Properties & Sights

構成資産・みどころ一覧

(執筆協力:大津 綾野)

アイア・ピッコラ地区

Aja Piccola Quarter / Rione Aja Piccola
アイア・ピッコラ地区
アルベロベッロの南東の斜面に位置する「アイア・ピッコラ地区」は、「小さな脱穀場」という意味を持つ場所です。その名前は、かつてこの場所に収穫した作物を脱穀するための小さな共同広場があり、そこが「十分の一税」と呼ばれる収穫税を徴収する場所として使われていたことに由来します。現在、590棟のトゥルッリが残るこの地区は、アルベロベッロの中で最も落ち着いた雰囲気を残す場所として知られています。今も多くの人々が暮らしていて、昔ながらの静かな生活を感じることができます。
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アランフエス王宮

Royal Palace of Aranjuez / Palacio Real de Aranjuez
アランフエス王宮
「アランフエス王宮」は、マドリードの南約30km、タホ川とハラマ川が合流する平野部に位置し、総面積1.1㎢もの広大な庭園に囲まれています。15世紀末に終結したレコンキスタ(国土回復運動)以降、アランフエスはサンティアゴ騎士団の所有地であり、その総長は現在の王宮がある場所に邸宅を構えていました。イサベル1世の時代に、総長の地位が君主の地位に統合されたことで、アランフエスの領地は王室資産の一部となりました。1561年、スペイン国王フェリペ2世は、父である神聖ローマ帝国皇帝カール5世(スペイン国王カルロス1世)の計画を引き継ぎ、アランフエスにあった古い邸宅の建て替えを命じました。建築家フアン・バウティスタ・デ・トレドは、まず庭園や農地を区切る並木道を設計し、アランフエスをイタリア風の邸宅に改築します。これが現在の王宮の前身となり、フェリペ2世と王妃のお気に入りの夏の離宮でした。さらにトレドによって礼拝堂の建設が始まり、マドリードのエル・エスコリアール修道院を手掛けた建築家フアン・デ・エレーラの手によって完成されます。数年後には、建築家フアン・デ・ミンハレスの指揮のもと、王宮本体の建設が始まりました。1598年、フェリペ2世が亡くなる時点では、礼拝堂を持つ南塔と、南側および西側正面(ファサード)の大部分が完成しています。
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ヴァイセンホフ・ジードルングの住宅

Maisons de la Weissenhof-Siedlung
ヴァイセンホフ・ジードルングの住宅
ドイツ南西部のシュトゥットガルトにあるヴァイセンホフ・ジードルングの住宅は、大量生産できる現代住宅のモデルとして、1927年に開催されたジードルング住宅建築展に出展されました。この建築展はミース・ファン・デル・ローエが開催したもので、当時ヨーロッパで注目されていた17人の建築家が招集されました。そのなかには、バウハウスを開設したヴァルター・グロピウスや、ベルリンのモダニズム公共住宅を設計したブルーノ・タウトなども含まれていました。ミース・ファン・デル・ローエは、建物の条件として堅牢かつ機能的であることと、労働者のニーズを満たし、平屋根であることなどを求めていました。
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ヴァティカン美術館

Vatican Museums / Musei Vaticani
ヴァティカン美術館
16世紀初頭に在位した第216代ローマ教皇ユリウス2世は、自身が所蔵する芸術作品を展示するために「ヴァティカン美術館」の基盤となる建物の整備を始めました。1503年、教皇は建築家ドナート・ブラマンテに、ヴァティカン宮殿の修築を依頼しました。この修築には、壮大な「ベルヴェデーレの中庭」とそれに隣接する「彫像の中庭」の建設が含まれていました。彫刻の中庭の壁に設けられたくぼみには、『ラオコーン』や『ベルヴェデーレのアポロン』といった傑作を含む、古代彫像の教皇コレクションが飾られました。こうしてこの場所が、今日のヴァティカン美術館の最初の展示室となったのです。
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ヴィエリチカ岩塩坑

