Properties & Sights

日本国 | 構成資産・みどころ一覧

奄美大島

Amami-Oshima Island
奄美大島
奄美大島は、中琉球に位置する奄美群島で最大の島です。群島最高峰の湯湾岳(標高694m)に代表されるように、面積の8割以上を森林が占めています。スダジイの自然林や、カシやシイの切り株や根から新しい芽が伸びてできる萌芽林のほか、汽水域には西表島に次いで国内で2番目に広いマングローブ林があります。そのような豊かな植生に守られるように、奄美大島の固有種で、オスになることを決める「Y染色体」を持たないのにオスが誕生する哺乳類アマミトゲネズミや、「日本一美しいカエル」と称される金褐色の斑紋が目を引くアマミイシカワガエルなど、特徴的な動物が多く存在しています。また、奄美大島と徳之島の固有種の哺乳類アマミノクロウサギや、絶滅のおそれのある鳥類のルリカケスなど、遺存固有種の動植物も多く生息しています。
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荒船風穴

Arafune Cold Storage
荒船風穴
荒船風穴は、群馬県と長野県の県境にそびえる荒船山の北麓、標高約900mの位置にあり、現在の下仁田町の一部となります。その一帯は新世代第三紀の貫入岩が露出し、その岩塊が崩落して谷を埋めたことで、地中には空間が多く見られます。冬季に岩塊は猛烈に冷やされて、そこに雨水が浸み込んで氷や凍土をつくります。夏になっても冷えた環境は保たれて、岩の隙間から冷気が吹き出す風穴となっています。夏の暑い時期には吹き出し口から流れる気流により、その大きな温度差から白煙となる光景も見ることができます。
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西表島

Iriomote Islands
西表島
西表島は4島の中で唯一南琉球に位置する島です。現在の琉球列島は、およそ1,200万年前までユーラシア大陸とひと続きでした。200万年前ごろまでに起きた大規模な地殻変動の影響で、ユーラシアプレートにフィリピン海プレートが沈み込み、現在の琉球列島西側に「沖縄トラフ」と呼ばれる海域が生まれ、徐々に大陸と切り離されました。しかし、南琉球では海面が低下する氷期、海面が上昇する間氷期が繰り返される中、大陸とつながったり離れたりを繰り返し、長い間大陸の生き物が行き来する環境となり、最終的にはその一部が現在の西表島に取り残されました。中琉球では「生きる化石」とも言える遺存固有種が多く見られるのが特徴的である一方で、南琉球に位置する西表島ではほとんどみられず、近縁種が大陸に存在するイリオモテヤマネコなど新固有種が多く生息しているのが特徴として挙げられます。
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沖縄島北部

Northern part of Okinawa Island
沖縄島北部
沖縄本島最高峰の与那覇岳(標高503m)や伊湯岳(446m)などの山々がある沖縄島北部が「やんばる(山原)」です。範囲の明確な定義はないものの、国頭村、大宜味村、東村の3村を世界遺産では「やんばる3村」と呼んでいます。3つの村にまたがる「やんばる国立公園」には、国内最大級の亜熱帯雨林が広がります。飛べない鳥として知られるヤンバルクイナや沖縄県の県鳥でもあるノグチゲラのほか、遺存固有種のオキナワトゲネズミやヤンバルテナガコガネ、オキナワイシカワガエル、1996年に初めて見つかったヤンバルホオヒゲコウモリなど、希少な生物が存在します。また、与那覇岳などの斜面には豊富な降水量に裏打ちされた雲霧林が広がっています。20~30度の傾斜地が多いため、多量の雨水の流入によって川床と川岸が周期的に冠水する「渓流帯」が存在し、環境に適応した渓流植生が根を張っており、今でも新種が発見されています。
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勝連城跡

