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アカバ海洋保護区
Aqaba Marine Reserve
アマゾニアの劇場群
Amazonia Theaters
アメル山の城塞群
Mount Amel Castles
レバノン南部に位置するアメル山の城塞群は、中世から19世紀にかけて発展したカラアト・アルシャキーフ(ボーフォート城)、カラアト・ティブニーン(トロン城)、カラアト・シャクラ(ドゥビエ城)、カラアト・デイル・キファ(マロン城)、カラアト・シャマーの5つの要塞の遺跡で構成されています(カラアトはアラビア語で「城塞」)。これらは丘陵や尾根の上に築かれており、重要な防衛拠点として機能しました。当初は監視塔や基地でしたが、やがて十字軍やイスラム諸王朝の軍事的知識・技術・概念が取り入れられ、射撃設備や城門、防御塔、貯蔵施設などを備えた複雑な城塞へと発展していきました。また、周辺地域の交通や人・物資の往来、農業を統制するネットワークとして、行政的な面も持ち合わせていました。5つの要塞群は、約1,000年にわたるレヴァント地域の軍事的、政治的、社会経済的な組織の歴史を物語っています。
アラムート城と関連要塞群
Alamūt Castle and Related Fortifications
アルヴァ・アアルトの作品群
Aalto Works
1928~1988年にかけて、フィンランド出身の建築家アルヴァ・アアルト(1898~1976年)がフィンランド各地に建設した13件の建築物です。アアルトは、自身の妻や建築事務所スタッフ、関連企業の社員など、多くの協働者とともに作品を完成させました。アアルトは20世紀モダニズム運動の国際的な理念を取り入れながら、それをフィンランド地域の環境や文化に適応させ、人や社会のニーズに応える建築を設計しました。初期の作品は機能主義的な側面が強く、次第に人間の感覚や快適性を重視する独自の「有機的機能主義」へと発展します。木材やレンガなどの自然素材を活用し、光や景観を巧みに取り込むことで、人々の暮らしや地域社会に寄り添う建築を実現しました。
アンティコスティ
Anticosti
イスタンブルの歴史地区
Historic Areas of Istanbul
トルコ北西部のイスタンブルは、アナトリア半島、バルカン半島、黒海、地中海の間に位置し、ヨーロッパとアジアを隔てるボスフォラス海峡の両岸にまたがる、トルコ最大の都市です。その立地が表すように、ヨーロッパとアジアの文明が交差する十字路であり、ローマ帝国やビザンツ帝国、オスマン帝国といった大帝国の都が置かれてきました。都市の起源は紀元前7世紀頃に遡り、古代ギリシャの都市国家メガラが、王の名にちなみビザンティオンという名の都市を建設したことが始まりとされています。2世紀末に、ローマ帝国に占領されて「ビザンティウム」と改名。330年には帝都がローマからこの地へと遷され、当時のローマ皇帝コンスタンティヌスの名にちなんで都市名は「コンスタンティノポリス」(コンスタンティノープル)と名付けられました。395年にローマ帝国が東西に分裂すると、コンスタンティノープルはビザンツ帝国(東ローマ帝国)の都となりました。西ローマ帝国はわずか80年後の476年に滅亡したのに対し、ビザンツ帝国はその後1,000年以上も続きました。また、1054年キリスト教会が東西に分裂すると、西のローマはカトリック教会、東のコンスタンティノープルはギリシャ正教会の本拠地となりました。
エルサレムの旧市街とその城壁群
Old City of Jerusalem and its Walls
西アジアの地中海東岸地域(レバント地方)に位置するエルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つの宗教にとってきわめて重要な意味を持つ聖地です。エルサレムの歴史は非常に古く、約6,000年前には人類が居住していた可能性があります。紀元前14世紀の古代エジプトの文書に登場する「ウルサリム」という記述は、エルサレムに関する初めての確実な言及とされています。ウルサリムは西セム諸語の「シャリムの都市」を意味する語に由来し、それが転訛してエルサレムとなったと考えられています。現代アラビア語では「神聖」を意味する語に定冠詞(Al)が付いたAl Quds(アル・クドゥス)と呼ばれます。これはエルサレム神殿のヘブライ語名である「聖なる家」をアラビア語に翻訳したバイト・アル・マクディスという名称が短縮したものとされています。現在、エルサレムは西エルサレムと東エルサレムに分かれており、世界遺産に登録されている旧市街は東エルサレムに位置しています。旧市街は約1km四方の範囲に広がり、周囲を囲う城壁の全長は約4kmあります。城壁はオスマン帝国のスレイマン1世によって再建されたもので、8つの門のうち7つが現在も使用されています。
