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アーヘンの大聖堂
Aachen Cathedral
アーメダバードの歴史都市
Historic City of Ahmadabad
アールフェルトのファーグス靴型工場
Fagus Factory in Alfeld
アイアンブリッジ峡谷
Ironbridge Gorge
アヴィニョンの歴史地区:教皇庁宮殿、司教の建造物群、アヴィニョンの橋
Historic Centre of Avignon: Papal Palace, Episcopal Ensemble and Avignon Bridge
アウクスブルクの水管理システム
Water Management System of Augsburg
アガデスの歴史地区
Historic Centre of Agadez
アグリジェントの考古地区
Archaeological Area of Agrigento
アジャンターの石窟寺院群
Ajanta Caves
飛鳥・藤原の宮都
Ancient Capitals of Asuka and Fujiwara
アスキア墳墓
Tomb of Askia
マリ共和国の南東部ガオには、高さ17mもあるピラミッド型をしたアスキア墳墓が残っています。これは1495年、かつてニジェール川流域を中心に繁栄したソンガイ帝国の時代に造営されたもので、ガオはその都でした。この帝国を治めていたアスキア・モハメド王は、信心深いイスラム教徒で、後にイスラム教を国教に定めました。アスキア・モハメド央の泥を固めてつくられている墳墓は、丸みを帯びた形が特徴で、西アフリカのサヘル地域特有の建築様式を代表する建造物です。15世紀から16世紀にかけて、同帝国は岩塩と金を中心としたサハラ交易を掌握しましたが、これはその時代の栄華を物語るものだとも言えます。付近一帯には墳墓のほか、平屋根の2つのモスク、共同墓地、野外集会所も残存します。2012年、地域紛争の勃発による破壊などを理由に、危機遺産リストに登録されました。
アストゥリアス王国とオビエドの宗教建築物群
Monuments of Oviedo and the Kingdom of the Asturias
スペイン北西部、アストゥリアス地方の中心都市オビエドは、かつてアストゥリアス王国時代に首都として君臨していました。この地はイスラム勢力に征服されたのち、レコンキスタの口火を切った西ゴート王国の貴族ペラーヨによって奪還され、718年にアストゥリアス王国が建国されます。その後、8~10世紀にかけて首都オビエドに幾つものキリスト教の教会が建てられ、現在ではオビエド市街や郊外に残る6つの教会と関連施設が世界遺産として登録されています。特徴的なのは、プレロマネスク様式の1つであるアストゥリアス様式で建造されている点です。その代表例がサンタ・マリア・デル・ナランコ教会で、装飾や彫刻、ファサードなどがビザンツ様式から着想を得て建てられています。この教会建築が後のイベリア半島における建築様式の発展に強い影響を与えました。
アスマラ:アフリカのモダニズム都市
Asmara: A Modernist African City
アッコの旧市街
Old City of Acre
イスラエル北部の地中海に面するアッコは、フェニキア時代から継続的に居住されてきた、城壁に囲まれた港街です。1104年、第1回十字軍の指導者の1人であるボードゥアン1世がアッコを占領し、パレスチナにおける十字軍活動の拠点として港湾都市が築かれました。1187年、アイユーブ朝のサラディン軍によってエルサレムが征服された後、アッコはエルサレム王国最後の拠点となりましたが、1291年にマムルーク朝の攻撃を受けて陥落しました。その後、200年以上にわたりマムルーク朝によって統治されました。アッコの地下には、十字軍によって築かれた要塞やキリスト教の礼拝堂、要塞と港をつなぐトンネル、商店街など十字軍の遺構がそのまま埋もれており、十字軍によって築かれた街全体が遺跡として残っている唯一の例であるとされています。
アッシジのサン・フランチェスコ聖堂と関連建造物群
Assisi, the Basilica of San Francesco and Other Franciscan Sites
アテネのアクロポリス
Acropolis, Athens