Katsuren-jô site
勝連城跡
勝連城(かつれんじょう)は、琉球王国が安定していく過程において、国王に最後まで抵抗した有力な按司である阿麻和利(あまわり)が暮らしていた城です。自然の断崖を利用して築城された、まさに難攻不落の城と言えます。阿麻和利は1458年、国王の重臣であった護佐丸(ごさまる)を滅ぼしました。その後、王権の奪取を目指して首里城を攻め立てましたが、大敗を喫して滅びることとなりました。現在の勝連城からは、中国製や日本製の陶磁器類が大量に出土しています。このことからも、阿麻和利をはじめとする歴代の城主たちが、海外と活発に交易を行っていた様子がうかがえます。
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国立西洋美術館

The National Museum of Western Art / Musée National des Beaux-Arts de l’Occident
国立西洋美術館
国立西洋美術館は東京の上野恩賜公園内にあり、実業家松方幸次郎が収集した美術品コレクション(松方コレクション)を基礎に、西洋美術作品を収蔵・展示するために建設されました。第二次世界大戦末期、松方コレクションはフランス政府に接収されていましたが、1953年に日本へ寄贈返還されることとなります。その際、フランス政府は返還の条件として、新たな美術館を建設することを求めました。これに応えるため、フランスの建築家ル・コルビュジエの基本設計をもとに、彼の弟子である前川國男、坂倉準三、吉阪隆正によって日本で実施設計が行われました。1959年に完成した国立西洋美術館は、近代建築の巨匠ル・コルビュジエによる日本唯一の作品であり、その後の日本現代建築にも大きな影響を与えたのです。
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座喜味城跡

Zakimi-jô site
座喜味城跡
座喜味(ざきみ)城は、1420年頃に有力な按司である護佐丸によって築かれました。護佐丸は当初、座喜味の北東約4㎞にある山田グスク(現在の恩納村)を居城としていました。しかし、今帰仁(なきじん)城の攻略に参戦した頃、敵からの防御や長浜港を控えた地の利を考慮し、高台にある座喜味の地に築城したとされています。また、国王の居城である首里城と迅速な連絡を図るという国防上の理由から、首里城がよく見渡せる丘の上が選ばれました。二つの廓を囲む城壁には、地元で採れる琉球石灰岩が使われています。その積み方は、「野面積み」や「布積み」が進化したとされる「あいかた積み」という手法が多く用いられているのが特徴です。さらに、中央にくさび石をはめて2つの石をかみ合わせることで造られたアーチ石門も大きな見どころですが、このくさび石を用いる方法は他のグスクには見られません。これらの高度な特徴からは、護佐丸が極めて優れた築城技術を持っていたことがうかがえます。
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識名園

Shikinaen
識名園
識名園は、1799年に造営された琉球王家最大の別邸の庭です。当時は国王一家の保養だけでなく、中国皇帝の使者である冊封使を接待する場としても使用されていました。識名園の造園形式は、池のまわりを歩きながら景色の移り変わりを楽しむ「回遊式庭園(かいゆうしきていえん)」が採用されています。回遊式庭園は、日本の近世に大名たちが競って造るようになった形式ですが、識名園には琉球独特の工夫が随所に見られるのが特徴です。「心」の字をくずした池(心字池)を中心に、池に浮かぶ島には中国風あずまやの六角堂や大小のアーチ橋が配され、池の周囲には琉球石灰岩が積みまわされています。1941年(昭和16年)12月13日には国の「名勝」に指定されましたが、1945年(昭和20年)4月の第二次世界大戦の沖縄戦によって破壊されてしまいました。その後、1975年から1996年(昭和50年~平成8年)にかけて、総事業費7億8千万円を投じた復元整備が行われます。その結果、1976年(昭和51年)1月30日に再び国の「名勝」となり、2000年(平成12年)3月30日には「特別名勝」に指定されました。敷地の指定面積は4万1,997㎡に及び、そのうち御殿をはじめとするすべての建物の面積は、合計で643㎡(約195坪)となっています。
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首里城跡

