Properties & Sights

西・南アジア | 構成資産・みどころ一覧

アヤ・ソフィア(ハギア・ソフィア)

Hagia Sophia / Ayasofya
アヤ・ソフィア(ハギア・ソフィア)
スルタンアフメト地区に立つアヤ・ソフィアは、ビザンツ建築の最高傑作と評され、オスマン建築に多大な影響を与えた建造物です。建築技術の高さ、壮麗なモザイク装飾など建築・芸術の面だけでなく、キリスト教とイスラム教の宗教的な面においても、きわめて重要な意味をもっています。元来はギリシャ語で「聖なる叡智」を意味する「ハギア・ソフィア」と呼ばれていました。歴史的には、キリスト教を公認したローマ皇帝コンスタンティヌス1世の息子であるコンスタンティウス2世が360年に建てた礼拝堂を前身としています。この礼拝堂は404年に焼失し、415年に再建されましたが、532年にユスティニアヌス1世に対して市民が蜂起したニカの乱によって再び焼失しました。ユスティニアヌス1世は動乱鎮圧後、すぐに再建を開始し、537年にアヤ・ソフィアを完成させました。1204~1261年の第4回十字軍に伴うラテン帝国成立期には、一時カトリック教会として使用された時期もありますが、約1,000年にわたりギリシャ正教会の総本山として信仰を集めました。
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アリー・カプー宮殿

Ali Qapu Palace
アリー・カプー宮殿
アリー・カプー宮殿は、イマーム広場の西辺にある宮殿です。もともとこの場所にはティムール朝時代の宮殿があり、それをサファヴィー朝の第5代王・アッバース1世が現在の6階建て高さ38mの建物に改築しました。外側のテラスからは広場が一望でき、王はここから式典や競技を観覧したといわれています。最上階には「陶磁器の間」と呼ばれる空間があります。天井から壁はムカルナス(鍾乳石に似せた装飾)があしらわれており、壁面は瓶や壺の形にくり抜かれています。かつてはそこに陶磁器が飾られていました。この壁面の穴は単なる装飾だけでなく、部屋の音響調整をもたらす効果があり、陶磁器の間は音楽堂として機能していました。内部装飾も素晴らしく、複雑な細工やモザイク画に加えて、イラン芸術の粋といわれる人や動物をモチーフとした細密画(ミニアチュール)で飾られており、一見の価値ありと言えます。
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イマームのモスク

Emam Mosque / Masjed-e Emam
イマームのモスク
サファヴィー朝第5代の王アッバース1世が整備した都・イスファハーンの中心である「王の広場」の南辺に立つモスクです。建造は17世紀初頭で、イーワーン(アーチ型天井の窪み)型の門は高さ33m、4本あるミナレットは高さ42m、そして中央のドームは高さ53mという大きさです。その規模もさることながら、外壁やドームの青いタイルがとても印象的で、壁や天井の複雑で美しいアラベスク模様にも圧倒されます。それ故に「イスラム世界で最も美しいモスク」のひとつといわれています。ここはずっと「王のモスク(シャー・モスク)」と呼ばれてきましたが、1979年のイスラム革命で王政が倒されてからは、イスラムの宗教指導者を意味する「イマーム」という名を冠して「イマームのモスク」と改称されました。
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カイセリーヤ門

Qaysariyyeh Gate
カイセリーヤ門
イマーム広場の北辺にある門で、17世紀に建てられたサファヴィー朝時代の歴史的なモニュメントです。かつては3階建てでしたが現在は2階建てとなっており、壁面には美しい壁画が施されています。この門からイスファハーンの経済の中心である大バザールへつながっており、この門によって王の広場と民衆の世界が結ばれていました。大バザールはこの門から約2㎞にわたって延び、もうひとつの世界遺産『イスファハーンのマスジェデ・ジャーメ(金曜モスク)』まで続いています。
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カイマクルの地下都市

Subterranean city of Kaymakli / Kaymaklı Yeraltı Şehri
カイマクルの地下都市
カイマクルの地下都市はデリンクユの地下都市の北側に位置し、軟らかい凝灰岩を掘り下げて築かれた地下都市で、住民の安全を確保するために建設されました。地下8階まであり、100本以上のトンネルで各部屋がつながっています。通路は狭く、低く、傾斜があるのが特徴で、これは外敵が侵入してきた時に移動を制限するためとされています。カイマクルはカッパドキアで最も広い地下都市とされており、多くの貯蔵室があったことが、多くの人たちが暮らしていたことを裏付けています。
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ギョレメ国立公園

