









「カンペチェ州カラクムルの古代マヤ都市と保護熱帯雨林群」のある熱帯雨林は、アメリカ大陸で何番目に大きなものでしょうか?
クロアチア南部のアドリア海に面するドゥブロヴニクは、7世紀初頭から地中海交易の拠点として繁栄した自治都市です。かつてイギリスの劇作家バーナード・ショーが「ドゥブロヴニクを見ずして天国を語るなかれ」と称していたように、まるで天国のような景観のドゥブロヴニクは、1979年と、かなり早い段階で世界遺産に登録されました。ところが、ユーゴスラヴィア内戦が1991年に勃発すると、同年10月に最初の砲弾が落とされて、なんと建物の7割が損壊しました。市民たちは「世界遺産の街は攻撃しないだろう」という期待をしていたようですから、これは非常に衝撃的な出来事です。その結果、ドゥブロヴニクは危機遺産に登録されたのですが、内戦が終了すると、復旧工事が進み、1998年に危機遺産リストから削除され、復活を遂げました。
『アントニ・ガウディの作品群』は、スペイン東部・カタルーニャ地方の中心都市バルセロナとその周辺に点在する、建築家アントニ・ガウディ(本名:アントニ・ガウディ・イ・コルネ)が手掛けた7つの建築物によって構成されています。ガウディは、1852年に銅版器具職人の息子として生まれ、バルセロナの建築学校に進学しました。26歳の時、パリ万博に作品を出展したことがきっかけで、最大の支援者となる実業家エウゼビ・グエルと出会います。グエルはガウディのパトロン的な存在として、自邸や別邸の設計を委ねたほか、数々の傑作の建設に貢献しました。1883年、ガウディはサグラダ・ファミリア贖罪聖堂の建築主任となり設計に奔走します。しかし、1926年に建築途中の聖堂を残し、不慮の事故でこの世を去ってしまいました。
メテオラとはギリシア語で「中空に浮く」という意味であり、ギリシア中部にあるメテオラでは、奇岩群が数多くあり、その上に修道院が立っているという、世界でも類を見ない景観が見られます。この奇岩群が形成されたのは今から6,000万年前に誕生したとされ、そこから長い年月をかけて川の水が谷を削り、硬い部分だけが残った結果、このような景観が生まれました。この景観を神の地と思ったのか、古くから人々が住み着いていました。9世紀頃から、現実世界から離れて、決して住みやすいとは言えないこの場所に修道院を築き、祈りを捧げるようになるのです。修道院群があたかも空中に浮いているように見えるから、この地はメテオラと言われました。最盛期には24の修道院があり、7つの修道院が世界遺産に登録されています。
フランスの首都パリから20㎞ほどのところに位置するヴェルサイユ宮殿は、ルイ14世からルイ16世の時代までのフランス国王の居城でした。1661年にルイ14世の命で建造が始まると、数世代にわたる建築家や彫刻家、装飾家による建設と拡張が行われます。贅の限りを尽くして建てられたこの宮殿はフランス・バロック様式建造物の最高傑作というだけではなく、「太陽王」としてのルイ14世を象徴するとともに、フランスの絶対王政の最盛期を象徴する権威的な宮殿にもなりました。
イエローストーン国立公園は、世界遺産条約が採択されるちょうど100年前の1872年に誕生しました。この100年というのは偶然ではありません。1971年2月、アメリカ合衆国大統領のリチャード・ニクソンが、「イエローストーン国立公園」設立100周年に当たる1972年に自然遺産と文化遺産を共に保護する国際的な体制を立ち上げると演説します。そこから様々な案が一気にまとめられ、世界遺産条約がユネスコ総会で採択されました。そして「イエローストーン国立公園」は、1978年に世界で最初に登録された世界遺産のひとつになりました。
西アジアの地中海東岸地域(レバント地方)に位置するエルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つの宗教にとってきわめて重要な意味を持つ聖地です。エルサレムの歴史は非常に古く、約6,000年前には人類が居住していた可能性があります。紀元前14世紀の古代エジプトの文書に登場する「ウルサリム」という記述は、エルサレムに関する初めての確実な言及とされています。ウルサリムは西セム諸語の「シャリムの都市」を意味する語に由来し、それが転訛してエルサレムとなったと考えられています。現代アラビア語では「神聖」を意味する語に定冠詞(Al)が付いたAl Quds(アル・クドゥス)と呼ばれます。これはエルサレム神殿のヘブライ語名である「聖なる家」をアラビア語に翻訳したバイト・アル・マクディスという名称が短縮したものとされています。現在、エルサレムは西エルサレムと東エルサレムに分かれており、世界遺産に登録されている旧市街は東エルサレムに位置しています。旧市街は約1km四方の範囲に広がり、周囲を囲う城壁の全長は約4kmあります。城壁はオスマン帝国のスレイマン1世によって再建されたもので、8つの門のうち7つが現在も使用されています。
