Properties & Sights

構成資産・みどころ一覧

カイマクルの地下都市

Subterranean city of Kaymakli / Kaymaklı Yeraltı Şehri
カイマクルの地下都市
カイマクルの地下都市はデリンクユの地下都市の北側に位置し、軟らかい凝灰岩を掘り下げて築かれた地下都市で、住民の安全を確保するために建設されました。地下8階まであり、100本以上のトンネルで各部屋がつながっています。通路は狭く、低く、傾斜があるのが特徴で、これは外敵が侵入してきた時に移動を制限するためとされています。カイマクルはカッパドキアで最も広い地下都市とされており、多くの貯蔵室があったことが、多くの人たちが暮らしていたことを裏付けています。
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ギョレメ国立公園

Göreme National Park / Göreme Tarihî Milli Parkı
ギョレメ国立公園
トルコの首都アンカラの南東約250㎞に位置する国立公園で、約95㎢の広さを有します。アナトリア山脈と黒海、トルコの世界遺産暫定リストにも記載されている塩湖・トッズ湖に囲まれたエリアが「カッパドキア」で、キノコの形や先のとがった形などさまざまな形の奇岩の群れで有名です。岩の削りやすさを利用して洞窟の住居がつくられ、宗教弾圧が進むと身を隠すようにキリスト教徒が洞窟聖堂や洞窟修道院をつくりました。今ではギョレメ渓谷に約30の洞窟聖堂が残っています。現地では、気球に乗って上空から奇岩の群れを眺めるアクティビティが人気を集めています。
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山海関

Shanhaiguan
山海関
「山海関」は河北省秦皇島市に位置し、中国本土を北方遊牧民の侵入から守る「万里の長城」の最も東にある城塞です。明代(1368~1644年)に築かれた万里の長城の東の起点であり、その戦略的な立地、強固な防衛機能、壮大な規模から「天下第一関」としても知られています。「山海関」という名前は、北の燕山山脈と南の渤海との間に築かれたという、特徴的な地理的要因に由来しています。かつては城塞の四方の門に「甕城(おうじょう)」とよばれる半円形の出城があり、関所の周囲に二重の防御線を作り鉄壁の守りを誇っていました。現在は、東門の甕城のみを見ることができます。ここには、「鎮東楼」をはじめとする5つの防衛拠点が配置され、それらは国境を守る「五虎」と称されていました。
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嘉峪関

Jiayuguan
嘉峪関
「嘉峪関(かよくかん)」は甘粛省嘉峪関市に位置し、明代(1368~1644年)に築かれた「万里の長城」最西端の城塞です。最東端の「山海関」が「天下第一関」と呼ばれるのに対し、最西端の「嘉峪関」は「天下第一雄関」と呼ばれました。また、その堅固さから、延々と続く辺境の防衛線にがっちりと鍵をかけて守ることを意味する「連陲鎖鑰(れんすいさやく)」とも呼ばれました。シルク・ロードの交通の要衝、そして内城、外城、甕城(おうじょう)や城壕(じょうごう)からなる三重の防御施設を備えた軍事防衛拠点として、西域統治において重要な役割を果たしました。
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八達嶺

Badaling
八達嶺
万里の長城の総延長は2万kmを超え、東は渤海に面する河北省・山海関から、西はゴビ砂漠の甘粛省・嘉峪関までの広大な範囲におよびます。その一部である「八達嶺」は、北京の北西約60㎞に位置する延慶区の、険しい山々が連なる軍都山にあります。明代の書物『長安客話』には、「道がここから分かれ、四通八達(あらゆる方向に通じている)しているため八達嶺と名付けられた。この山々の中で最も高い場所である」と名前の由来が記されています。万里の長城には数多くの有名な関所や要衝があり、なかでも八達嶺は「九塞」に数えられる9つの重要な城塞の一つである「居庸関(きょようかん)」を守る拠点になっています。ここが軍事上の要衝となった歴史は春秋戦国時代(紀元前770~前221年)に遡ることができ、紀元前1世紀に編纂された『史記』にもその記録が残されています。現在も、当時の崩れた壁や見張り台の遺構を見ることができます。
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斎場御嶽

