣と呼ばれる建物があり、乾隆帝によって編纂された四庫全書が納められていることで知られます。瀋陽の故宮は現在、北京の故宮と同様に博物館として公開され、かつての栄華を今に伝えています。
詳細ページを見る Arrow-right

斎場御嶽

Sêfa-utaki
斎場御嶽
斎場御嶽(せーふぁうたき)は、琉球開闢(かいびゃく)伝説にも登場する琉球王国最高の聖地です。最高位の神職である聞得大君(きこえおおきみ)との関係が深く、格式高い御嶽として知られており、中央集権的な王権を信仰面と精神面から支える国家的な祭祀の場でもありました。琉球王国の正史である『中山世鑑(ちゅうざんせいかん)』には、琉球の開闢神アマミクが創設した御嶽のひとつとして記されています。御嶽の中にはイビと呼ばれる神域が6カ所あります。琉球国王はこれらの場所を参拝しながら、国家の繁栄や安寧、五穀豊穣、航海安全などを神に祈願していました。琉球王国時代、国家的な催事の際には「神の島」と呼ばれる久高島から聖なる白砂を特別に運び入れ、御嶽に敷きつめていました。こうした祭事の中でも最大の行事が、聞得大君の就任式である「御新下り(おあらうり)」でした。
詳細ページを見る Arrow-right

園比屋武御嶽石門

Sonohyan-utaki Ishimon
園比屋武御嶽石門
1519年に造られた石造りの門であり、門の背後に広がる樹林地は園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)と呼ばれる聖域になっています。ここはかつて、国王が城外へ外出する際に、道中の安全を祈願した格式高い礼拝所です。一見すると人が通り抜けるための門のような形をしていますが、実際には人が通る場所ではなく、神へ祈りを捧げるための「礼拝の門」というべき宗教的な施設です。そのため、人々は石門そのものではなく、その奥にある御嶽(聖域)に向かって祈りを捧げます。この石門は琉球を代表する石造建造物であり、扉を除いたすべての部分が石でできています。特に、最上部にある棟石(むねいし)の部分に施された細やかな彫刻は実に見事です。1933年には国宝に指定されましたが、沖縄戦によって一部が破壊されてしまいました。その後、1957年に復元され、現在は国の重要文化財に指定されています。
詳細ページを見る Arrow-right

太廟

Imperial Ancestral Temple
太廟
中軸線上にある天安門の東側に位置する太廟は、1420年に建立され、明・清の皇帝により祖先をまつるために使われた聖地です。祖先をまつることは中国の伝統社会において極めて重要な意味を持ち、北京では元・明・清時代にわたって多くの壮大な祭祀建造物が建てられました。その中でも最大規模かつ最も格式高い建築群が太廟です。敷地は南北475m、東西294mの長方形で、三重の大きな塀に囲まれています。塀の中には、南から北にかけて3つの殿堂形式の建物、前殿・中殿・後殿が並びます。最も格式が高いのが大殿とも呼ばれる前殿で、皇室の祖先の位牌が納められ、皇帝が大きな祭祀を行った場所でした。故宮と同じく赤い壁と黄色の釉薬瓦の屋根が特徴の建築群は、日差しを遮る高い古木に囲まれ、荘厳で落ち着いた雰囲気に包まれています。1951年に一般公開された太廟は、今では歴史博物館として皇族の歴史とその威厳を伝えています。
詳細ページを見る Arrow-right

高島炭坑

Takashima Coal Mine
高島炭坑
高島炭坑は、長崎港の沖合14.5㎞に位置する高島にある西彼杵海底炭田の一部です。1695(元禄8)年、平戸出身の五平太によって石炭が発見されたと言われています。その後、幕末の開港にともない来航する蒸気船の燃料として石炭の需要が高まったため、1868(慶応4・明治元)年、佐賀藩とイギリス人貿易商トーマス・ブレーク・グラバーのグラバー商会との共同出資のもと、高島での海底炭鉱開発が本格的に始まりました。イギリス人技師モーリスを招き、1869(明治2)年、海岸に近い低地に、日本で初めて蒸気機関による巻揚機やポンプを導入した洋式竪坑「北渓井坑」を建設しました。竪坑の深さは43m、1日300トンの石炭を産出したとされています。北渓井坑は海水の流入により1876(明治9)年に廃坑となりましたが、現在も当時の竪坑跡や蒸気機関に関連する貴重な遺構が残されており、明治初期の石炭採掘技術を知ることができます。
詳細ページを見る Arrow-right