Wieliczka Salt Mine / Kopalnia Soli Wieliczka
ヴィエリチカ岩塩坑
ポーランドの古都クラクフの南東15㎞に位置するヴィエリチカ岩塩坑は、13世紀頃から本格的な採掘が始まった岩塩採掘所です。2,000万年前は海だったこの場所は、地殻変動により長い年月をかけて広大な岩塩層へと変化しました。新石器時代は、ここから汲み上げられた塩水から塩が得られており、ヴィエリチカの近くにあるバリチ村から、中央ヨーロッパで最も古い製塩道具が発見されています。その後何世紀もの間、製塩技術は代々受け継がれ、製塩に携わる人々は専門的な職業集団を形成していきました。得られた塩は肉や魚の保存料として、さらに周辺地域に住む人々との交易の決済手段としても使われていました。11~12世紀頃、塩水の湧き出る量が減少したため、井戸を掘って塩水の捜索が開始されました。13世紀に入り、掘り進めていた井戸の1つから最初の岩塩の塊が偶然発見され、これにより採掘によって塩を得ることが可能になったのです。地下へと続く最初の坑道は、13世紀の後半から開削が始められています。12世紀末にポーランド王カジミエシュ2世がこの地に城塞を築き、14世紀に「大王」と呼ばれたカジミエシュ3世がヴィエリチカの採掘権を独占しました。岩塩の収益は当時のポーランド王国の財源の3分の1にもなり、その一部はポーランド最初の大学であるクラクフ大学設置に役立てられたとされています。1368年には製塩所条例が発布され、以後数十年にわたる岩塩坑の安定した発展につながりました。しかしながら、中世の岩塩採掘はまだ季節労働で、採掘は農作業が行われない月だけ行われていたため、15世紀の終わりまで、岩塩坑には4つの採掘坑道と1つの地下層しかありませんでした。その一方で、ヴィエリチカは観光地としても有名になっていました。記録に残る当時の観光客の一人は、ニコラウス・コペルニクスです。彼は1493年に岩塩坑を訪れており、この出来事を記念して、その名前が付けられた部屋には彼の塩の像が設置されています。
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ヴィエリチカ製塩所博物館

Cracow Saltworks Museum in Wieliczka / Muzeum Żup Krakowskich Wieliczka
ヴィエリチカ製塩所博物館
「ヴィエリチカ製塩所博物館」は1951年に、ポーランドの製塩業の歴史を守り、広く伝えることを目的として設立されました。坑夫たちの労働の歴史やヴィエリチカ岩塩坑を守っていこうという運動は、芸術家でありヴィエリチカの中学校教師でもあったアルフォンス・ドゥウゴシュによって始まりました。長年にわたり収集されたコレクションは、深さ135m、地下3層にある坑道内に地下博物館として展示されています。1966年にポーランド建国1,000年の記念事業の一環として、面積7,481㎡を持つヨーロッパ最大の地下博物館として一般公開されたのです。
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カーサ・ダモーレ

Casa d'Amore
カーサ・ダモーレ
カーサ・ダモーレは、アルベロベッロで初めてモルタルを用いて建てられた建造物です。かつてアルベロベッロでは、家屋に応じて税金が課されていたため、領主は恒久的な建物の建設を禁じ、すぐに解体できる建物を建てることで課税から逃れようとしていました。そのため、建物はモルタルを使わず、石を積み上げるだけの「乾式石積み(ドライストーン工法)」で建てられていました。1797年、ブルボン家のナポリ国王フェルディナンド4世によって、アルベロベッロが王立都市として認められると、フランチェスコ・ダモーレという人物が初めてモルタルを用いて家を建てました。カーサ・ダモーレの壁に刻まれたラテン語の碑文には、「王の許可によって最初に建てられた建物」と記されています。これ以降、トゥルッリやその他の建物は、この地域特有の赤土を混ぜて作られた「マルタ」と呼ばれるモルタルを使用して建てられるようになったのです。カーサ・ダモーレは、アルベロベッロにおける封建的な支配からの転換を象徴する建物です。
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カーサ・ペッツォッラ領土博物館

Museum of the Territory - Doctor Giacomo Pezzolla's house / Museo del Territorio Casa Dottor Giacomo Giuseppe Pezzolla
カーサ・ペッツォッラ領土博物館
「カーサ・ペッツォッラ領土博物館」の名前は、18世紀後半にアラゴン家のアクアヴィーヴァ伯爵の主治医を務めた、医師ジャコモ・ペッツォッラに由来しています。かつてペッツォッラの邸宅だったこの建物は、2つの部分で構成されています。ひとつは、正面部分が縦に細長く、上部に四角い飾り屋根を持つ、2階建ての比較的新しい建物です。もうひとつは、15棟の伝統的なトゥルッリが連なる最も古い部分です。博物館の展示からは、アルベロベッロの歴史をはじめ、主な農業生産活動、建築技術、そして住民の日常生活について学ぶことができます。
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カサ・ヴィセンス