Sêfa-utaki
斎場御嶽
斎場御嶽(せーふぁうたき)は、琉球開闢(かいびゃく)伝説にも登場する琉球王国最高の聖地です。最高位の神職である聞得大君(きこえおおきみ)との関係が深く、格式高い御嶽として知られており、中央集権的な王権を信仰面と精神面から支える国家的な祭祀の場でもありました。琉球王国の正史である『中山世鑑(ちゅうざんせいかん)』には、琉球の開闢神アマミクが創設した御嶽のひとつとして記されています。御嶽の中にはイビと呼ばれる神域が6カ所あります。琉球国王はこれらの場所を参拝しながら、国家の繁栄や安寧、五穀豊穣、航海安全などを神に祈願していました。琉球王国時代、国家的な催事の際には「神の島」と呼ばれる久高島から聖なる白砂を特別に運び入れ、御嶽に敷きつめていました。こうした祭事の中でも最大の行事が、聞得大君の就任式である「御新下り(おあらうり)」でした。
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識名園

Shikinaen
識名園
識名園は、1799年に造営された琉球王家最大の別邸の庭です。当時は国王一家の保養だけでなく、中国皇帝の使者である冊封使を接待する場としても使用されていました。識名園の造園形式は、池のまわりを歩きながら景色の移り変わりを楽しむ「回遊式庭園(かいゆうしきていえん)」が採用されています。回遊式庭園は、日本の近世に大名たちが競って造るようになった形式ですが、識名園には琉球独特の工夫が随所に見られるのが特徴です。「心」の字をくずした池(心字池)を中心に、池に浮かぶ島には中国風あずまやの六角堂や大小のアーチ橋が配され、池の周囲には琉球石灰岩が積みまわされています。1941年(昭和16年)12月13日には国の「名勝」に指定されましたが、1945年(昭和20年)4月の第二次世界大戦の沖縄戦によって破壊されてしまいました。その後、1975年から1996年(昭和50年~平成8年)にかけて、総事業費7億8千万円を投じた復元整備が行われます。その結果、1976年(昭和51年)1月30日に再び国の「名勝」となり、2000年(平成12年)3月30日には「特別名勝」に指定されました。敷地の指定面積は4万1,997㎡に及び、そのうち御殿をはじめとするすべての建物の面積は、合計で643㎡(約195坪)となっています。
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玉陵

Tamaudun
玉陵
玉陵(たまうどぅん)は1501年、尚真王(しょうしんおう)が父である尚円王(しょうえんおう)の遺骨を改葬するために築いたもので、その後、第二尚氏王統の陵墓となりました。墓室は自然の岩壁を利用した平瓦葺きの屋根を持つ切妻造りで、琉球特有の「破風墓(はふばか)」と呼ばれる形式です。墓室や前面の墓庭を囲む石垣、そして墓庭を内庭と外庭に区分けする石垣は、それぞれ珊瑚質石灰岩の切石を積み上げて築かれています。墓室は中室、東室、西室の三つに分かれており。それぞれ異なる役割を持っています。中室は洗骨(せんこつ)前の遺骸を安置する部屋、東室は洗骨後の王と王妃を納骨する部屋、そして西室は墓前の庭にある玉陵碑に記された限られた王族を納骨する部屋です。墓域は2,442㎡に及び、沖縄戦で大きな被害を受けましたが、1974年から3年余りの歳月をかけて修復工事が行われました。その結果、往時の姿を取り戻して今日に至っています。玉陵は2018年12月25日に正式に国宝へ指定され、沖縄県内の建造物としては初の国宝指定となりました。
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園比屋武御嶽石門