アテネは古代ギリシアを代表するポリス(都市国家)であり、民主政の基礎が築かれた場所でもあります。その中心となった場所が「アテネのアクロポリス」です。アクロポリスとは「高いところ」を意味し、今でもアテネの市街地を見下ろす高さ70mほどの丘にアクロポリスが鎮座しています。このアクロポリスの中心に立つのが、世界的に有名な「パルテノン神殿」です。この神殿は、古代のペルシア戦争終了後に、天才的な政治家であったペリクレスの指導の下、建設されました。ペルシア戦争の勝利を祝ってアテナに捧げられた神殿であり、大彫刻家のフェイディアスが中心となり手がけました。この神殿の特徴のひとつは、円柱の中央部が微妙に膨らんでいる「エンタシス」という技法です。重圧感を和らげ、軽快さを演出するという効果があり、驚くことにはるか東の日本の法隆寺の柱でもこの技法が伝わっています。
アニの考古遺跡
Archaeological Site of Ani
トルコ北東部にある『アニの考古遺跡』は、アルメニアとの国境に近い高原に築かれた中世の都市遺跡です。深い渓谷に囲まれたエリアにあり、住居・教会・城壁などが残っています。10~11世紀にはアルメニア王国バグラトゥニ朝の首都として栄え、シルク・ロードの支線を押さえたことで交易の中心地となりました。その後、ビザンツ帝国やセルジューク朝などに支配され、多文化が交わる都市として発展しますが、モンゴルの侵入と1319年の大地震で衰退しました。このアニでは、アルメニア、ジョージア、イスラムの文化が融合した独自の建築様式が生まれ、中世建築の発展を一望できる貴重な遺跡となっています。現在では、多様な建築技術や都市計画を学べる場所として、歴史や考古学を学ぶ学生にとっても重要な研究対象となっています。
アフパットとサナインの修道院
Monasteries of Haghpat and Sanahin
アフロディシアス
Aphrodisias
アフロディシアスは、トルコの南西部、モルシナス渓谷の上流にあり、都市遺跡とその北東部にある大理石の採石場で構成されています。古くはレルゴノポリス、メガロポリスと呼ばれていましたが、紀元前2世紀にローマ帝国の支配が強化されたことで、この街は神聖な場所としての重要性を増し、美、愛、自然、豊かさの女神アフロディーテに由来してアフロディシアスの名前が付けられました。街の中心には、女神を祀ったアフロディーテ神殿つくられ、現在も堂々とした14本の柱を見ることができます。発掘調査によると、劇場の壁に書かれた文字に「カエサルから女神アフロディーテに贈った黄金のエロス像」とあることから、カエサルはこの街に来て女神に忠誠を捧げたと考えられています。
アマゾニアの劇場群
Amazonia Theaters
アマルフィ海岸
Costiera Amalfitana
ソレントからサレルノに至る約30kmにわたる絶景の海岸線とその街並みが世界遺産に登録されています。この町は中世初期から漁村群にはじまり、そそり立つ岩壁に沿うように家屋や吊り橋、風の塔などが作られ、町として発展していきました。限られた平坦な土地にはワインになるブドウ畑やレモン畑が作られ、海岸線と町と相まった文化的景観も評価されています。アマルフィは、9世紀から11世紀にかけて海洋貿易によって繁栄した海洋国家でした。イスラムの国々とも貿易を通して交流し、家々が迷路のように路地や階段でつながった様子は、トルコのスークのよう。漁師の守り神・聖アンドレアに捧げられた「アマルフィ大聖堂」や、「聖アンドリュー大聖堂」は「アラブ・ノルマン」様式として知られる東洋と西洋の要素の融合が見て取れます。
アミアンの大聖堂
Amiens Cathedral
アムステルダム中心部:ジンフェルグラハト内部の17世紀の環状運河地区
Seventeenth-century canal ring area of Amsterdam inside the Singelgracht
13世紀にアムステル川にダムをつくり、海水の侵入を防いでそこに集落が成立したのが現在の「アムステルダム」の起源です。現在の運河地区は16世紀末から17世紀初頭にかけての湾岸都市プロジェクトとして建設されました。一番外側の「ジンフェルグラハト」まで扇状に広がる運河をつくり、さらに同心円状に運河を整備し、その間の土地(沼沢地)を排水して市街地化していきました。この町の運河と都市景観は美しいだけでなく実用的でかつ経済的なものです。16世紀末以降、オランダは海洋国家として黄金期を迎えていました。日本を含むアジアとの交易等で莫大な富を蓄え、アムステルダムは世界有数の富裕都市となりました。そしてその非常に均質な街並みは19世紀に至るまで大規模都市計画のモデルとなりました。
アメル山の城塞群
Mount Amel Castles