Shuri-jô site
首里城跡
首里城は、三山時代には中山(ちゅうざん)王国の居城でした。その後、1429年に琉球王国が統一されてから1879年に至るまで、長きにわたり王国の居城として政治や外交、文化の中心であり続けました。城は、王国にとって重要な拠点である那覇港や首里の街を見下ろす丘の上に、その地形を巧みに活かして築かれています。構造は内郭(内側城郭)と外郭(外側城郭)に大きく分けられ、内郭は15世紀初頭に、外郭は16世紀中期に完成しました。正殿をはじめとする城内の各施設は東西の軸線に沿って配置されており、西側を正面としているのが大きな特徴です。
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新原・奴山古墳群

Shimbaru-Nuyama Mounded Tomb Group
新原・奴山古墳群
沖ノ島での祭祀を執り行い、島に宿る神への信仰を「宗像三女伸信仰」へと発展させた古代豪族・宗像氏の墳墓群です。宗像氏は5世紀から6世紀にかけて、当時は入り江だった場所に面し、沖ノ島へと続く玄界灘を一望できる台地の上にこの古墳群を築きました。現在、現地には前方後円墳5基、円墳35基、方墳1基の計41基が残されています。それぞれの古墳が造られた時期は異なっており、沖ノ島で岩陰祭祀が始まった5世紀後半には、大型の前方後円墳(22号墳)や中型の前方後円墳(1号墳)が築かれました。中型の前方後円墳(12,24,30号墳)は6世紀前半から半ばにかけて築かれました。また、小型の円墳群(34~43号墳)は6世紀後半のものです。5世紀に築かれた7号墳は、宗像地域では数少ない方墳であり、ここからは沖ノ島の祭祀遺跡と共通する鉄斧が見つかっています。前方後円墳をはじめとする古墳の形状や、周囲を巡る溝などが当時の姿をよく留めています。
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斎場御嶽

Sêfa-utaki
斎場御嶽
斎場御嶽(せーふぁうたき)は、琉球開闢(かいびゃく)伝説にも登場する琉球王国最高の聖地です。最高位の神職である聞得大君(きこえおおきみ)との関係が深く、格式高い御嶽として知られており、中央集権的な王権を信仰面と精神面から支える国家的な祭祀の場でもありました。琉球王国の正史である『中山世鑑(ちゅうざんせいかん)』には、琉球の開闢神アマミクが創設した御嶽のひとつとして記されています。御嶽の中にはイビと呼ばれる神域が6カ所あります。琉球国王はこれらの場所を参拝しながら、国家の繁栄や安寧、五穀豊穣、航海安全などを神に祈願していました。琉球王国時代、国家的な催事の際には「神の島」と呼ばれる久高島から聖なる白砂を特別に運び入れ、御嶽に敷きつめていました。こうした祭事の中でも最大の行事が、聞得大君の就任式である「御新下り(おあらうり)」でした。
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園比屋武御嶽石門

Sonohyan-utaki Ishimon
園比屋武御嶽石門
1519年に造られた石造りの門であり、門の背後に広がる樹林地は園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)と呼ばれる聖域になっています。ここはかつて、国王が城外へ外出する際に、道中の安全を祈願した格式高い礼拝所です。一見すると人が通り抜けるための門のような形をしていますが、実際には人が通る場所ではなく、神へ祈りを捧げるための「礼拝の門」というべき宗教的な施設です。そのため、人々は石門そのものではなく、その奥にある御嶽(聖域)に向かって祈りを捧げます。この石門は琉球を代表する石造建造物であり、扉を除いたすべての部分が石でできています。特に、最上部にある棟石(むねいし)の部分に施された細やかな彫刻は実に見事です。1933年には国宝に指定されましたが、沖縄戦によって一部が破壊されてしまいました。その後、1957年に復元され、現在は国の重要文化財に指定されています。
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高山社跡