Sonohyan-utaki Ishimon
園比屋武御嶽石門
1519年に造られた石造りの門であり、門の背後に広がる樹林地は園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)と呼ばれる聖域になっています。ここはかつて、国王が城外へ外出する際に、道中の安全を祈願した格式高い礼拝所です。一見すると人が通り抜けるための門のような形をしていますが、実際には人が通る場所ではなく、神へ祈りを捧げるための「礼拝の門」というべき宗教的な施設です。そのため、人々は石門そのものではなく、その奥にある御嶽(聖域)に向かって祈りを捧げます。この石門は琉球を代表する石造建造物であり、扉を除いたすべての部分が石でできています。特に、最上部にある棟石(むねいし)の部分に施された細やかな彫刻は実に見事です。1933年には国宝に指定されましたが、沖縄戦によって一部が破壊されてしまいました。その後、1957年に復元され、現在は国の重要文化財に指定されています。
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首里城跡

Shuri-jô site
首里城跡
首里城は、三山時代には中山(ちゅうざん)王国の居城でした。その後、1429年に琉球王国が統一されてから1879年に至るまで、長きにわたり王国の居城として政治や外交、文化の中心であり続けました。城は、王国にとって重要な拠点である那覇港や首里の街を見下ろす丘の上に、その地形を巧みに活かして築かれています。構造は内郭(内側城郭)と外郭(外側城郭)に大きく分けられ、内郭は15世紀初頭に、外郭は16世紀中期に完成しました。正殿をはじめとする城内の各施設は東西の軸線に沿って配置されており、西側を正面としているのが大きな特徴です。
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中城城跡

Nakagusuku-jô site
中城城跡
中城城跡は、沖縄本島東海岸の中城湾に沿った標高160mの高台上に、北東から南西にかけてほぼ一直線に築かれた城です。第二次世界大戦の戦禍をまぬがれたため、沖縄県内で最も原型をとどめており、完全に近い形で残された貴重な遺跡となっています。また、景勝地としても広く知られており、城壁に立つと東に中城湾(太平洋)、西に東シナ海を望むことができます。さらに、勝連半島や知念半島、周辺の洋上に浮かぶ島々までも見渡せる素晴らしい眺望が魅力です。城郭部の面積は12万2,339㎡に及び、古くから観光の名所として親しまれています。
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勝連城跡

Katsuren-jô site
勝連城跡
勝連城(かつれんじょう)は、琉球王国が安定していく過程において、国王に最後まで抵抗した有力な按司である阿麻和利(あまわり)が暮らしていた城です。自然の断崖を利用して築城された、まさに難攻不落の城と言えます。阿麻和利は1458年、国王の重臣であった護佐丸(ごさまる)を滅ぼしました。その後、王権の奪取を目指して首里城を攻め立てましたが、大敗を喫して滅びることとなりました。現在の勝連城からは、中国製や日本製の陶磁器類が大量に出土しています。このことからも、阿麻和利をはじめとする歴代の城主たちが、海外と活発に交易を行っていた様子がうかがえます。
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座喜味城跡

Zakimi-jô site
座喜味城跡
座喜味(ざきみ)城は、1420年頃に有力な按司である護佐丸によって築かれました。護佐丸は当初、座喜味の北東約4㎞にある山田グスク(現在の恩納村)を居城としていました。しかし、今帰仁(なきじん)城の攻略に参戦した頃、敵からの防御や長浜港を控えた地の利を考慮し、高台にある座喜味の地に築城したとされています。また、国王の居城である首里城と迅速な連絡を図るという国防上の理由から、首里城がよく見渡せる丘の上が選ばれました。二つの廓を囲む城壁には、地元で採れる琉球石灰岩が使われています。その積み方は、「野面積み」や「布積み」が進化したとされる「あいかた積み」という手法が多く用いられているのが特徴です。さらに、中央にくさび石をはめて2つの石をかみ合わせることで造られたアーチ石門も大きな見どころですが、このくさび石を用いる方法は他のグスクには見られません。これらの高度な特徴からは、護佐丸が極めて優れた築城技術を持っていたことがうかがえます。
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今帰仁城跡