レバノン南部に位置するアメル山の城塞群は、中世から19世紀にかけて発展したカラアト・アルシャキーフ(ボーフォート城)、カラアト・ティブニーン(トロン城)、カラアト・シャクラ(ドゥビエ城)、カラアト・デイル・キファ(マロン城)、カラアト・シャマーの5つの要塞の遺跡で構成されています(カラアトはアラビア語で「城塞」)。これらは丘陵や尾根の上に築かれており、重要な防衛拠点として機能しました。当初は監視塔や基地でしたが、やがて十字軍やイスラム諸王朝の軍事的知識・技術・概念が取り入れられ、射撃設備や城門、防御塔、貯蔵施設などを備えた複雑な城塞へと発展していきました。また、周辺地域の交通や人・物資の往来、農業を統制するネットワークとして、行政的な面も持ち合わせていました。5つの要塞群は、約1,000年にわたるレヴァント地域の軍事的、政治的、社会経済的な組織の歴史を物語っています。
アランフエスの文化的景観
Aranjuez Cultural Landscape
アルヴァ・アアルトの作品群
Aalto Works
1928~1988年にかけて、フィンランド出身の建築家アルヴァ・アアルト(1898~1976年)がフィンランド各地に建設した13件の建築物です。アアルトは、自身の妻や建築事務所スタッフ、関連企業の社員など、多くの協働者とともに作品を完成させました。アアルトは20世紀モダニズム運動の国際的な理念を取り入れながら、それをフィンランド地域の環境や文化に適応させ、人や社会のニーズに応える建築を設計しました。初期の作品は機能主義的な側面が強く、次第に人間の感覚や快適性を重視する独自の「有機的機能主義」へと発展します。木材やレンガなどの自然素材を活用し、光や景観を巧みに取り込むことで、人々の暮らしや地域社会に寄り添う建築を実現しました。
アルカラ・デ・エナレスの大学と歴史地区
University and Historic Precinct of Alcalá de Henares
マドリード郊外にあるアルカラ・デ・エナレスは、小説『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』の作者ミゲル・デ・セルバンテスの出身地として知られています。ここは、世界で最初に計画された大学都市です。1508年、カスティーリャ王国の摂政を務めたシスネロス枢機卿がキリスト教の理想郷を目指し、この地にアルカラ・デ・エナレス大学を開学したことから学園都市の歴史は始まります。シスネロス卿は土地を購入し、大学都市の実現に必要なインフラを整備しました。この計画には、大学、寮、病院、印刷所などが含まれており、世界初の多言語対訳聖書も刊行されました。19世紀に大学はマドリードへ移転しコンプルテンセ大学となりますが、市民が資金を出してこの地に建物を残し、1977年にアルカラ・デ・エナレス大学として再開校しました。
アルジェの旧市街カスバ
Kasbah of Algiers
アルジェリアの首都アルジェには、イスラムの城塞地区が残ります。16世紀にはスペインに侵略されたこの地は、地中海支配の拠点とすべく、幾つもの要塞が築かれていました。しかし、ほどなくしてこの地域を奪回した人物がいました。海賊の首領であったバルバロス・ハイレッディンです。彼は赤褐色の髪とひげをもつため「赤ひげ」と呼ばれていました。彼はこの地をオスマン帝国に献上すると、地方長官に任命され、以後キリスト教国の商船から略奪した財宝や人質の身代金でカスバの礎を築いていきました。カスバとは本来「城塞」を意味しますが、現在はアルジェの旧市街のことをカスバと呼びます。ただし、その後のフランスの植民地支配により、当時の建物はほとんど破壊され、当時の面影はわずかしか残されていません。
アルダビールのシャイフ・サフィ・アッディーン廟と関連建造物群
Sheikh Safi al-din Khānegāh and Shrine Ensemble in Ardabil
アル・ヒジルの考古遺跡(マダイン・サレハ)
Hegra Archaeological Site (al-Hijr / Madā ͐ in Ṣāliḥ)
以前は「ヘグラ」の名称で呼ばれていたこの「アル・ヒジルの考古遺跡」は、サウジアラビアで最初に登録された世界遺産です。紀元前1世紀から紀元後1世紀ごろにかけて栄えた遊牧民族のナバテア人が築いた街で、預言者サレハの名から「サレハの街」と呼ばれています。同じナバテア人によるヨルダンのペトラ遺跡より南に現存するナバテア文明の中では最大の遺跡です。4つの大規模な墓地があり、装飾された94基の墓石群のほか、神殿、用水路や貯水槽などの遺跡が良好な状態で保存されています。また、ナバテア文明以前の洞窟画や碑文も約50発見されており、これらは紀元前3~前2世紀頃にこの地に住んでいたリヤーン人のものであると考えられています。