









『ダラム城と大聖堂』は、イングランド北部、スコットランドとの国境近くにあるU字形に湾曲して流れるウェア川を見下ろす小高い丘の上に立っています。ダラム城はイングランド最大のノルマン様式の城で、1072年、ウィリアム1世がスコットランドの侵攻に備えて築きました。国王はイングランド北部の境界を守る見返りとして、実質的な自治権を歴代のダラム司教に与え、城での居住を認めました。それにより、司教は「王子司教」として宗教指導者と世俗権力の両方を握りました。1837年に城はダラム大学に寄付され、1840年以降は大学の学生寮として使用されています。
ルワンダ内戦中の1994年4月から7月の約100日間にかけて行われた「ジェノサイド(大量虐殺)」を伝える遺産です。フツ族とツチ族の民族対立から広がった争いは「インテラハムウェ」と呼ばれる民兵武装集団により、ルワンダ全土で推定100万人が犠牲となる悲劇を生むことになりました。この遺産は、将来への教訓を伝える「負の遺産」と考えられると同時に、2023年の世界遺産委員会では「近年の紛争(リーセント・コンフリクツ)」における議論を前提とした「記憶の場」に関する世界遺産として登録されたうちの1件でもあります。(残り2つは「ESMA 博物館と記憶の場:拘禁と拷問、虐殺のかつての機密拠点(アルゼンチン共和国)」「第一次世界大戦(西部戦線)の慰霊と記憶の場(ベルギー王国/フランス共和国)」)
18世紀初頭、ラージプート諸国の一つアンベール王国の藩王(マハラジャ)であったサワーイー・ジャイ・シング2世が建設した天体観測施設群です。彼は科学者でもあったので、山上のアンベール城から平地のジャイプールへ遷都するタイミングで、自身の居城シティ・パレスの一角に観測施設をつくりました。彼は他の北インドの領地5カ所にも同様の観測施設をつくりましたが、ここジャイプールのものが最も規模が大きく、かつ完全な形で保存されています。なお、ジャイ・シング2世が整備した新都ジャイプールは、『ラジャスタン州のジャイプール市街』として世界遺産に登録されており、ジャンタル・マンタルも含まれています。
インド北西部ラジャスタン地方に位置するジャイプール市街は、かつてこの地に割拠したラージプート諸国のひとつ、アンベール王国の藩王(マハラジャ)であったサワーイー・ジャイ・シング2世が1727年に建設した都市です。王ははじめ丘陵地帯にあった城塞アンベール城を居城としていましたが、人口の増加や水不足に対応するため、平地に新たな都を建設しました。新たな都は「ジャイプール(「ジャイの町」)」と名づけられました。ジャイプールは英国の植民地支配下に置かれていた時代でも、領地の自治を保証されていたため、他の都市と比べてよりインド的な雰囲気を残しています。
ティヴォリは、ローマの東方30㎞に位置するラツィオ州の田園地帯を見下ろす丘の上にあります。穏やかな気候と豊かな自然に恵まれた一帯は、古くからローマ人達の別荘地として利用されて来ました。ヴィッラ・アドリアーナは、ローマ帝国の五賢帝のひとりであるハドリアヌス帝が、紀元117年から138年にかけて建設した別荘で、その敷地面積は1.2㎢に及びます。彼が帝国の属州を視察する中で、感銘を受けたエジプト、ギリシア、ローマなどの優れた景色や建造物の様々な要素を組み合わせて、「理想の都市」を再現しました。ハドリアヌス帝の死後、別荘は放棄されましたが、1461年に再発見されました。この別荘の建造物を研究することで、後世、特にルネサンス、バロック時代の建築家に大きな影響を与えました。
インド北部、ニューデリーの南約200kmの古都アーグラにあるムガル帝国の旧都城です。16世紀に第3代皇帝アクバルが建設しましたが、現在城内に残る建築物の大部分は第5代シャー・ジャハーン時代の造営です。外見は赤砂岩造りの二重の城壁と門が象徴的で「赤い城」の名の由来となっています。シャー・ジャハーンの時代には宮廷建築群など華麗なムガル朝の建築が花開きましたが、17世紀のデリーへの遷都、その後の反乱や略奪などでその栄華は衰えました。
フィレンツェのシンボルでもあるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の名前は、「花の聖母マリア大聖堂」という意味で、地名のフィレンツェ(英語名フローレンス)のラテン語の語源「フロレンス(花が咲いた)」と、都市の紋章に用いられているユリの花に由来しています。世界最大級の聖堂のひとつで、大聖堂の全長は153m、高さは92mもあります。1296年から、古い教会堂があった場所の上で新たな大聖堂の建設が始まりました。アルノルフォ・ディ・カンビオの設計に従いゴシック様式で建築が進められ、14世紀中ごろからフランチェスコ・タレンティによって拡張されて現在みられる大聖堂の基本形が完成しました。現在は3つの身廊を持つ三廊式バシリカと八角形のサン・ジョヴァンニ礼拝堂、ジョットの鐘楼で構成されています。
パンテオンはもともと、紀元前27年にアグリッパが建設した、全ての神々を祀る「万神殿」でした。80年と110年の火災で焼失してしまいましたが、128年にハドリアヌス帝によって再建されました。ファサード(建物正面)はギリシャ神殿を思わせるような八柱式の作りですが、建物はローマン・コンクリートで作られたロトンダと呼ばれる円堂の上に、ローマ建築の特徴であるドーム天井が載っています。そしてそのドーム天井の中心には、ラテン語で「目」を意味するオクルスと呼ばれる円形の窓が開いていて、そこから美しく光りが堂内に差し込みます。
暴君として知られたローマ帝国皇帝ネロが68年に帝位を追われた後、ローマは内戦状態にありました。69年に皇帝となったウェスパシアヌスは、ローマ市民の不満のはけ口となる娯楽の場を与える意味もあり、ネロ帝の宮殿「ドムス・アウレア」の庭園跡地に新しい円形闘技場の建設を決めます。70年から始まった円形闘技場の建設は、次の皇帝ティトゥスの時代まで続き、80年に完成しました。当初は、ウェスパシアヌス帝が開いたフラウィウス朝に因んで「フラウィウス円形闘技場」と呼ばれていました。しかし、円形闘技場の近くにネロ帝の巨大なブロンズ像「コロッセオ・ディ・ネローネ(ネロの巨像)」が立っていたことから、いつからか「コロッセウム」と呼ばれるようになりました。ネロ帝は暴君として知られますが、一部の市民からは死後も根強い人気があったそうです。
13世紀にフランス国王ルイ9世がビザンツ帝国皇帝から聖遺物であるキリストの「茨の冠」など22点を購入し、それらを納めるために建設されました。その時の購入金額は王国の収入の約半分もしたと伝わります。サント・シャペルを設計したのが誰なのかはわかっていませんが、シテ島にある王の邸宅の中に位置する礼拝堂として使われ、2階部分の豪華な礼拝堂は王の居室と直接つながっていました。フランス革命の混乱の中で多くの聖遺物は失われましたが、「茨の冠」は難を逃れ、現在はノートル・ダム大聖堂に納められています。
フランス革命100周年を記念する1889年のパリ万博の目玉に決まったのが、ギュスターヴ・エッフェルが率いるエッフェル社が出した、当時の世界最高の高さを誇る鉄塔案でした。エッフェルは、アメリカ合衆国の世界遺産になっている『自由の女神像』の内部構造や、ポルトガル共和国のポルトにある「マリア・ピア橋」などを設計しており技術力が認められていました。1887年1月26日に建設が開始されると、わずか2年2カ月と5日後の1889年3月31日に記録的な速さで完成しました。5,300枚の図面を基に、150人の工場労働者、約300人の現場労働者が、鉄7,300トン、リベット(ネジ)250万個、塗料60トンを使って完成させました。
マグマ溜りの上に位置するイエローストーン国立公園では、様々な熱水現象が見られますが、そのひとつが温泉(ホット・スプリングス)です。大地に雨や雪として降った水が亀裂だらけの岩に染み込むと、マグマで熱せられた塩水とぶつかり200℃を超える過熱水になります。普通であれば蒸発してしまうのですが、上から水の重みと圧力で押さえつけられているため蒸発できません。しかし熱水は上にある重く冷たい水よりも密度が低いため、対流が生じて高温の熱水が地表に出てきます。イエローストーン国立公園にはこうした温泉が1万以上あります。