Nakijin-jô site
今帰仁城跡
今帰仁城跡(なきじんじょうあと)は、沖縄本島北部、本部(もとぶ)半島にあるグスク(城)です。沖縄県の県庁所在地である那覇市からは、車で1時間30分ほどの距離に位置しています。ここはかつて、三山時代に北山(ほくざん)を治めた国王の居城だった場所です。敷地内からは大量の中国陶磁器類が発掘されており、当時の北山王が盛んに海外交易を行なっていたことが分かっています。東側は川、西側は谷、そして南側は急斜面の崖に囲まれた独立丘の上という、防衛上たいへん優れた場所に築かれており、まさにやんばるの地を守る要の城でした。城壁の外周は1,500mに及び、その平面プランは自然の地形に沿って、美しい曲線を描くように造られています。1416年に中山(ちゅうざん)軍に滅ぼされた後は、この地を管理する監守(かんしゅ)が派遣されるようになりました。そして1665年に最後の監守が引き上げてからは、祭りを取り仕切る神聖な場所として大切に残されてきました。
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ムーア城

Moorish Castle / Castelo dos Mouros
ムーア城
大西洋から平野部までを一望できるシントラ山脈に位置する「ムーア城」は、10世紀にこの地を支配したイスラム教徒が、周辺地域の防衛とリスボンへの海上交通路を確保するために築いた、とても重要な戦略的拠点でした。その城壁は、花崗岩の岩山を縫うように連なっています。城壁の内側やその周辺には古くからイスラム教徒の集落が存在し、岩山をくり抜いてつくられた貯蔵庫は、穀物などの食料を保存するために使われていました。1147年、ポルトガル初代国王アフォンソ・エンリケスによってリスボンが奪還されると、シントラとその周辺地域もポルトガル領となりました。そして1154年、領土防衛の戦略的観点から、シントラとその周辺地域の管理はテンプル騎士団の総長グアルディム・パイスに委ねられ、勅許状が与えられました。
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セテアイス宮殿

Seteais Palace / Palácio de Seteais
セテアイス宮殿
「セテアイス宮殿」の歴史は、1787年に始まります。シントラの美しさに魅了された、ポルトガルの富裕な実業家でありオランダ領事でもあったダニエル・ギルデメーステルが、この地に「キンタ・ダ・アレグリア」と呼ばれる別邸を建設しました。1790年に新たな所有者となった第5代マリアルヴァ侯爵ドム・ディオゴ・ヴィトは、建物を2倍の大きさに広げ、2つの棟を結ぶ凱旋門を増築しました。ヨーロッパ各地から貴族が集まり、華やかな宴が開催されるセテアイス宮殿の黄金期を築きました。その後しばらくの間は人々から忘れ去られた場所となっていましたが、1946年にポルトガル政府によって買収され、現在は重要文化財に指定されています。同じ頃、建築家ラウル・リノの手によってホテルへと改築され、1955年9月、「ホテル・パラシオ・デ・セテアイス」として新たに開業しました。
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レガレイラ宮殿

Quinta da Regaleira
レガレイラ宮殿
「レガレイラ宮殿」は、1840年にこの土地を購入したポルトガルの富豪の娘であり、後にレガレイラ男爵夫人として知られるアレン・フェレイラにちなんで、「キンタ・ダ・レガレイラ(レガレイラ邸宅)」と呼ばれるようになりました。19世紀末から20世紀初頭にかけて、大富豪アントニオ・アウグスト・カルヴァーリョ・モンテイロがこの邸宅を購入し、建築家で舞台美術家でもあるルイージ・マニーニの協力を得て大改修を行いました。その結果、ゴシック様式やルネサンス様式、マヌエル様式など、さまざまな建築様式が融合した、ロマン主義的で神秘的な建物となったのです。特に注目すべきなのは、「聖三位一体の礼拝堂」や井戸の内部に作られたような螺旋階段を下りていく「イニシエーションの井戸」です。この井戸の底の部分には地下洞窟が広がっていて、庭園の池へとつながっています。
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モンセラーテ宮殿

