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アズハル・モスク
Al-Azhar Mosque
972年、ファーティマ朝時代に建設されたモスクです。当初は質素なデザインで、中庭と列柱を多用した当時の典型的なモスクでしたが、その後の統治者により拡張工事が行われ、現在の規模となりました。カイロは、ファーティマ朝によってイスラム勢力の政治・経済・宗教の中心地へと発展していき、アズハル・モスクもイスラム神学やイスラム法研究の拠点となりました。1171年にファーティマ朝がアイユーブ朝によって打倒されると、金曜モスクとしての地位を失いましたが、マムルーク朝支配下の1266年に、再びモスクでの説教が復活され、規模も拡大されました。その後のオスマン帝国の時代にも、大規模な拡張が行われ、各時代の様式が組み合わされ混在するという、カイロの豊かなイスラムの歴史を反映したモスクです。各ミナレットが少し不揃いなのも、各時代の寄進者によりバラバラに建てられてきたことが理由です。
アムル・イブン・アル・アース・モスク
‘Amr ibn al-‘As Mosque
イブン・トゥールーン・モスク
Ahmad Ibn Tulun Mosque
アッバース朝よりエジプト総督に任じられたアフマド・イブン・トゥールーンは、軍隊を率いてエジプト入りした後、単に総督としての地位に飽き足らずに、一種の独立政権(トゥールーン朝)を確立しました。そして、それまでのフスタートの町が人口の増加で手狭になってきたのを機会に、その北東に新たにアル・カターイーの町を建設し、行政の首都としました。879年、アル・カターイーの主要な集会モスクとして建設されたのが、「イブン・トゥールーンのモスク」です。モスク本体は123m×140mの規模、中庭は90㎡の正方形で、四方を列柱アーチ式の回廊が囲んでいます。当時としては先端の建築技術で建設されたようですが、様式としては、中庭を囲む回廊や外階段のついたミナレットなど、メディナの「預言者のモスク」以来の古典的建築様式を踏襲しており、イブン・トゥールーンが若い頃滞在したアッバース朝の首都サーマッラーの大モスクの影響も色濃く現れています。
王家の谷
Valley of the Kings
古代エジプトの人々は、ナイル川の東岸を「生者の都」とし、西岸を「死者の都(ネクロポリス)」と考えていました。その西岸に王たちが墓を造るようになったのは紀元前1520年頃のことなのですが、過去にピラミッドで盗掘が目立ったこともあり、その建設は当初、秘密裏で行われていました。トトメス1世の墓の建設に関わった高官の碑文からも、そのことがうかがえるのが興味深いです。また、墓づくりの職人の集落がやがて出来、兵士が墓守をしていたことから、新王国時代(紀元前1550年頃~前1070年頃)の末期までは王墓群は盗掘から守られていたようです。今となっては、トトメス1世からラメセス11世までの約60の王墓が発見されていますが、全ての墓が発見されたというわけではありません。なお、「王家の谷」という名称はフランスの考古学者であるシャンポリオンが名付けました。実際には王以外の王族も埋葬されることがありました。
王妃の谷
Valley of the Queens
カルナク神殿
Karnak Temple
スルタン・ハサン・モスクとマドラサ
Mosque and Madrasa of Sultan Hasan
カイロの「イスラム地区」と呼ばれる旧市街で、サラディンの城塞(シダデル)の手前にある巨大な建造物です。14世紀にマムルーク朝のスルタンであったナースィル・ハサンが建設し、1363年に完成しました。その巨大さは、高さ55mのドームや、カイロで最大のミナレット(高さ80m)を見ればよくわかります。一説には、建材にギザのピラミッドの表面を覆っていた化粧石板が使われたと言われています。また、その規模だけでなく、繊細な内部装飾や黄金で飾られたミフラーブなど、イスラム芸術の粋を集めた美しさで見どころ満載です。しかし、この建物の完成の直前にスルタン・ハサンは暗殺されてしまい、彼はこの壮麗な建物の完成を見ることはできませんでした。彼の棺もここに納められています。
ハーン・ハリーリ
Khan El-Khalili
ハトシェプスト女王葬祭殿
Hatshepsut Temple
ナイル川西岸にあるハトシェプスト女王葬祭殿は、新王国時代第18王朝のハトシェプスト女王(在位:紀元前1473年頃~前1458年頃)が治世7年目から約15年かけてつくった葬祭殿です。ハトシェプスト女王は、王家の谷に初めて墓を築いたトトメス1世の娘であり、トトメス2世の妃でもありました。彼女は夫の死後、トトメス3世の摂政となるのですが、やがて自らをファラオと名乗り、約20年間にわたってエジプトを支配しました。古代エジプトでは、「ファラオは男性がなるもの」という伝統があったので、これは極めて異例の事態でした。そこで、彼女は公の場に出るときは顎髭をつけたりして、男装をしていたと言われています。彼女の死後、トトメス3世は積年の恨みを晴らすため、葬祭殿にあった男装の女王の立像を破壊し、女王にまつわるレリーフを削ったと言われています。キリスト教が伝わると葬祭殿はコプト教の修道院として利用され、現在一帯はアラビア語で「北の修道院」を意味する「デイル・エル・バハリ」と呼ばれています。
ラメセス2世葬祭殿(ラメセウム)
Temple of Ramses II (Ramesseum)
ナイル川西岸にあるラメセス2世葬祭殿は、新王国時代の第19王朝のファラオ・ラメセス2世が建設した葬祭殿です。ラメセス2世は紀元前1279年頃に即位し、90歳を超えるまで約70年にもわたってエジプトを統治しました。この葬祭殿の建築に必要とした労働者は約3,000人以上と言われており、着工から約20年で完成したと言われています。葬祭殿は、王の葬祭だけでなく生前の儀式にも使われていたと考えられています。ヒエログリフを解読したことでも知られる、フランスの古代エジプト学者シャンポリオンは、ラメセス2世葬祭殿を「ラメセウム」と呼び、「テーベで最も高貴にして典雅な建物」と称えました。今でもその威厳ある葬祭殿を拝むことができます。
ルクソール神殿
Luxor Temple
ルクソール神殿は、エジプト最大の神殿であるカルナク神殿に付属する副神殿です。カルナク神殿の南西約3kmに位置しています。副神殿でありながら、重要な祭礼の舞台でもあり、「南の聖域」を意味する「イペト・レスィト」と呼ばれていました。神殿は、新王国時代のアメンホテプ3世(在位:紀元前1390年頃~前1352年頃)により造営され、その後ラメセス2世(在位:紀元前1279年頃~前1213 年頃)により大改築が行われました。第一塔門には、ラメセス2世が築いた高さ25mの巨大なオベリスクが立っています。元々は2本ありましたが、現地に残るのは1本のみです。もう1本は19世紀にフランスに贈られ、現在も遥か遠くのパリのコンコルド広場に存在しています。神殿内にはアメンホテプ3世やラメセス2世の中庭、大列柱廊などがあります。「誕生の間」には、アメンホテプ3世が、トトメス4世(在位:紀元前1400年頃~1390年頃)に変装したアメン・ラー神から誕生したという内容のレリーフが刻まれており、自らの権威を示すものとなっています。神殿は、古代ローマ帝国時代には皇帝崇拝の礼拝堂が築かれ、レリーフの上にフレスコ画が描かれました。また、イスラム教が興ってからはモスクとしても利用されました。