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アヤ・ソフィア(ハギア・ソフィア)
Hagia Sophia / Ayasofya
スルタンアフメト地区に立つアヤ・ソフィアは、ビザンツ建築の最高傑作と評され、オスマン建築に多大な影響を与えた建造物です。建築技術の高さ、壮麗なモザイク装飾など建築・芸術の面だけでなく、キリスト教とイスラム教の宗教的な面においても、きわめて重要な意味をもっています。元来はギリシャ語で「聖なる叡智」を意味する「ハギア・ソフィア」と呼ばれていました。歴史的には、キリスト教を公認したローマ皇帝コンスタンティヌス1世の息子であるコンスタンティウス2世が360年に建てた礼拝堂を前身としています。この礼拝堂は404年に焼失し、415年に再建されましたが、532年にユスティニアヌス1世に対して市民が蜂起したニカの乱によって再び焼失しました。ユスティニアヌス1世は動乱鎮圧後、すぐに再建を開始し、537年にアヤ・ソフィアを完成させました。1204~1261年の第4回十字軍に伴うラテン帝国成立期には、一時カトリック教会として使用された時期もありますが、約1,000年にわたりギリシャ正教会の総本山として信仰を集めました。
サン・ピエトロ広場
St. Peter's Square / Piazza San Pietro
サン・ピエトロ広場は、サン・ピエトロ大聖堂の目の前に広がる広場です。17世紀に、教皇アレクサンデル7世の命を受けて、建築家ジャン・ロレンツォ・ベルニーニが設計し、1667年に完成しました。広場は上空から見ると鍵穴のような形をしています。半円形の回廊が大聖堂のファサードまで連なっており、訪れる人々を包み込むような構成となっています。回廊には高さ約16mの柱が4列にわたって計284本立ち、その上には140体の聖人の像が置かれています。広場の中央には、古代エジプトのオベリスクがそびえ、その頂上には、十字架が備え付けられています。このオベリスクは、1世紀頃にこの地に存在した円形闘技場に置かれていたもので、西暦64年にネロ帝によって殉教した聖ペテロやキリスト教徒を想起させるものとなっています。
スルタンアフメト・モスク
Sultan Ahmed Mosque / Sultan Ahmet Camii
イスタンブルの歴史地区として登録されている4つのエリアのうち、もっとも海側に位置するのが、スルタンアフメト・モスク地区です。その中心となるスルタンアフメト・モスクは、1609~1616年(1617年とも)に建設されました。建設を命じたのは、当時19歳だったオスマン帝国第14代スルタンのアフメト1世です。一説には、他のスルタンのように軍事的な勝利を収めることのできなかったアフメト1世が、自身の権威を誇示するために建設を始めたとも言われています。流れるように連なる大小のドームと、6つのミナレットを備えるこのモスクは、イスタンブルのスカイラインでひときわ大きな存在感を放っていますが、最も特筆すべきは壮麗な内部空間です。内部は青いタイルで装飾されており、その美しさから「ブルー・モスク」とも呼ばれています。
スレイマニエ・モスク
Süleymaniye Mosque / Süleymaniye Camii
聖墳墓教会
The Church of the Holy Sepulchre
聖墳墓教会は、イエスの墓とされる場所に立つ教会です。1世紀初頭、イエスは現在のイスラエル北部にあたるガリラヤ地域で伝道を行っていたとされます。ユダヤ教を指導していた伝統的な祭司や、律法を厳格に遵守するパリサイ派を形式主義として批判しました。パリサイ派を含む宗教指導者層の一部などは、イエスがローマ帝国への反逆分子であるとして、当時のユダヤ属州総督ポンテオ・ピラトに訴えました。そして西暦30年ごろ、イエスはエルサレムで死刑判決を受け、当時最も重い刑罰であった十字架刑に処されました。磔刑が執行されたゴルゴタの丘は、ユダヤ戦争やローマ帝国の支配によって場所が分からなくなっていましたが、326年にローマ皇帝のコンスタンティヌス帝の母ヘレナによって特定され、コンスタンティヌス帝の命で335年に最初の聖墳墓教会が建てられました。7世紀にエルサレムがイスラム勢力の支配下に置かれた際、第2代正統カリフのウマルは教会の破壊や転用を禁じましたが、1009年にファーティマ朝のカリフ、アル・ハーキムによって破壊されてしまいます。そこから約100年後となる1099年、エルサレムを占領した第一回十字軍がロマネスク様式の聖堂を建設し、聖墳墓教会を再建しました。1187年、サラディンによってエルサレムが奪還された後も教会は存続し、現在に至るまでイスラム教徒の一族が鍵と扉の管理を担っています。