オキフェノーキー国立野生生物保護区
Okefenokee National Wildlife Refuge
オリンポス山周辺地域
The wider area of Mount Olympus
ガラパゴス諸島
Galápagos Islands
匈奴の貴族の墓地遺跡群
The Cemetery Complexes of the Xiongnu Nobility
グディニャ:モダニスト都市の中心部
Gdynia Modernist City Centre
ポーランド北部、バルト海沿岸に位置するグディニャは、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の1926~1939年にかけて建設された都市です。第一次世界大戦後に独立を回復したポーランドが、自国の主要な港湾を整備するために開発を進め、小さな村落だったグディニャはポーランドを代表する港湾都市へと発展しました。グディニャの中心部では、伝統的な都市計画にモダニズム思想が大規模に取り入れられました。従来の碁盤目状の街路構成をもちながらも、建物には採光や通風、衛生環境を重視したモダニズムの理念が反映された建造物が建てられ、開放的な中庭をもつ都市街区や近代的な集合住宅が整備されました。また、港や海との結び付きが都市計画や建築意匠にも反映されており、船舶を思わせるデザインや海洋的なモチーフが数多く見られ、港湾都市ならではの景観が広がります。
景徳鎮の手工芸磁器産業遺産群
Jingdezhen Handicraft Porcelain Industry Sites
中国中部の江西省にある景徳鎮は、陶石や高嶺土(カオリン)、窯の燃料となる森林資源、水運に恵まれた地域です。13~20世紀初頭まで、景徳鎮は中国における磁器生産の中心地として栄え、「磁都」と呼ばれました。1278年に、中央政府の磁器生産体制に組み込まれ、14世紀末から15世紀初頭には宮廷専用の磁器を焼く窯も設立されました。多くの職人や労働者が景徳鎮に集まり、分業化と専門化が進んだことで、効率的かつ高品質な磁器の大量生産が実現しました。18世紀には生産の最盛期を迎え、景徳鎮でつくられた磁器は世界各地へ輸出されました。こうした製品は世界の陶磁器産業の発展に大きな影響を与えました。とりわけ17~18世紀のヨーロッパで流行したシノワズリ(中国趣味)では、景徳鎮の磁器が盛んに収集され、絵画や家具、建築装飾など幅広い分野に影響を及ぼしました。
コモロのスルタン国時代の旧市街群
The Medinas of the Historic Sultanates of the Comoros
コモロ連合は、アフリカ本土の約300km東に位置する島国です。コモロ諸島を構成する4島のうち、ンズワニ島(アンジュアン島)、ンジャジジャ島(グランドコモロ島)、モエリ島の3島で国家を形成しており、残るマヨット島はフランス領となっています。その中でもンズワニ島とンジャジジャ島には、およそ14~15世紀から19世紀にかけて栄えたスルタン国時代に関する歴史都市が残ります。世界遺産に登録された6つの都市は、少なくとも11世紀頃に起源をもち、やがてコモロのスルタン国の政治・宗教・経済の中心地となりました。メディナには、宮殿や城壁、石造りの住宅、多様な形式のモスク、イスラム神秘主義(スーフィー)教団の集会所であるザーウィヤ、公共インフラ設備が含まれています。コモロでは、結婚した夫婦は夫が妻の実家や近傍に居住する「妻方居住婚」の慣習があるなど、母系制が受け継がれています。一方で父系的なイスラム教の伝統も根付いており、両者が融合した階層的な社会構造が形成されてきました。メディナの都市空間はこうした社会構造を反映しており、公共広場や路地、住宅地の配置にも母系制や年齢階梯制、イスラム社会の仕組みが色濃く表れています。メディナは現在も通過儀礼や地域行事の舞台となっています。
サールナートの古代仏教遺跡
Ancient Buddhist Site of Sarnath
インド北部にあるウッタル・プラデーシュ州のヴァーラーナシーに位置するサールナートは、ブッダ自ら定めた仏教四大巡礼地のひとつです。ブッダが紀元前6世紀にこの地を訪れ、最初の説法(初転法輪)を行い、最初の弟子たちと出会った場所であるとされています。王族や僧侶、信者の支援の下で、多数のストゥーパ(仏塔)や寺院、ヴィハーラ(精舎)が建設されました。その歴史はマウリヤ朝以前の紀元前5~前3世紀頃に遡り、クシャーナ朝、グプタ朝を経て、12世紀まで継続的に発展しました。その後都市は衰退し、イスラム勢力による破壊を受けて放棄されますが、18世紀に再発見され、考古学調査が進められました。現在は仏教徒にとって重要な巡礼地として再び信仰を集めています。