Monserrate Palace / Palácio de Monserrate
モンセラーテ宮殿
「モンセラーテ宮殿」の歴史は、1540年の礼拝堂建設から始まりました。ポルトガル人修道士ガスパル・プレトは、バルセロナ郊外にあるモンセラート礼拝堂に感銘を受け、シントラの地に同じような礼拝堂の建設を命じました。当時、この土地はリスボンのトドス・オス・サントス病院の所有地であり、同病院の院長を務めていた彼は、この場所を礼拝の場としてだけでなく、病院で消費する農産物栽培の場としても活用しようと計画したのです。1718年にはポルトガル領インドの最高責任者だったカエタノ・デ・メロ・エ・カストロがこの土地を取得しました。その後、1755年のリスボン大地震で建物は大きな被害を受けますが、1789年にイギリス商人のジェラード・デ・ヴィスメが土地を借り受け、ネオ・ゴシック様式の城を建てました。1794年には、同じくイギリス人作家ウィリアム・ベックフォードが新たな借り受け人となったものの、彼が去った後は再び荒廃の一途をたどることになります。1863年になると、イギリス人商人であり美術収集家でもあったフランシス・クックがモンセラーテの所有者となり、初代モンセラーテ子爵に叙せられました。
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ペナ宮殿

Pena Palace / Palácio Nacional de Pena
ペナ宮殿
大西洋を望むロカ岬から続くシントラ山脈の山の頂、「ペナ宮殿」が建つ場所の歴史は、12世紀にこの地で聖母マリアが現れたという伝説に基づき、小さな礼拝堂が建てられたことから始まります。その後、1503年にマヌエル1世がここに「サンタ・マリア修道院」の建設を命じました。当時、修道士たちの会議室や食堂として使われていた部屋は、現在もその一部を見ることができます。1755年にリスボンを襲った大地震によって、修道院は大きな被害を受けました。その後、1834年に修道会解散にともない、修道院が放棄されたことで、この場所は次第に忘れられていきました。
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シントラ宮殿

Sintra Palace / Palácio Nacional de Sintra
シントラ宮殿
ポルトガル最古の歴史を持つ「シントラ宮殿」は、街の中心に位置し、厨房の上にそびえる2本の巨大な円錐形煙突が特徴的です。現在の宮殿は、何世紀にもわたって建設や増築、改築が繰り返され、複数の王宮が融合してできたものです。最古の宮殿の正確な創建年は分かっていませんが、おそらく最初の建物は、この地が北アフリカからやってきたイスラム教徒ムーア人の支配下にあった、10世紀から11世紀頃に建てられたと考えられています。1147年、アフォンソ・エンリケスによってリスボンが征服されると、シントラを支配していたムーア人勢力であるムラービト朝は降伏し、3世紀以上に及んだその支配に終止符が打たれました。現在の宮殿がある場所は、当時「オリーブの平地」と呼ばれており、ムーア人総督の邸宅が建っていたと考えられていますが、その遺構はいまだ発見されていません。
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西表島

Iriomote Islands
西表島
西表島は4島の中で唯一南琉球に位置する島です。現在の琉球列島は、およそ1,200万年前までユーラシア大陸とひと続きでした。200万年前ごろまでに起きた大規模な地殻変動の影響で、ユーラシアプレートにフィリピン海プレートが沈み込み、現在の琉球列島西側に「沖縄トラフ」と呼ばれる海域が生まれ、徐々に大陸と切り離されました。しかし、南琉球では海面が低下する氷期、海面が上昇する間氷期が繰り返される中、大陸とつながったり離れたりを繰り返し、長い間大陸の生き物が行き来する環境となり、最終的にはその一部が現在の西表島に取り残されました。中琉球では「生きる化石」とも言える遺存固有種が多く見られるのが特徴的である一方で、南琉球に位置する西表島ではほとんどみられず、近縁種が大陸に存在するイリオモテヤマネコなど新固有種が多く生息しているのが特徴として挙げられます。
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沖縄島北部