ゼイレク・モスク
Molla Zeyrek Mosque / Molla Zeyrek Camii
ゼイレク・モスクは、ビザンツ皇帝のヨハネス2世コムネノス(在位:1118~1143年)と、その最初の皇后であるエイレーネーによって、1118~1136年にかけて建設されたパントクラトール(全能者ハリストス)修道院の一部を前身としています。南側のパントクラトール教会と、北側の生神女教会、両者を結ぶ礼拝堂で構成されていました。修道院には図書館や病院が含まれ、礼拝堂にはヨハネス2世コムネノスをはじめとするコムネノス朝やパレオロゴス朝の皇帝が埋葬されるなど、宗教儀礼、医療、教育の場を兼ね備えていたようです。しかし、1204~1261年のラテン帝国期には、パントクラトール修道院が所蔵していた多くの聖遺物や聖具がヴェネツィアへと持ち去られ、建物も大きな損傷を受けました。
地下宮殿
Basilica Cistern / Yerebatan Sarnıcı
スルタンアフメト地区アヤ・ソフィアのすぐ近くに、ビザンツ帝国時代の貯水池としては現存最大規模を誇る地下貯水池があります。ビザンツ皇帝ユスティニアヌス1世(在位:527~567年)が築いたもので、長さ約140 m、幅約70mの長方形の空間に、多数の柱がそびえる様子が宮殿のように見えることから、トルコ語では「イェレバタン・サラユ」(地下宮殿)とも呼ばれています。高さ9mの大理石の柱は合計336本、28本ずつ12列にわたり均等な間隔で立ち並んでいます。メドゥーサの頭が彫られた土台が据えられた柱や、コリント様式の柱頭をもつものなどさまざまです。この貯水池は面積1万㎡、貯水量はおよそ8万tもあり、ビザンツ帝国時代は宮殿とその周辺の建物に水を供給していたと考えられています。1950年代以降に修復工事が複数回を行われ、1987年に一般公開されるようになりました。
テオドシウスの城壁
Theodosian Walls / Theodosius Surları
北の金閣湾と南のマルマラ海を結ぶように、全長約6kmにわたって延びる「テオドシウスの城壁」は、ローマ皇帝テオドシウス2世の治世下の413年に築かれた城壁です。イスタンブル旧市街は三方を海に面していますが、街の西側は陸続きのため攻め入れられる可能性がありました。この弱点を克服するために建設されたのが城壁で、古くは4世紀のコンスタンティヌス1世の時代に遡り、「テオドシウスの城壁」はさらにその西側にあります。テオドシウス2世の父アルカディウスの治世下にあたる404年頃から始まったようです。413年に完成しますが、447年の大地震で深刻な被害を受けました。ちょうどそのころ、アッティラ率いるフン族がイスタンブルまで迫っており、わずか60日で城壁の修復作業が行われたと伝わっています。
トプカプ宮殿
Topkapı Palace / Topkapı Sarayı
嘆きの壁
Western Wall
紀元前1000年ごろ、古代イスラエル王国の第2代王ダヴィデは、エルサレムを都としました。続くダヴィデの息子ソロモンは、紀元前965年ごろに現在「神殿の丘(ハラム・アッシャリーフ)」と呼ばれるモリヤの丘に、エルサレム神殿(第一神殿)を建設しました。この神殿には、ユダヤ教の律法の戒律「十戒」を記した石板を収めるための「契約の櫃」が置かれていました。「十戒」は、紀元前13世紀頃にヘブライ人の指導者モーセが神から授けられたとされるものです。元は遊牧民族であったヘブライ人は、『旧約聖書』によると紀元前1500年頃にパレスチナの地に定住し、一部はエジプトへと進出しましたが、エジプトのファラオによって迫害を受けて奴隷とされていました。モーセはヘブライ人を導いてエジプトを脱出(出エジプト)し、シナイ山で十戒の石板を与えられたと言われています。この出来事は、一神教と偶像崇拝の禁止を特徴とするユダヤ教の成立に大きく寄与したと考えられています。十戒を収めた神殿の最奥部は、大祭司が年に一度特別な儀式を行うことでしか入れない場所で、最も神聖な空間でした。
ブダ城地区
Buda Castle Quarter / Budai Várnegyed