サントメとプリンシペのロサ(農園)群:植民地農業システムと強制移住
The Roças of Sao Tome and Principe: Colonial Agricultural System and Forced Migration
アフリカ大陸西部のギニア湾に浮かぶサントメ・プリンシペ民主共和国は、サントメ島とプリンシペ島などの島々からなる島国です。サントメ・プリンシペには、ポルトガル植民地時代の大規模農園「ロサ」が各地に残されています。ロサは19世紀後半に森林を開墾してつくられた、サントメ・プリンシペ特有の大規模農園で、コーヒーや輸出用カカオの生産拠点となりました。その建築や空間構成、生産インフラは、ヨーロッパの技術やプランテーションの仕組みがアフリカへ移転されたことを示すとともに、奴隷制廃止後も強制労働や契約労働へ移行しながら、労働力の搾取が続いた過程を今に伝えています。世界遺産には、サントメ島にあるモンテ・カフェ、アグア・イゼ、ディオゴ・ヴァス、サン・ジョアンと、プリンシペ島にあるスンディ、ベロ・モンテの計6つのロサが登録されています。
シディ・ブ・サイドの村
Village of Sidi Bou Saïd
チュニジア北部、首都チュニス都市圏に含まれるシディ・ブ・サイドの村は、地中海を望む丘の頂上に位置する村です。丘の斜面には、白い外壁と青い扉や窓をもつ建物が階段状に連なり、地中海の青色とのコントラストが非常に美しい町並みが特徴です。密集して立つ建物の間を狭く曲がりくねった石畳の通りが延びています。この村は、12~13世紀に実在したスーフィー(イスラム神秘主義)の聖人であるシディ・ブ・サイド(本名はアブー・サイード・ハラフ・イブン・ヤフヤー・アルタミーミー・アルバージー)の霊廟を中心に形成され、村の名称も彼の名前に由来しています。シディ・ブ・サイドが生きたムワッヒド朝(1130~1269)の時代は、スーフィズム(イスラム神秘主義)がマグリブ(チュニジア~モロッコにかけての北西アフリカ地域)全体へ広がっていった時期で、シディ・ブ・サイドは導師として活躍しました。
18-19世紀のイタリア中部におけるイタリア式の共同所有型劇場システム
The system of Italian-style condominio theatres of the 18th and 19th centuries in Central Italy
聖ヒラリオン修道院/テル・ウンム・アメル
Saint Hilarion Monastery/ Tell Umm Amer
セバスティア
Sebastia
タシュケントのモダニズム建築:中央アジアにおける近代性と伝統
Tashkent Modernist Architecture. Modernity and Tradition in Central Asia
トロンデック・クロンダイク
Tr’ondëk-Klondike
カナダ北西部のユーコン川流域には、先住民(ファースト・ネーションズ)のトロンデック・フェチン族(Tr’ondëk Hwëch’in)が数千年にわたり暮らしてきた故郷があります。ユーコン川は北米有数の大河で、その流域は亜寒帯の気候帯に位置します。夏は比較的暖かく冬は非常に寒冷で、豊かな自然環境が広がる土地でした。この地域では、サケやヘラジカ(ムース)、トナカイ(カリブー)などの動物が数多く生息し、トロンデック・フェチン族は狩猟や採集、交易を行い、資源を求めて1年を通じて小集団で移動する生活を営んでいました。季節ごとに資源が豊富な場所を選び、土地を枯渇させないようにするための先祖の知恵を受け継いで暮らしていました。なお、トロンデック・フェチン族の“Tr’o”はサケ漁用の仕掛けを川の河口に打ち込む石(ハンマーストーン)を意味し、“ndëk”は「川の河口」、“Hwëch’in” は「人々」を意味します。
ナコーンシータンマラートにあるワット・プラ・マハタート・ウォラマハーウィハーン
Wat Phra Mahathat Woramahawihan, Nakhon Si Thammarat
ノルマンディー上陸作戦の海岸群(1944年)
Beaches of the D-Day Landings, Normandy, 1944
バウハウス関連遺産群:ヴァイマールとデッサウ、ベルナウ
Bauhaus and its Sites in Weimar, Dessau and Bernau