Takayama-sha Sericulture School
高山社跡
「高山社跡」は、群馬県南部を流れる神流川の支流である三名川の河岸段丘上にあり、現在の藤岡市郊外(旧高山村)に位置します。1884年に設立された民間養蚕教育機関「養蚕改良高山社」(1873年創立の「養蚕改良高山組」が前身)の建物は、高山社を設立し、初代社長となった高山長五郎の住居でした。高山長五郎は、江戸末期、天保元年(1830年)生まれで、養蚕を糧とする祖母に育てられました。蚕の病害に苦しめられる姿を見て育ち、自らも養蚕の研究を続け、後に全国標準の養蚕法となる「清温育」を完成させました。
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田島弥平旧宅

Tajima Yahei Sericulture Farm
田島弥平旧宅
田島弥平旧宅は利根川沿岸に形成された集落にあり、現在の伊勢崎市境島村にあたります。この一帯は砂質の土壌のため桑の栽培に適しており、江戸時代後期から蚕種の生産地として知られていました。蚕種は蚕の卵のことで、母蛾の交配により生み出されます。そして、良質な蚕種から孵化した蚕に桑を与え成長を促します。成長した蚕は繭をつくり出し、その繭から高品質な生糸の生産に繋げることができます。幕末の文政5年(1822年)にこの地で生まれた田島弥平は、より良い養蚕法を求めました。初めは東北地方で一般的であった「温暖育」を学び、試行錯誤を重ねた上で、通風を重視する方法に改良していき、「清涼育」を完成させました。
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玉陵

Tamaudun
玉陵
玉陵(たまうどぅん)は1501年、尚真王(しょうしんおう)が父である尚円王(しょうえんおう)の遺骨を改葬するために築いたもので、その後、第二尚氏王統の陵墓となりました。墓室は自然の岩壁を利用した平瓦葺きの屋根を持つ切妻造りで、琉球特有の「破風墓(はふばか)」と呼ばれる形式です。墓室や前面の墓庭を囲む石垣、そして墓庭を内庭と外庭に区分けする石垣は、それぞれ珊瑚質石灰岩の切石を積み上げて築かれています。墓室は中室、東室、西室の三つに分かれており。それぞれ異なる役割を持っています。中室は洗骨(せんこつ)前の遺骸を安置する部屋、東室は洗骨後の王と王妃を納骨する部屋、そして西室は墓前の庭にある玉陵碑に記された限られた王族を納骨する部屋です。墓域は2,442㎡に及び、沖縄戦で大きな被害を受けましたが、1974年から3年余りの歳月をかけて修復工事が行われました。その結果、往時の姿を取り戻して今日に至っています。玉陵は2018年12月25日に正式に国宝へ指定され、沖縄県内の建造物としては初の国宝指定となりました。
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徳之島

Tokunoshima Island
徳之島
徳之島は、鹿児島市から南に約450kmに位置する中琉球の島で、世界遺産に登録された4島の中で最小の島です。登録区域が4島で唯一、島の最高峰・井之川岳(標高645m)でアマミノクロウサギなどが生息する中央部と、標高533mの天城岳のある北部の2か所に分かれています。これらの山々ではスダジイを中心とする亜熱帯照葉樹林が広がっており、島の固有種トクノシマトゲネズミやオビトカゲモドキなど、遺存固有種の生物が多く生息しています。
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富岡製糸場

Tomioka Silk Mill
富岡製糸場
群馬県南部にある富岡製糸場は、上信電鉄上州富岡駅から南西600mの距離で、鏑川に面した崖の上に建設されました。1872年に明治政府の近代化政策の一環として建てられた官営工場が始まりでした。東西200m、南北250mの敷地内に、製糸工場関連の様々な建物が残されました。門に入って正面に東繭置所があり、中庭を経て、同じ形状の西繭置所があります。そして、2つの繭置所の南側に繰糸場が配置されています。これらの3つの建物は国宝に指定されています。そして、繰糸場の北側には、蒸気窯所、煙突、鉄水槽が見られます。このように、大型の器械製糸工場として必要とされる建造物群が、ほぼ完全な形で残されているのは他に例がありません。富岡製糸場は、官営から民営に移行後も、1987年に操業を停止するまで115年に渡って生糸を生産し続けました。最後の所有者であった片倉工業は、製糸操業停止後も工場建物群が持つ文化財としての価値を認めて、2005年に富岡市に譲渡するまで常駐の管理者を配置して保全を続けました。その努力が、その後の世界遺産登録に繋がったと評価されています。
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中城城跡