Göreme National Park / Göreme Tarihî Milli Parkı
ギョレメ国立公園
トルコの首都アンカラの南東約250㎞に位置する国立公園で、約95㎢の広さを有します。アナトリア山脈と黒海、トルコの世界遺産暫定リストにも記載されている塩湖・トッズ湖に囲まれたエリアが「カッパドキア」で、キノコの形や先のとがった形などさまざまな形の奇岩の群れで有名です。岩の削りやすさを利用して洞窟の住居がつくられ、宗教弾圧が進むと身を隠すようにキリスト教徒が洞窟聖堂や洞窟修道院をつくりました。今ではギョレメ渓谷に約30の洞窟聖堂が残っています。現地では、気球に乗って上空から奇岩の群れを眺めるアクティビティが人気を集めています。
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シェイフ・ロトフォッラー・モスク

Sheikh Lotfollah Mosque
シェイフ・ロトフォッラー・モスク
広場の東側、アリー・カプー宮殿の対面にあるのがシェイフ・ロトフォッラー・モスクです。完成は1619年(1618年とも)で、広場を囲む他の建物より一足早く建てられました。シェイフ・ロトフォッラーとは、アッバース1世の妃の父である、レバノン出身の説教師(シェイフ)の名に因みます。モスクの規模は小さく、一般的なモスクと異なり、中庭もミナレットもありません。しかし、その精緻な内部装飾により「イランで最も美しいモスク」や「イラン芸術の白眉」と称されています。
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修道院群(ベツレヘム)

Monasteries
修道院群(ベツレヘム)
聖誕教会に隣接する形で、フランシスコ修道会、アルメニア正教会、ギリシャ正教会の修道院が建てられており、これらも世界遺産の構成資産となっています。1878年のベルリン条約で定められた「ステータス・クオ(現状維持協定)」に基づき聖誕教会とその周辺の建造物群はこれら3つの宗派が共同で監督・管理を行っています。毎年クリスマスの時期にはこれら3つの教会の総大司教がそれぞれの教派で異なるクリスマスの日に合わせて巡礼路を通ってベツレヘムを訪れ、イエスの聖誕を祝っています。
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巡礼路(ベツレヘム)

Pilgrimage Route
巡礼路(ベツレヘム)
ベツレヘムとその聖誕教会はキリスト教の伝統的な巡礼地とされています。この道は、ダビデ王の井戸と聖誕教会を結んでおり、ダマスカス門を通って広場へと続いています。毎年クリスマスにはベツレヘムと聖誕教会を管理する3つのキリスト教の教派(カトリック、ギリシャ正教会、アルメニア正教会)の総大司教(正教会では総主教)が、それぞれの定める日の儀礼において辿る道です。この道はイエスの生まれた地とされるベツレヘムの聖誕教会へ向かうイエスの母である聖母マリアと父であるヨセフが辿った道とされています。
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スルタンアフメト・モスク

Sultan Ahmed Mosque / Sultan Ahmet Camii
スルタンアフメト・モスク
イスタンブルの歴史地区として登録されている4つのエリアのうち、もっとも海側に位置するのが、スルタンアフメト・モスク地区です。その中心となるスルタンアフメト・モスクは、1609~1616年(1617年とも)に建設されました。建設を命じたのは、当時19歳だったオスマン帝国第14代スルタンのアフメト1世です。一説には、他のスルタンのように軍事的な勝利を収めることのできなかったアフメト1世が、自身の権威を誇示するために建設を始めたとも言われています。流れるように連なる大小のドームと、6つのミナレットを備えるこのモスクは、イスタンブルのスカイラインでひときわ大きな存在感を放っていますが、最も特筆すべきは壮麗な内部空間です。内部は青いタイルで装飾されており、その美しさから「ブルー・モスク」とも呼ばれています。
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スレイマニエ・モスク

Süleymaniye Mosque / Süleymaniye Camii
スレイマニエ・モスク
スレイマニエ・モスクは、オスマン帝国の最盛期を築いたスレイマン1世(大帝)の命により、1551~1558年(1557年とも)にかけて建設されました。設計を担当したのは、帝国史上最も高名な建築家ミマール・スィナンです。スレイマン1世はモスクの建設に強い情熱を注ぎ、自ら石材を運ぶなどの作業に従事したと言われています。約7年の歳月をかけて完成した壮大なモスクは、金閣湾を一望する丘の上に佇み、現在もイスタンブルの街でひときわ存在感を放っています。
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聖誕教会