20世紀の建築と芸術、都市計画において世界的な影響を与え、モダン・ムーブメント(近代建築運動)の基盤となったバウハウスは、1919年にドイツのヴァイマールで総合造形学校として設立されました。ドイツ語で「建築の家」を意味し、建築作業組合「バウヒュッテ」が名前の由来となっています。初代校長を務めた建築家ヴァルター・グロピウスや2代目校長のハンネス・マイヤー、独特な画風で近現代美術に影響を与えたパウル・クレー、画家・写真家で新興写真運動の中心人物を務めたモホリ=ナジ・ラースロー、抽象絵画の先駆者ワシリー・カンディンスキーといった当時を代表する芸術家たちが教鞭をとり、建築を軸に、デザイン、美術、写真、彫刻などの総合的な教育が行われました。ヴァイマールには、バウハウスの校舎となった旧美術学校と本館、バウハウスの理念に基づいて建てられた初期の建築物であるハウス・アム・ホルンがあります。1925年以降、拠点はデッサウへ移され、ヴァルター・グロピウスの設計でバウハウス・デッサウ校舎や、バウハウスの教員が暮らすマスターズハウスが建設されました。これらは、機能主義に基づく設計と新素材・技術の活用を通じて、モダン・ムーブメント(近代建築運動)を切り開きました。
パナマの植民地時代の地峡横断ルート
The Colonial Transisthmian Route of Panamá
「パナマの植民地時代の地峡横断ルート」は、2025年にフランス・パリで開催された第47回世界遺産委員会で、世界遺産に登録されました。これに先立ち、1997年には「パナマ・ビエホ考古遺跡とパナマの歴史地区」が独立した世界遺産として登録されていましたが、2025年の登録に伴い、それらは新たな遺産「パナマの植民地時代の地峡横断ルート」の構成資産として統合されました。16世紀以降、パナマ地峡はイベリア半島とアメリカのスペイン王国の植民地、フィリピン諸島、カナリア諸島間の物資や人の輸送を円滑にする世界的な戦略的資産となりました。連続した土地は、地峡を横断した証拠であり、戦略的に要塞化された集落、歴史的な町、考古学的遺跡、そしてカリブ海と太平洋を結ぶ道路などが含まれています。
北京の中軸線:中国首都の理想的秩序を示す建造物群
Beijing Central Axis: A Building Ensemble Exhibiting the Ideal Order of the Chinese Capital
中国の首都・北京の中心部を南北に貫く中軸線は、北の鐘鼓楼から万寧橋、景山公園、紫禁城(故宮)、天安門などを経て、南の永定門に至るまで、全長7.8kmにわたって延びています。この都市軸は、北京の歴史的中核を形づくるとともに、中国の皇帝制と伝統的都市計画の理念を現在に伝えるものです。歴史的には、元代(1271~1368年)の首都・大都の建設とともに1267年に初めて建設され、明代(1368~1644年)、清代(1636~1912年)にかけて拡張・形成されました。元代に大都が建設された際、現在の什刹海(シチャハイ)東岸周辺を基準点として、南方向に都市の軸線が設定されました。これに沿って宮城が築かれ、都市の四方の境界が画定されるとともに、街路は碁盤目状に整備されました。この軸線は中国古代に編纂された、儒教に関わる経書のひとつ『周礼』の「考工記」で示された理想的な都城のモデルが具体化されたものでした。明代に入ると、紫禁城を中心とする内城とその南側に外城が建設され、南北へと延長されました。15世紀前半には、紫禁城の北側に景山が築かれ、東西には太廟と社稷壇(しゃしょくだん)が配置されました。さらに内城の南には天安門と正陽門が整備され、16世紀半ばまでに外城が完成すると、中軸線は永定門まで延び、現在見られる7.8kmの全体像が成立しました。その後の清代にかけて、建造物の改修や景観の整備が進められ、中軸線は皇帝制のもとで維持・発展していきました。
ボマとバディンギロにおける動物の渡りの景観
Boma-Badingilo Migratory Landscape
南スーダンの南東部に位置するボマ国立公園とバディンギロ国立公園、および2つの公園を結ぶ生物回廊の、約11万2,000㎢の範囲にまたがる遺産です。一帯には、広大なサバンナや湿地、氾濫原、季節的に冠水する草原、疎林、低木林などさまざまな自然環境が広がっています。これらの自然環境は、雨季にソバト川、ピボール川、カンゲン川流域で発生する洪水によって形成されており、野生動物にとって重要な採食地や生息地となっています。また、この地域に生息する有蹄類は、季節ごとに大移動を行います。2023~2024年に行われた調査の結果、一帯を移動する有蹄類はおよそ600万頭にも及ぶことが分かり、陸生哺乳類の移動としては世界最大規模とされています。なかでも、アンテロープの仲間であるシロミミコーブ、ティアンダマリスクス、モンガラガゼルは大規模な移動を行うことで知られています。
マンギスタウの岩窟モスク群と関連する聖地群
Rock Mosques and Associated Sacred Sites of Mangystau