Casa Vicens
カサ・ヴィセンス
カサ・ヴィセンスは、バルセロナの郊外グラシア地区にあります。1883年から1888年にかけて、通貨取引業者で株式仲買人のマヌエル・ヴィセンスと妻ドロルス・ヒラルトの夏の別荘として、若きガウディによって設計されました。この場所は当時グラシア村とよばれた農村でしたが、急速に都市化するバルセロナの労働者や中流階級の人々が移り住む地区として発展しました。30歳の若いガウディにとって初めての住宅建築であり、彼の建築家としての出発点ともいえる場所です。
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カサ・バトリョ

Casa Batlló
カサ・バトリョ
カサ・バトリョが立つバルセロナのグラシア通り43番地は、スペイン語で「地区」と「リンゴ」が同じ綴りであることから、「不和のリンゴ」と皮肉られる場所でした。当時成長しつつあった富裕層が競い合うように著名な建築家に設計を依頼し、ガウディのライバルとされたリュイス・ドメネク・モンタネールによるカサ・リュオ・モレラや、ジョセップ・プッチ・イ・カダファルクによるカサ・アマトレなど個性豊かな建物が並んでいます。もとの建物は1877年、建築家エミリ・サラ・コルテスによって建てられました。1903年、繊維業者のジョセップ・バトリョ・イ・カサノバスがこの建物を購入し、建築家アントニ・ガウディに色使いや外観も含めた大胆な改築を依頼しました。周囲の建物を意識しながらも独創的に設計されたカサ・バトリョは、「骨の家」「仮面の家」「ドラゴンの家」など、さまざまな愛称で親しまれる建物となりました。
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カサ・ミラ

Casa Milà "La Pedrera"
カサ・ミラ
カサ・ミラは建築家アントニ・ガウディが彼独自の手法を確立した円熟期にあたる1906年から1912年にかけて建設され、ガウディにとって最後の個人注文主による建築物となりました。バルセロナのグラシアス通りに、オーナーのペレ・ミラとロサリオ・セギモンの住居を1階に、2階から5階には王侯、外交官、起業家、俳優、芸術家、政治家、ジャーナリストなど多彩な人たちが住む賃貸用共同住宅として完成しました。しかし当初、カサ・ミラの革新性は理解されず、新聞にはカタルーニャ語で「ラ・ペドレーラ(石切り場)」と酷評され、その装飾が気に入らなかったロサリオ・セギモンは、ガウディの死後、自分の階の一部を取り壊すように命じたこともありました。スペイン内戦中に共和国政府に押収されて各部門の本部が置かれた時代もありましたが、現在は賃貸住宅やオフィス、店舗としての入居も行われ、博物館となっている最上階と屋上や住居部分の一部は見学することができます。
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嘉峪関

Jiayuguan
嘉峪関
「嘉峪関(かよくかん)」は甘粛省嘉峪関市に位置し、明代(1368~1644年)に築かれた「万里の長城」最西端の城塞です。最東端の「山海関」が「天下第一関」と呼ばれるのに対し、最西端の「嘉峪関」は「天下第一雄関」と呼ばれました。また、その堅固さから、延々と続く辺境の防衛線にがっちりと鍵をかけて守ることを意味する「連陲鎖鑰(れんすいさやく)」とも呼ばれました。シルク・ロードの交通の要衝、そして内城、外城、甕城(おうじょう)や城壕(じょうごう)からなる三重の防御施設を備えた軍事防衛拠点として、西域統治において重要な役割を果たしました。
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ギエット邸