Church of the Nativity
聖誕教会
キリスト教の創始者イエス・キリストとされる、ナザレのイエスは紀元前4年頃にベツレヘムで誕生したと伝えられています。その生誕の地とされる洞窟を中心として聖誕教会(降誕教会とも)が建てられています。最初の教会はコンスタンティヌス1世の治世下の339年に創建されましたが、6世紀頃に火災により焼失しています。現在の教会は6世紀半ばに再建されたものを中心にその後増改築を経たものです。
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聖墳墓教会

The Church of the Holy Sepulchre
聖墳墓教会
聖墳墓教会は、イエスの墓とされる場所に立つ教会です。1世紀初頭、イエスは現在のイスラエル北部にあたるガリラヤ地域で伝道を行っていたとされます。ユダヤ教を指導していた伝統的な祭司や、律法を厳格に遵守するパリサイ派を形式主義として批判しました。パリサイ派を含む宗教指導者層の一部などは、イエスがローマ帝国への反逆分子であるとして、当時のユダヤ属州総督ポンテオ・ピラトに訴えました。そして西暦30年ごろ、イエスはエルサレムで死刑判決を受け、当時最も重い刑罰であった十字架刑に処されました。磔刑が執行されたゴルゴタの丘は、ユダヤ戦争やローマ帝国の支配によって場所が分からなくなっていましたが、326年にローマ皇帝のコンスタンティヌス帝の母ヘレナによって特定され、コンスタンティヌス帝の命で335年に最初の聖墳墓教会が建てられました。7世紀にエルサレムがイスラム勢力の支配下に置かれた際、第2代正統カリフのウマルは教会の破壊や転用を禁じましたが、1009年にファーティマ朝のカリフ、アル・ハーキムによって破壊されてしまいます。そこから約100年後となる1099年、エルサレムを占領した第一回十字軍がロマネスク様式の聖堂を建設し、聖墳墓教会を再建しました。1187年、サラディンによってエルサレムが奪還された後も教会は存続し、現在に至るまでイスラム教徒の一族が鍵と扉の管理を担っています。
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ゼイレク・モスク

Molla Zeyrek Mosque / Molla Zeyrek Camii
ゼイレク・モスク
ゼイレク・モスクは、ビザンツ皇帝のヨハネス2世コムネノス(在位:1118~1143年)と、その最初の皇后であるエイレーネーによって、1118~1136年にかけて建設されたパントクラトール(全能者ハリストス)修道院の一部を前身としています。南側のパントクラトール教会と、北側の生神女教会、両者を結ぶ礼拝堂で構成されていました。修道院には図書館や病院が含まれ、礼拝堂にはヨハネス2世コムネノスをはじめとするコムネノス朝やパレオロゴス朝の皇帝が埋葬されるなど、宗教儀礼、医療、教育の場を兼ね備えていたようです。しかし、1204~1261年のラテン帝国期には、パントクラトール修道院が所蔵していた多くの聖遺物や聖具がヴェネツィアへと持ち去られ、建物も大きな損傷を受けました。
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地下宮殿

Basilica Cistern / Yerebatan Sarnıcı
地下宮殿
スルタンアフメト地区アヤ・ソフィアのすぐ近くに、ビザンツ帝国時代の貯水池としては現存最大規模を誇る地下貯水池があります。ビザンツ皇帝ユスティニアヌス1世(在位:527~567年)が築いたもので、長さ約140 m、幅約70mの長方形の空間に、多数の柱がそびえる様子が宮殿のように見えることから、トルコ語では「イェレバタン・サラユ」(地下宮殿)とも呼ばれています。高さ9mの大理石の柱は合計336本、28本ずつ12列にわたり均等な間隔で立ち並んでいます。メドゥーサの頭が彫られた土台が据えられた柱や、コリント様式の柱頭をもつものなどさまざまです。この貯水池は面積1万㎡、貯水量はおよそ8万tもあり、ビザンツ帝国時代は宮殿とその周辺の建物に水を供給していたと考えられています。1950年代以降に修復工事が複数回を行われ、1987年に一般公開されるようになりました。
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チャンディガールのキャピトル・コンプレックス