Northern part of Okinawa Island
沖縄島北部
沖縄本島最高峰の与那覇岳(標高503m)や伊湯岳(446m)などの山々がある沖縄島北部が「やんばる(山原)」です。範囲の明確な定義はないものの、国頭村、大宜味村、東村の3村を世界遺産では「やんばる3村」と呼んでいます。3つの村にまたがる「やんばる国立公園」には、国内最大級の亜熱帯雨林が広がります。飛べない鳥として知られるヤンバルクイナや沖縄県の県鳥でもあるノグチゲラのほか、遺存固有種のオキナワトゲネズミやヤンバルテナガコガネ、オキナワイシカワガエル、1996年に初めて見つかったヤンバルホオヒゲコウモリなど、希少な生物が存在します。また、与那覇岳などの斜面には豊富な降水量に裏打ちされた雲霧林が広がっています。20~30度の傾斜地が多いため、多量の雨水の流入によって川床と川岸が周期的に冠水する「渓流帯」が存在し、環境に適応した渓流植生が根を張っており、今でも新種が発見されています。
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徳之島

Tokunoshima Island
徳之島
徳之島は、鹿児島市から南に約450kmに位置する中琉球の島で、世界遺産に登録された4島の中で最小の島です。登録区域が4島で唯一、島の最高峰・井之川岳(標高645m)でアマミノクロウサギなどが生息する中央部と、標高533mの天城岳のある北部の2か所に分かれています。これらの山々ではスダジイを中心とする亜熱帯照葉樹林が広がっており、島の固有種トクノシマトゲネズミやオビトカゲモドキなど、遺存固有種の生物が多く生息しています。
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奄美大島

Amami-Oshima Island
奄美大島
奄美大島は、中琉球に位置する奄美群島で最大の島です。群島最高峰の湯湾岳(標高694m)に代表されるように、面積の8割以上を森林が占めています。スダジイの自然林や、カシやシイの切り株や根から新しい芽が伸びてできる萌芽林のほか、汽水域には西表島に次いで国内で2番目に広いマングローブ林があります。そのような豊かな植生に守られるように、奄美大島の固有種で、オスになることを決める「Y染色体」を持たないのにオスが誕生する哺乳類アマミトゲネズミや、「日本一美しいカエル」と称される金褐色の斑紋が目を引くアマミイシカワガエルなど、特徴的な動物が多く存在しています。また、奄美大島と徳之島の固有種の哺乳類アマミノクロウサギや、絶滅のおそれのある鳥類のルリカケスなど、遺存固有種の動植物も多く生息しています。
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瀋陽の故宮

Imperial Palaces of the Ming and Qing Dynasties in Shenyang
瀋陽の故宮
清の前身、後金を建国したヌルハチによって建設されたのが瀋陽の故宮です。中国を統治した最後の王朝、清の礎を築いた場所とも言えます。敷地面積は約6万㎡と北京の故宮に比べて規模は小さいものの、東路・中路・西路の3つのエリアに分けられ、約70の建物が建ち並びます。最も早い時期に建てられたのが、1626年創建の大政殿です。東路に位置し、遊牧民族の住居パオのような八角形の建物となっています。大政殿へといたる通路の両側には、すべて同じ建築様式で建てられた10の建造物群があり、十王亭と呼ばれています。ここは、ルーツである女真族の狩猟組織を発展させた清の軍事制度「八旗」の拠点であり、またそれを象徴する建物でもありました。中路の正殿である崇政殿は、清代皇帝の居住地でした。2代目ホンタイジはここで政務を行ったそうです。西路の北部には文遡閣と呼ばれる建物があり、乾隆帝によって編纂された四庫全書が納められていることで知られます。瀋陽の故宮は現在、北京の故宮と同様に博物館として公開され、かつての栄華を今に伝えています。
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城門(北京の故宮)