Maison Guiette
ギエット邸
ベルギーのアントワープにあるギエット邸は、1926年に設計された画家ルネ・ギエットの住宅兼アトリエで、「レ・ププリエ(ポプラの家)」と呼ばれています。建築家ル・コルビュジエが海外で初めて受注した建築作品で、彼が提唱した住宅モデル「メゾン・シトロアン」を実際の住宅に表現した数少ない例のひとつです。「メゾン・シトロアン」は、建築部材の規格化と、「住宅は住むための機械である」という考えにもとづき、生活に必要な機能を建築に取り入れることを目指した住宅モデルです。一方、敷地が細長い形状だったこと、都市計画の規制があったこと、ギエット自身が1階で生活し庭へ直接出られる住まいを希望したことから、ル・コルビュジエ建築の特徴であるピロティは採用されませんでした。そのため、道路側にキッチンやトイレを配置した、独特の3階建て住宅になっています。
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クートネー国立公園

Kootenay National Park
クートネー国立公園
クートネー国立公園はカナダのブリティッシュコロンビア州に位置し、鉄道が通っていないこともあって比較的観光化されておらず、手つかずの大自然に触れることができる場所です。長い年月をかけて氷河が削り出した峡谷や、度重なる山火事を経て再生してきた草原が広がっています。アメリカ大陸分水嶺に連なる氷河に覆われた山々でのトレッキングだけではなく、乾燥したコロンビア渓谷の斜面に自生するサボテンを眺めながらのハイキングなど、多様な自然環境を体験することができます。
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グエル公園

Park Güell / Parc Güell
グエル公園
かつて禿山を意味するムンタニャ・ペラーダとよばれた場所にあるグエル公園は、当初は公園としてではなく、富裕な人々への住宅地を建設する民間プロジェクトとして整備されました。実業家エウゼビ・グエルはイギリスのような公園住宅の設計を建築家アントニ・ガウディに依頼し、地形に合わせて道路、高架橋、階段などが整備され、約60区画の住宅地が設けられました。1900年に工事が開始され、ガウディは敷地内に生えていたオリーブなどの植物をそのまま活かし、住宅には海を臨む眺望を遮らない高さと周囲への日当たりにも配慮するなど、厳しい建築条件を定めました。住宅区画を最初に購入したのは、グエルの友人で弁護士のマルティ・トリアス・イ・ドメネクでした。ガウディ自身も、1906年に父親と姪と一緒に暮らすためにここへ移住しています。しかしバルセロナ中心部から遠く上り坂がある住宅の購入者は集まらず、1914年に工事は中止され、実際に建設された住宅は60戸のうち2戸だけでした。グエルの死後、この場所はバルセロナ市に売却され、1926年に市立公園として開園しました。公園内にあるガウディの家は、1963年にガウディ博物館として一般公開されています。
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グエル邸

Güell Palace / Palau Güell
グエル邸
グエル邸は、1886年から1890年にかけて、バルセロナ中心部に実業家エウゼビ・グエル一家の住居と当時の富裕層が集まる社交空間として、建築家アントニ・ガウディによって設計されました。1918年のグエルの死後、邸宅は未亡人や相続人たちに受け継がれたのち、スペイン内戦中は警察署として使われた時期もありました。1944年アメリカの大富豪から邸宅の石材を一つずつ解体して自国に移築したいという申し出がありましたが、1945年グエルの末娘であるメルセ・イ・ロペスは、終身年金と建物を保存して文化的目的で使用する条件で邸宅をバルセロナ州議会に寄贈しました。
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グリーニッケ宮殿

Glienicke Villa / Schloss Glienicke
グリーニッケ宮殿
ベルリンの「グリーニッケ宮殿」は、木々が生い茂る丘からハーフェル川へと緩やかに広がる緑地にあります。この地にはもとは、造園家ペーター・ヨーゼフ・レネが、前の所有者であるカール・アウグスト・フュルスト・フォン・ハルデンベルク侯爵のために手がけた見事な庭園が広がっていました。1823年、初めてのイタリア訪問からベルリンへと帰国した当時21歳のプロイセンのカール王子は、砂だらけで不毛なこの土地に南国を思わせるイタリア風別荘を建てるという夢を抱き、それをこの地で実現させたのです。1824年、建築家カール・フリードリヒ・シンケルの設計により、グリーニッケには、宮殿やカジノ、大小の東屋(ノイギーアデ)といった古典主義的な建物が古代様式で建てられました。調和を重んじて建てられた建物と、カール王子が熱心に収集した数多くの古代芸術品は、この宮殿に地中海地方を思わせるたたずまいをもたらしています。
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クルチェット邸