フランス革命100周年を記念する1889年のパリ万博の目玉に決まったのが、ギュスターヴ・エッフェルが率いるエッフェル社が出した、当時の世界最高の高さを誇る鉄塔案でした。エッフェルは、アメリカ合衆国の世界遺産になっている『自由の女神像』の内部構造や、ポルトガル共和国のポルトにある「マリア・ピア橋」などを設計しており技術力が認められていました。1887年1月26日に建設が開始されると、わずか2年2カ月と5日後の1889年3月31日に記録的な速さで完成しました。5,300枚の図面を基に、150人の工場労働者、約300人の現場労働者が、鉄7,300トン、リベット(ネジ)250万個、塗料60トンを使って完成させました。
13世紀にフランス国王ルイ9世がビザンツ帝国皇帝から聖遺物であるキリストの「茨の冠」など22点を購入し、それらを納めるために建設されました。その時の購入金額は王国の収入の約半分もしたと伝わります。サント・シャペルを設計したのが誰なのかはわかっていませんが、シテ島にある王の邸宅の中に位置する礼拝堂として使われ、2階部分の豪華な礼拝堂は王の居室と直接つながっていました。フランス革命の混乱の中で多くの聖遺物は失われましたが、「茨の冠」は難を逃れ、現在はノートル・ダム大聖堂に納められています。
フィレンツェのシンボルでもあるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の名前は、「花の聖母マリア大聖堂」という意味で、地名のフィレンツェ(英語名フローレンス)のラテン語の語源「フロレンス(花が咲いた)」と、都市の紋章に用いられているユリの花に由来しています。世界最大級の聖堂のひとつで、大聖堂の全長は153m、高さは92mもあります。1296年から、古い教会堂があった場所の上で新たな大聖堂の建設が始まりました。アルノルフォ・ディ・カンビオの設計に従いゴシック様式で建築が進められ、14世紀中ごろからフランチェスコ・タレンティによって拡張されて現在みられる大聖堂の基本形が完成しました。現在は3つの身廊を持つ三廊式バシリカと八角形のサン・ジョヴァンニ礼拝堂、ジョットの鐘楼で構成されています。
パンテオンはもともと、紀元前27年にアグリッパが建設した、全ての神々を祀る「万神殿」でした。80年と110年の火災で焼失してしまいましたが、128年にハドリアヌス帝によって再建されました。ファサード(建物正面)はギリシャ神殿を思わせるような八柱式の作りですが、建物はローマン・コンクリートで作られたロトンダと呼ばれる円堂の上に、ローマ建築の特徴であるドーム天井が載っています。そしてそのドーム天井の中心には、ラテン語で「目」を意味するオクルスと呼ばれる円形の窓が開いていて、そこから美しく光りが堂内に差し込みます。
エッフェル塔からイエナ橋を挟んでちょうど反対側の丘の上にあるシャイヨー宮のある場所には、かつてフランス王妃カトリーヌ・ド・メディシスが建てたシャイヨー城がありましたが、フランス革命の際に大きな被害を受けました。現在のトロカデロ庭園を囲むようなU字型の宮殿となったのは、1937年のパリ万博の時です。シャイヨー宮の建物の間にある人権広場からはエッフェル塔が美しく見えることもあり、ヒトラーがパリを征服した時には広場で記念写真を撮ったり、NATO本部がシャイヨー宮に置かれたほか、世界人権宣言を採択した国連総会が開催されるなど、フランスを代表しパリを象徴する場所としても使われてきました。現在も人気の観光スポットとなっています。
マグマ溜りの上に位置するイエローストーン国立公園では、様々な熱水現象が見られますが、そのひとつが温泉(ホット・スプリングス)です。大地に雨や雪として降った水が亀裂だらけの岩に染み込むと、マグマで熱せられた塩水とぶつかり200℃を超える過熱水になります。普通であれば蒸発してしまうのですが、上から水の重みと圧力で押さえつけられているため蒸発できません。しかし熱水は上にある重く冷たい水よりも密度が低いため、対流が生じて高温の熱水が地表に出てきます。イエローストーン国立公園にはこうした温泉が1万以上あります。