Nakagusuku-jô site
中城城跡
中城城跡は、沖縄本島東海岸の中城湾に沿った標高160mの高台上に、北東から南西にかけてほぼ一直線に築かれた城です。第二次世界大戦の戦禍をまぬがれたため、沖縄県内で最も原型をとどめており、完全に近い形で残された貴重な遺跡となっています。また、景勝地としても広く知られており、城壁に立つと東に中城湾(太平洋)、西に東シナ海を望むことができます。さらに、勝連半島や知念半島、周辺の洋上に浮かぶ島々までも見渡せる素晴らしい眺望が魅力です。城郭部の面積は12万2,339㎡に及び、古くから観光の名所として親しまれています。
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今帰仁城跡

Nakijin-jô site
今帰仁城跡
今帰仁城跡(なきじんじょうあと)は、沖縄本島北部、本部(もとぶ)半島にあるグスク(城)です。沖縄県の県庁所在地である那覇市からは、車で1時間30分ほどの距離に位置しています。ここはかつて、三山時代に北山(ほくざん)を治めた国王の居城だった場所です。敷地内からは大量の中国陶磁器類が発掘されており、当時の北山王が盛んに海外交易を行なっていたことが分かっています。東側は川、西側は谷、そして南側は急斜面の崖に囲まれた独立丘の上という、防衛上たいへん優れた場所に築かれており、まさにやんばるの地を守る要の城でした。城壁の外周は1,500mに及び、その平面プランは自然の地形に沿って、美しい曲線を描くように造られています。1416年に中山(ちゅうざん)軍に滅ぼされた後は、この地を管理する監守(かんしゅ)が派遣されるようになりました。そして1665年に最後の監守が引き上げてからは、祭りを取り仕切る神聖な場所として大切に残されてきました。
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二条城

Nijo-jo (castle)
二条城
二条城は、江戸幕府の初代将軍である徳川家康が、天皇の暮らす京都御所の守護と将軍上洛時の宿泊所とするために、1603年に築いたものです。京都市内にはかつて、織田信長や羽柴秀吉(豊臣秀吉)などが築いた二条城と呼ばれる城もありましたが、現在残っているのは徳川家康が築いた城のみです。江戸幕府3代将軍の徳川家光が大改修を行い、障壁画などに彩られた壮麗な城となりました。1867年には第15代将軍の徳川慶喜が二の丸御殿で政権を朝廷に返上する「大政奉還」の意思を示し、250年以上続いた江戸幕府の時代が幕を閉じました。
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宗像大社沖津宮(沖ノ島、小屋島、御門柱、天狗岩)

Okitsu-miya, Munakata Taisha (Okinoshima, Koyajima, Mikadobashira, Tenguiwa)
宗像大社沖津宮(沖ノ島、小屋島、御門柱、天狗岩)
沖ノ島は島そのものがご神体です。それゆえ島には厳しい禁忌があり、それが現在に至るまで厳格に守られてきました。現在は宗像大社の神職1人が約10日交代で島に常駐し、毎朝社殿で神事を行います。その社殿には、宗像三女神のうちの一柱である田心姫神(たごりひめのかみ)が祀られています。沖ノ島からは考古学的調査により、約8万点もの奉献品が出土しています。古代以降も年に数回の神事が行われており、17世紀半ばまでに、古代祭祀の場であった巨岩群の間に沖津宮の社殿が築かれました。なお、現在の沖津宮社殿は1932年に再建されたものです。沖ノ島に対する自然崇拝から宗像三女神に対する信仰が生まれ、宗像地域の信仰として現代まで受け継がれてきました。本遺産群は、こうした信仰の発展の過程を確かな物証によって理解できる点で、世界でも他に例を見ない貴重な存在です。また、沖ノ島の南東約1㎞にある小屋島(こやじま)、御門柱(みかどばしら)、天狗岩(てんぐいわ)の三つの岩礁は、沖津宮の境内の一部を構成しています。これらは沖ノ島に上陸する際の天然の鳥居の役割を果たしており、船で岩礁の間を通って沖ノ島に上陸します。
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宗像大社沖津宮遙拝所