The Gates of the Forbidden City (Beijing)
城門(北京の故宮)
北京の故宮の周囲には東西南北それぞれひとつずつ城門があり、南は午門、北は神武門、東は東華門、西は西華門と呼ばれます。また、故宮内部にも多くの門が存在します。南側の外朝(政治や儀礼の場)と、北側の内廷(皇帝の私的空間)の間には、2つの空間を隔てる乾清門があります。皇城の南端に位置する天安門を入り、故宮の入り口となる端門、正門である午門、外朝入り口の太和門、そして乾清門を経て内廷へと至る多層構造は、中国古代の都城の配置である「五門三朝」の制度に影響を受けているとされています。
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内廷(北京の故宮)

Inner Court
内廷(北京の故宮)
北京の故宮を南北2つのエリアに分けた北側の部分は内廷と呼ばれます。主に皇帝のプライベートな生活空間として使われた場所で、多数の宮院が建ち並んでいます。建物を支える大理石の基礎、皇帝のみが使うことを許された黄色の瑠璃瓦、赤く塗られた壁や柱……。いたるところから当時の華やかな宮廷生活がしのばれます。神事を行った祭壇などからは、清のルーツである女真族の伝統文化をうかがい知ることもできます。
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外朝(北京の故宮)

Outer Court
外朝(北京の故宮)
北京の故宮の顔ともいえるのが、外朝と呼ばれるエリアです。敷地中央の乾清門を境とした南北2つのエリアの南側に当たります。ここは皇帝が公務を行った場所で、前三殿と称された3つの建物、太和殿・中和殿・保和殿が南北に並びます。最も南にある太和殿は現存する中では中国最大の木造建造物。東西約64m、南北約37m、高さ約35m以上にも及び、その威容は見る者を圧倒します。ここは皇帝の即位や結婚、祭礼など重要な行事や儀式が執り行われた場所で、龍をモチーフにした彫刻が随所に施されているのを見つけることができます。内部には金箔張りの柱や玉座などもあり、別名「金鑾殿」とも呼ばれました。1420年に創建されましたが、幾度かの火災に見舞われ、現存しているのは1695年に再建された建物です。
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荒船風穴

Arafune Cold Storage
荒船風穴
荒船風穴は、群馬県と長野県の県境にそびえる荒船山の北麓、標高約900mの位置にあり、現在の下仁田町の一部となります。その一帯は新世代第三紀の貫入岩が露出し、その岩塊が崩落して谷を埋めたことで、地中には空間が多く見られます。冬季に岩塊は猛烈に冷やされて、そこに雨水が浸み込んで氷や凍土をつくります。夏になっても冷えた環境は保たれて、岩の隙間から冷気が吹き出す風穴となっています。夏の暑い時期には吹き出し口から流れる気流により、その大きな温度差から白煙となる光景も見ることができます。
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高山社跡

Takayama-sha Sericulture School
高山社跡
「高山社跡」は、群馬県南部を流れる神流川の支流である三名川の河岸段丘上にあり、現在の藤岡市郊外(旧高山村)に位置します。1884年に設立された民間養蚕教育機関「養蚕改良高山社」(1873年創立の「養蚕改良高山組」が前身)の建物は、高山社を設立し、初代社長となった高山長五郎の住居でした。高山長五郎は、江戸末期、天保元年(1830年)生まれで、養蚕を糧とする祖母に育てられました。蚕の病害に苦しめられる姿を見て育ち、自らも養蚕の研究を続け、後に全国標準の養蚕法となる「清温育」を完成させました。
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