Complexe du Capitole de Chandigarh
チャンディガールのキャピトル・コンプレックス
1952年にインドのパンジャーブ州チャンディガールで始まった都市計画は、「チャンディガールのキャピトル・コンプレックス」として、建築家ル・コルビュジエによる最も壮大な近代建築のひとつとして知られています。1947年にインドがイギリスから独立した際、パンジャーブ州は東西に分割され、東側はインド領、西側はパキスタン領になりました。当時、州都であったラホールがパキスタン側に属することになったため、新たな州都がチャンディガールに建設されることになったのです。この都市計画は、独立を果たしたインドが自由と近代化へ向かう姿を象徴しており、民主主義を支える立法・行政・司法の3つの建物と、ル・コルビュジエの思想を表現する4つのモニュメントで構成されています。
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テオドシウスの城壁

Theodosian Walls / Theodosius Surları
テオドシウスの城壁
北の金閣湾と南のマルマラ海を結ぶように、全長約6kmにわたって延びる「テオドシウスの城壁」は、ローマ皇帝テオドシウス2世の治世下の413年に築かれた城壁です。イスタンブル旧市街は三方を海に面していますが、街の西側は陸続きのため攻め入れられる可能性がありました。この弱点を克服するために建設されたのが城壁で、古くは4世紀のコンスタンティヌス1世の時代に遡り、「テオドシウスの城壁」はさらにその西側にあります。テオドシウス2世の父アルカディウスの治世下にあたる404年頃から始まったようです。413年に完成しますが、447年の大地震で深刻な被害を受けました。ちょうどそのころ、アッティラ率いるフン族がイスタンブルまで迫っており、わずか60日で城壁の修復作業が行われたと伝わっています。
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デリンクユの地下都市

Subterranean city of Derinkuyu / Derinkuyu Yeraltı Şehri
デリンクユの地下都市
デリンクユの地下都市は、カイマクルと同様、軟らかい凝灰岩を掘り下げて築かれ、その深さは約85mにも及びます。一般的にビルの階層は1階層で高さ3~4mなので、21~28階建てのビルが埋まっている計算になり、その規模の大きさを実感できます。まるで蟻の巣のように張り巡らされている地下空間の各所には、内側から閉めることができる転がすことのできる大きな石の扉があり、また各階ごと封鎖することも可能となっており、侵略に対する備えがなされていました。
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トプカプ宮殿

Topkapı Palace / Topkapı Sarayı
トプカプ宮殿
コンスタンティノープル征服からわずか6年後の1459年、メフメト2世によってマルマラ海とボスフォラス海峡を臨む岬に建設が開始されたのがトプカプ宮殿です。1856年に宮廷がドルマバフチェ宮殿に移されるまで、トプカプ宮殿は歴代スルタンの宮廷生活と政務の場となりました。「トプカプ」の名は18世紀以降、宮殿近くにあった「大砲の門」にちなむもので、それまでは「新宮殿」と呼ばれていました。宮殿の面積はおよそ70万㎡あり、外廷、内廷、後宮(ハーレム)の3つに大きく分かれています。アヤ・ソフィアの南東にある「帝王門」と呼ばれる正門から入ることができます。
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嘆きの壁

Western Wall
嘆きの壁
紀元前1000年ごろ、古代イスラエル王国の第2代王ダヴィデは、エルサレムを都としました。続くダヴィデの息子ソロモンは、紀元前965年ごろに現在「神殿の丘(ハラム・アッシャリーフ)」と呼ばれるモリヤの丘に、エルサレム神殿(第一神殿)を建設しました。この神殿には、ユダヤ教の律法の戒律「十戒」を記した石板を収めるための「契約の櫃」が置かれていました。「十戒」は、紀元前13世紀頃にヘブライ人の指導者モーセが神から授けられたとされるものです。元は遊牧民族であったヘブライ人は、『旧約聖書』によると紀元前1500年頃にパレスチナの地に定住し、一部はエジプトへと進出しましたが、エジプトのファラオによって迫害を受けて奴隷とされていました。モーセはヘブライ人を導いてエジプトを脱出(出エジプト)し、シナイ山で十戒の石板を与えられたと言われています。この出来事は、一神教と偶像崇拝の禁止を特徴とするユダヤ教の成立に大きく寄与したと考えられています。十戒を収めた神殿の最奥部は、大祭司が年に一度特別な儀式を行うことでしか入れない場所で、最も神聖な空間でした。
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