Maison du Docteur Curutchet
クルチェット邸
1949~1953年にアルゼンチンのブエノスアイレス州ラ・プラタに建設されたクルチェット邸は、第二次世界大戦後の建築家ル・コルビュジエを代表する重要な作品です。この設計を依頼したのは、アルゼンチン人外科医のペドロ・ドミンゴ・クルチェットです。彼は優秀な医師であり、音楽・絵画・文学に造詣の深い教養人でもありました。クルチェットは外科クリニックを開業するにあたり、単に診療所付き住宅を求めるのではなく、「新しい時代の住まいのあり方」を表現できる建築家として、ル・コルビュジエに設計を依頼しました。敷地は小さいながらも公園に面した恵まれた場所で、この計画に魅力を感じたル・コルビュジエは、クルチェットに宛てた手紙の中で、「シンプルで、敷地や用途に適切に応えた、調和のある小さな傑作をつくる」と伝えています。
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迎賓館(メフマーン・ハーナ)(タージ・マハル)

Taj Mahal Mehmaan khana
迎賓館(メフマーン・ハーナ)(タージ・マハル)
白大理石の霊廟が位置する台座の両側には、ほぼ同じ形をした赤砂岩の建物が2つ並び、白と赤の美しく鮮やかな色彩のコントラストを生み出しています。庭園から向かって左の西側は「モスク」、右の東側は「メフマーン・ハーナ」と呼ばれる迎賓館です。これらはまったく同じ外観をしており、まるで鏡のように完璧な左右対称の構造をしています。当初、メフマーン・ハーナは、ムムターズ・マハルの命日に霊廟を参拝する賓客を受け入れるための施設として使われていました。建物が完成するまでの数年間は、臨時のテントで賓客の受け入れが行われていましたが、完成後はこの迎賓館がその役割を担うようになりました。この建物の床面には、霊廟ドームを描いた2枚の設計図が刻まれていることでも知られています。モスクとメフマーン・ハーナは、どちらもテラスから約64cm高い基壇の上に立っています。この基壇と中央の霊廟の間は、長方形のくぼんだ中庭のようになっており、モスク側の中庭には、礼拝前に手足を清めるために使う水槽が設けられています。一方、メフマーン・ハーナ側にも同様の水槽が置かれていますが、こちらは実用的な機能を持たず、完璧な左右対称の美しさを表現するためだけものです。
地域: 西・南アジア / 国名: インド / 遺産名: タージ・マハル
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国民劇場(プラハ)

National Theatre / Národní Divadlo
国民劇場(プラハ)
「国民劇場」は、チェコ国民によって建設資金が集められた、民族のアイデンティティと独立の意志を象徴する建物です。1844年、国民の手によってプラハに壮麗な劇場を建設するという構想が提起されました。実際に募金活動が開始されたのは1851年のことです。その1年後、最初の募金により小さな製塩所跡地を購入します。これにより、プラハ城を望むヴルタヴァ川のほとりで劇場建設が始まったのです。しかし、その狭い敷地と台形の形状は、建築家たちにとって大きな課題となりました。その後、ボヘミアがオーストリアの専制支配を受けた時代には、国民劇場建設が中断され、当初の構想からより簡素な建物への設計変更が行われました。1862年、建築家イグナーツ・ウルマンの設計によって、敷地の南側に建てられた「仮劇場」が開場します。この仮劇場の建物は、後に現在の国民劇場の一部となり、その外壁は劇場の後方に今も見ることができます。
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国立西洋美術館

The National Museum of Western Art / Musée National des Beaux-Arts de l’Occident
国立西洋美術館
国立西洋美術館は東京の上野恩賜公園内にあり、実業家松方幸次郎が収集した美術品コレクション(松方コレクション)を基礎に、西洋美術作品を収蔵・展示するために建設されました。第二次世界大戦末期、松方コレクションはフランス政府に接収されていましたが、1953年に日本へ寄贈返還されることとなります。その際、フランス政府は返還の条件として、新たな美術館を建設することを求めました。これに応えるため、フランスの建築家ル・コルビュジエの基本設計をもとに、彼の弟子である前川國男、坂倉準三、吉阪隆正によって日本で実施設計が行われました。1959年に完成した国立西洋美術館は、近代建築の巨匠ル・コルビュジエによる日本唯一の作品であり、その後の日本現代建築にも大きな影響を与えたのです。
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コロニア・グエル教会地下礼拝堂