Okitsu-miya Yohaisho, Munakata Taisha
宗像大社沖津宮遙拝所
沖ノ島から約48㎞離れた大島の北側の海岸に、宗像大社沖津宮遥拝所があります。沖ノ島は島そのものがご神体であるため、原則として立ち入ることができません。そのため、行くことができない沖ノ島を遥拝(遥か遠くから拝むこと)するために、この遥拝所が設けられました。遥拝所の社殿は、沖ノ島をご神体として拝むための拝殿の役割を果たしています。このように、沖ノ島に関する禁忌や遥拝の伝統は、現在も大切に受け継がれています。階段の手前には「寛延弐年」(1749年)と刻まれた石碑が残されており、少なくとも18世紀中頃には、すでにこの場所に遥拝所が存在していたことが分かっています。なお、現在の建物は昭和8年(1933年)に建てられたものです。天気の良い日には、遥拝所の奥にある窓から、水平線の彼方に浮かぶ沖ノ島の姿をはっきりと望むことができます。
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宗像大社中津宮

Nakatsu-miya, Munakata Taisha
宗像大社中津宮
宗像市神湊から7㎞ほど離れた場所にある大島は、人口700人の福岡県で最も大きな島です。この大島に鎮座する、宗像大社の三つの宮のひとつが中津宮であり、宗像三女神の一柱である湍津姫神(たぎつひめのかみ)を祀っています。中津宮は、その社殿と参道で結ばれている御嶽山(みたけさん)山頂の御嶽山祭祀遺跡が起源となっており、そこでは7世紀後半から9世紀末頃にかけて露天祭祀が行われていました。その後、御嶽山の山頂に御嶽神社が、麓には中津宮の社殿が築かれました。中津宮社殿が建てられたのは遅くとも16世紀後半とされています。山頂の御嶽神社と麓の社殿はこの参道によってつながっており、一体的な信仰の場を形成しています。標高224mの山頂では沖ノ島を望むことができ、その反対側では九州本土を臨むことができます。大島の南側に位置する大島港の近くでは、鳥居が海に向かって立っています。
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宗像大社辺津宮

Hetsu-miya, Munakata Taisha
宗像大社辺津宮
九州本土にある辺津宮は、福岡県宗像市の釣川沿いに位置する宗像大社の三つの宮のひとつであり、宗像三女神の一柱である市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)を祀っています。釣川沿いの宗像山中腹にある下高宮祭祀遺跡(高宮祭場)を起源としており、その麓に社殿が建っています。三女神を祀る本土の信仰の場として、現在は宗像大社の神事の中心となっています。辺津宮の起源となった古代祭祀の場である下高宮祭祀遺跡(高宮祭場)は,信仰において極めて重要な場所です。辺津宮の社殿は遅くとも12世紀には存在していたとされていますが、戦乱などによって度々失われてきました。最後に焼失したのは弘治3年(1557年)のことで、その後、天正6年(1578年)に本殿が,天正18年(1590年)に拝殿がそれぞれ再建されました。境内には第一宮と呼ばれた本殿のほかに、第二宮、第三宮と呼ばれる社殿があり、それぞれ市杵島姫神、田心姫神(たごりひめのかみ)、湍津姫神(たぎつひめのかみ)が祀られています。
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