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イタリア共和国 | 構成資産・みどころ一覧

ヴェッキオ宮殿

Palazzo Vecchio
ヴェッキオ宮殿
ヴェッキオ宮殿は、アルノルフォ・ディ・カンビオの設計で1298年から建設が始まりました。ローマ教皇を支持するゲルフ(教皇派)に敗れた、神聖ローマ皇帝を支持するギベリン(皇帝派)の貴族の邸宅跡に建てられたプリオーリ宮殿(政務官の宮殿)を増築する形で建設され、権力の象徴として建てられた高くそびえる塔はアルノルフォの塔とも呼ばれます。シニョーリア宮殿(領主の宮殿)と呼ばれていましたが、1540年からコジモ1世の邸宅として使用され、新たにピッティ宮殿が建設されてコジモ1世がそちらに移ってからは、ヴェッキオ宮殿(古い宮殿)と呼ばれるようになりました。
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ウフィツィ美術館

Galleria degli Uffizi
ウフィツィ美術館
コジモ1世は、フィレンツェのさまざまな場所に点在していた行政機関を一カ所にまとめることを目的に、ジョルジョ・ヴァザーリに行政庁舎の建設計画を依頼します。1560年に始まった建設は、13の事務所が集められ1580年に完成しました。ウフィッツィというのは、イタリア語のオフィス(ウフィッチオ)の複数形です。コジモ1世はヴェッキオ宮殿とピッティ宮殿を結ぶ回廊の建設も命じ、1565年にはフランソワ1世とジョアンナの結婚を記念してウフィッツィとピッティ宮殿を結ぶヴァザーリの回廊も建設されました。フランチェスコ1世はウフィッツィの最上階を美術品の展示スペースとし、フランチェスコ1世の後を継いだ弟のフェルディナンド1世は、コジモ1世の遺言に従い肖像画コレクションをヴェッキオ宮殿からウフィッツィに移しました。1737年にメディチ家のジャン・ガストーネ大公が後継者を残さずに亡くなると、妹のアンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチは「メディチ家の財産はフィレンツェのもの」として美術品コレクションの全てをフィレンツェ市に遺贈し、ウフィッツィ美術館として公開されています。
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カンピドーリオの丘

Campidoglio
カンピドーリオの丘
ローマの七丘の1つであるカンピドーリオの丘には、イタリアを代表する広場の1つであるカンピドーリオ広場があります。世界で最も美しい広場とも称されるこの広場は、16世紀前半にミケランジェロ・ブオナローティによって設計されたものです。ローマの都市再開発の一環として設計され、広場の正面の石段の延長線上に、ヴァティカン市国のサン・ピエトロ大聖堂が来るように配置が工夫されています。広場はヌオーヴォ宮殿(現在のカピトリーノ美術館)とセナトリオ宮殿(現在の市庁舎)、コンセルヴァトーリ宮殿に囲まれており、ミケランジェロがデザインした特徴的な舗装は、通貨ユーロの50セントコインのデザインにも採用されています。
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コロッセウム

Colosseum
コロッセウム
暴君として知られたローマ帝国皇帝ネロが68年に帝位を追われた後、ローマは内戦状態にありました。69年に皇帝となったウェスパシアヌスは、ローマ市民の不満のはけ口となる娯楽の場を与える意味もあり、ネロ帝の宮殿「ドムス・アウレア」の庭園跡地に新しい円形闘技場の建設を決めます。70年から始まった円形闘技場の建設は、次の皇帝ティトゥスの時代まで続き、80年に完成しました。当初は、ウェスパシアヌス帝が開いたフラウィウス朝に因んで「フラウィウス円形闘技場」と呼ばれていました。しかし、円形闘技場の近くにネロ帝の巨大なブロンズ像「コロッセオ・ディ・ネローネ(ネロの巨像)」が立っていたことから、いつからか「コロッセウム」と呼ばれるようになりました。ネロ帝は暴君として知られますが、一部の市民からは死後も根強い人気があったそうです。
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サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂

Cattedrale di Santa Maria del Fiore
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂
フィレンツェのシンボルでもあるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の名前は、「花の聖母マリア大聖堂」という意味で、地名のフィレンツェ(英語名フローレンス)のラテン語の語源「フロレンス(花が咲いた)」と、都市の紋章に用いられているユリの花に由来しています。世界最大級の聖堂の1つで、大聖堂の全長は153m、高さは92mもあります。1296年から、古い教会堂があった場所の上で新たな大聖堂の建設が始まりました。アルノルフォ・ディ・カンビオの設計に従いゴシック様式で建築が進められ、14世紀中ごろからフランチェスコ・タレンティによって拡張されて現在みられる大聖堂の基本形が完成しました。現在は3つの身廊を持つ三廊式バシリカと八角形のサン・ジョヴァンニ礼拝堂、ジョットの鐘楼で構成されています。
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サン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ聖堂

Basilica di San Paolo fuori le mura
サン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ聖堂
「アウレリアヌスの城壁」の外側、約2kmに位置する「城壁の外の聖パウロ聖堂」という名の聖堂で、ヴァティカン市国に属します。もともとの聖堂はコンスタンティヌス帝によって330年頃に建てられましたが、多くの巡礼者が訪れるには小さすぎたため、テオドシウス1世とウァレンティニアヌス2世、アルカディウスの3人の皇帝によって380年頃に再建されました。聖パウロが埋葬された場所に建てられており、墓は教皇の祭壇の下にあります。聖パウロは、聖ペテロと共に、ローマの大火の後のネロ帝の迫害によって殉教しました。
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パンテオン

Pantheon
パンテオン
パンテオンはもともと、紀元前27年にアグリッパが建設した、全ての神々を祀る「万神殿」でした。80年と110年の火災で焼失してしまいましたが、128年にハドリアヌス帝によって再建されました。ファサード(建物正面)はギリシャ神殿を思わせるような八柱式の作りですが、建物はローマン・コンクリートで作られたロトンダと呼ばれる円堂の上に、ローマ建築の特徴であるドーム天井が載っています。そしてそのドーム天井の中心には、ラテン語で「目」を意味するオクルスと呼ばれる円形の窓が開いていて、そこから美しく光りが堂内に差し込みます。
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フォロ・ロマーノ

Foro Romano
フォロ・ロマーノ
「ローマ市民の広場」という名前のフォロ・ロマーノは、パラティーノの丘とカピトリーノの丘、コロッセウム、フォーリ・インペリアーリ通りに囲まれた広場で、古代ローマからローマ帝国にかけて政治や文化、宗教、経済の中心地でした。古代ローマでは都市の中心にそうした広場が作られるのが普通で、フォロ・ロマーノはローマで最初に作られた広場と考えられています。ローマ市民たちは、フォロ・ロマーノで政治家の演説を聞いたり、凱旋パレードを見たり、集会を開いたりしていました。中心を通る「聖なる道(ヴィア・サクラ)」は、パラティーノの丘とカピトリーノの丘を結ぶ道で、その周囲には多くの神殿が築かれました。またヴィア・サクラの「ティトゥスの凱旋門」から「セプティミウス・セウェルスの凱旋門」までは皇帝たちの凱旋パレードにも使われました。
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