Church Colònia Güell / Cripta de la Colònia Güell
コロニア・グエル教会地下礼拝堂
コロニア・グエル教会地下礼拝堂は、バルセロナ市の郊外サンタ・コロマ・ダ・サルバリョにあります。繊維業で成功を収めていたエウゼビ・グエルは、自身の工場をこの場所に移転し、それに伴って工場労働者のための住居や学校、商店、劇場、教会など、街を丸ごとつくる計画を立てました。フランセスク・ベレンゲーやジョアン・ルビオなど、カタルーニャ出身の建築家が街の設計に参加し、その中で教会を任されたのがアントニ・ガウディでした。ガウディは、1898年の設計依頼から、教会の模型を作るのに10年を費やし、実際の建設工事に着手したのは1908年でした。しかし着工から6年後に依頼主のグエルが亡くなると、その跡を継いだ息子たちは教会の建設には消極的でした。さらに、ガウディ自身もサグラダ・ファミリアの建設に専念し始めていたため、完成したのは地下礼拝堂にとどまり、教会全体は未完成に終わってしまいました。
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サヴォワ邸と庭師小屋

Villa Savoye et loge du jardinier
サヴォワ邸と庭師小屋
1928年、ピエール・サヴォワとウジェニー・サヴォワ夫妻は、パリ郊外のポワシーに週末を過ごすための別荘を建てることを決めました。彼らは、当時すでに前衛的な作品で知られていた建築家ル・コルビュジエに別荘の建築を依頼しました。その依頼はサヴォワ夫人からル・コルビュジエに宛てた手紙によって行われ、そこには温水設備、電気やガスの設備、照明の雰囲気や床材の指定など細かな要望が具体的に記されていました。この建築には、ル・コルビュジエの従兄弟であるピエール・ジャンヌレも協力しました。当時のポワシーはのどかな田園地帯で、別荘の敷地はセーヌ川を望む木々に囲まれた広大な草地でした。ル・コルビュジエはこの自然環境をできるだけ損なわないように、「家は草地の上に、何も乱すことなく置かれた物体のように存在するべきだ」と考え建築に取り組んだのです。
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サグラダ・ファミリア贖罪聖堂

Expiatory Temple of the Sagrada Família / Temple Expiatori de la Sagrada Família
サグラダ・ファミリア贖罪聖堂
サグラダ・ファミリア(聖家族贖罪教会)は、建築家アントニ・ガウディが世界的に知られるきっかけとなった代表作であり、バルセロナを象徴する建物です。建設は1882年に始まり、当初は建築家フランシスコ・デ・パウラ・ヴィラールが、ネオゴシック様式を取り入れて後陣の地下礼拝堂から建設工事を進めていました。しかし、資金面での意見対立からヴィラールが解任されると、その後をガウディが設計と建設を引き継ぎました。当時、建築家として頭角をあらわしはじめていたガウディは、地下礼拝堂を完成させた後、教会全体の設計を従来のネオゴシック様式から新しく革新的で壮大なものへと大幅に変更しました。
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山海関

Shanhaiguan
山海関
「山海関」は河北省秦皇島市に位置し、中国本土を北方遊牧民の侵入から守る「万里の長城」の最も東にある城塞です。明代(1368~1644年)に築かれた万里の長城の東の起点であり、その戦略的な立地、強固な防衛機能、壮大な規模から「天下第一関」としても知られています。「山海関」という名前は、北の燕山山脈と南の渤海との間に築かれたという、特徴的な地理的要因に由来しています。かつては城塞の四方の門に「甕城(おうじょう)」とよばれる半円形の出城があり、関所の周囲に二重の防御線を作り鉄壁の守りを誇っていました。現在は、東門の甕城のみを見ることができます。ここには、「鎮東楼」をはじめとする5つの防衛拠点が配置され、それらは国境を守る「五虎」と称されていました。
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ジャスパー国立公園

Jasper National Park
ジャスパー国立公園
ジャスパー国立公園は、1930年にカナダの国立公園に指定されました。3,000m級の山々に守られた公園内には、現在でも人の手がほとんど入っていない土地が約70%も残されており、そびえ立つ山々や氷河、美しい氷河湖や水量が豊かな滝など、雄大な自然が広がっています。そのスケールは、バンフ国立公園をもしのぐとも言われています。ジャスパー国立公園の面積は約11,228㎢で、カナディアン・ロッキー山脈に位置するカナダ最大の国立公園です。また、街の明かりなどの人工的な光が少なく夜空がとても暗いことから、世界有数の星空保護区としても知られています。美しい星空を楽しむためのジャスパー・ダークスカイ・フェスティバルが、毎年10月に開催されています。
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シャルロッテンホーフ宮殿

Charlottenhof Villa / Schloss Charlottenhof
シャルロッテンホーフ宮殿
サンスーシ宮殿の南西には、新古典主義様式で建てられた小さな「シャルロッテンフォーフ宮殿」があります。1825年、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、皇太子フリードリヒ・ヴィルヘルム4世とその妻エリザベート・フォン・バイエルンへのクリスマスプレゼントとして、サンスーシ公園南西の土地を購入しました。1826年から1829年にかけて、皇太子夫妻の命を受けた建築家カール・フリードリヒ・シンケルと造園家ペーター・ヨーゼフ・レンネによって、この土地にあった邸宅は、イギリス庭園を持つ平屋建ての古典主義様式の夏の宮殿へと改築されました。
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新宮殿(ポツダム)

New Palace / Neues Palais
新宮殿(ポツダム)
ポツダムのサンスーシ公園内にある「新宮殿」は、1763年から1769年にかけて、プロイセンのフリードリヒ2世が建設を命じた、彼にとって最後の宮殿です。公園のメインストリートの西端に位置し、サンスーシ宮殿群の中で最も大きな規模の建物です。フリードリヒ2世の依頼を受け、建築家ヨハン・ゴットフリート・ビューリングとハインリヒ・ルートヴィヒ・マンガー、カール・フォン・ゴンタルトらが設計を手がけました。質素なサンスーシ宮殿とは対照的に、七年戦争後のプロイセンの強大な国力を誇示する目的で建てられたため、そびえ立つドームを持つその姿は、フランスの宮殿を彷彿とさせる壮麗な外観となっています。
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シントラ宮殿

Sintra Palace / Palácio Nacional de Sintra
シントラ宮殿
ポルトガル最古の歴史を持つ「シントラ宮殿」は、街の中心に位置し、厨房の上にそびえる2本の巨大な円錐形煙突が特徴的です。現在の宮殿は、何世紀にもわたって建設や増築、改築が繰り返され、複数の王宮が融合してできたものです。最古の宮殿の正確な創建年は分かっていませんが、おそらく最初の建物は、この地が北アフリカからやってきたイスラム教徒ムーア人の支配下にあった、10世紀から11世紀頃に建てられたと考えられています。1147年、アフォンソ・エンリケスによってリスボンが征服されると、シントラを支配していたムーア人勢力であるムラービト朝は降伏し、3世紀以上に及んだその支配に終止符が打たれました。現在の宮殿がある場所は、当時「オリーブの平地」と呼ばれており、ムーア人総督の邸宅が建っていたと考えられていますが、その遺構はいまだ発見されていません。
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ストラホフ修道院

Strahov Monastery / Strahovský klášter
ストラホフ修道院
1143年、ボヘミア公ウラディスラフ2世とオロモウツのジンドリフ・ズディーク司教によって、プレモントレ会の男性修道院が設立されました。これが「ストラホフ修道院」で、ここで生活する修道士たちは、その衣服から「白き修道士」と呼ばれ、チェコの精神的・文化的発展に不可欠な存在となりました。ストラホフ修道院は、創設当時「シオン」と呼ばれていましたが、後に現在の地名であるストラホフとして知られるようになります。また、1627年には、修道院の大聖堂にプレモントレ会の創始者である聖ノルベルトの遺骨が移されています。このように長い歴史を持つストラホフ修道院ですが、近現代には大きな試練を迎えます。1948年から1989年までの約41年間、チェコは共産党政権の時代に入ると、宗教への弾圧が強まります。1950年、修道院は閉鎖され、多くの修道士たちは投獄されました。共産党政権崩壊後の1990年、修道院は再びプレモントレ会に返還され現在に至っています。
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