









サンガイ国立公園に生息する絶滅危惧種は何でしょうか?
セネガル共和国のダカールの対岸にある『ゴレ島』は、奴隷貿易の歴史とその深い傷跡を今に伝える遺産です。ゴレ島はアフリカ大陸の最西端に位置しており、アメリカ大陸への渡航に適した地理的条件を持つため、三角貿易の重要な拠点として栄えました。その歴史は長く、15世紀から19世紀にかけて、ポルトガル、オランダ、イギリス、フランスなどの列強が支配し、奴隷貿易の中心地として機能し続けました。この島からは、多くのアフリカの人々が奴隷として新世界へと送り出されました。
アウシュヴィッツ・ビルケナウは、ナチス・ドイツがユダヤ人を中心とする民族の絶滅を目的に設立した最大の強制収容所であり、ホロコーストの象徴的な現場です。1940年にポーランドのオシフィエンチムに設立され、1942年から1944年にかけて、ユダヤ人を中心に約150万人が組織的に殺害されました。この場所が選ばれた理由は、鉄道での輸送・運搬が容易で、周囲からの隔離が比較的簡単にできること、そしてナチス・ドイツが考える劣等民族をドイツ本国内に入れないようにするためでした。この地にて殺害された人の大半はユダヤ人だったとされ、他にも政治犯や犯罪者、精神や身体に障害のある人、ロマなどの少数民族なども命を落としました。この収容所は、20世紀における人類の残酷さの象徴です。
モン・サン・ミシェルは、フランス北西部の英国とフランスに挟まれた湾に立つ、小高い丘の上にあります。この地域は、フランスの他の地域とは異なり、現在の英国やアイルランドなどで見られるケルトの文化が色濃く残ります。708年にケルト人のモン・トンブと呼ばれるケルト人の聖地だった場所に、聖ミカエルを祀る聖堂を築いたのが、モン・サン・ミシェル(フランス語で「聖ミカエルの山」)の始まりです。聖ミカエルの信仰は、イタリアの世界遺産『イタリアのロンゴバルド族:権勢の足跡(568-774年)』に含まれるプーリア州の洞窟教会「サントゥアリオ・ディ・サン・ミケーレ・アルカンジェロ」に始まるとも伝えられますが、モン・サン・ミシェルはその信仰が遠くフランスに北西部にまで広がったことを示しています。
『オーストラリアの囚人収容所遺跡群』は、18世紀から19世紀に大英帝国によってオーストラリアにつくられた約3,000の刑務所のうち、ポート・アーサーの刑務所、カスケーズ女子工場、ダーリントン保護観察所、フリーマントル刑務所など11の施設で構成されています。当時のオーストラリアは大英帝国の流刑地で、1787年から1868年までの約80年の間に、約17万人もの成人男女や子どもが囚人としてオーストラリアに送られ、港や道路、農地、造船所の建設などインフラ整備に従事させられました。
モーリシャスの首都ポートルイスに位置する「アープラヴァシ・ガート」は契約労働システムの発祥の地です。アープラヴァシ・ガートには多くの移民がサトウキビ農園での労働者として送り込まれました。移民の大半はインドからの移民でした。これらの年季労働者の3分の1は祖国に帰国するか、別の地へ移住しましたが、3分の2はモーリシャスに永住しました。現在のモーリシャスの人口の70%は当時の移民の子孫たちであり、この地は彼らの記憶や伝統等も表す、モーリシャスのアイデンティティの象徴にもなっています。
ヴィエリチカとボフニャの岩塩坑は、13世紀から20世紀末まで稼働していた、ヨーロッパで最も古く、最も重要な王立塩採掘施設です。両坑は同一の岩塩層に位置し、これらの坑道は、塩採掘技術の歴史的発展を示す貴重な遺産として評価されています。 ヴィエリチカ岩塩坑は、11~12世紀に本格的な井戸の掘削が始まり、塩水を加熱して塩の採取が行われるようになりました。13世紀には岩塩の塊が発見され、採掘によって直接塩を得ることができるようになりました。塩による収益は王室の財源の3分の1を占め、この収入を基に、ポーランド王カジミエシュ3世はポーランド初の大学(現ヤギェウォ大学)を創設することができたと言われています。
ポーランドの古都クラクフの南東15㎞に位置するヴィエリチカ岩塩坑は、13世紀頃から本格的な採掘が始まった岩塩採掘所です。2,000万年前は海だったこの場所は、地殻変動により長い年月をかけて広大な岩塩層へと変化しました。新石器時代は、ここから汲み上げられた塩水から塩が得られており、ヴィエリチカの近くにあるバリチ村から、中央ヨーロッパで最も古い製塩道具が発見されています。その後何世紀もの間、製塩技術は代々受け継がれ、製塩に携わる人々は専門的な職業集団を形成していきました。得られた塩は肉や魚の保存料として、さらに周辺地域に住む人々との交易の決済手段としても使われていました。11~12世紀頃、塩水の湧き出る量が減少したため、井戸を掘って塩水の捜索が開始されました。13世紀に入り、掘り進めていた井戸の1つから最初の岩塩の塊が偶然発見され、これにより採掘によって塩を得ることが可能になったのです。地下へと続く最初の坑道は、13世紀の後半から開削が始められています。12世紀末にポーランド王カジミエシュ2世がこの地に城塞を築き、14世紀に「大王」と呼ばれたカジミエシュ3世がヴィエリチカの採掘権を独占しました。岩塩の収益は当時のポーランド王国の財源の3分の1にもなり、その一部はポーランド最初の大学であるクラクフ大学設置に役立てられたとされています。1368年には製塩所条例が発布され、以後数十年にわたる岩塩坑の安定した発展につながりました。しかしながら、中世の岩塩採掘はまだ季節労働で、採掘は農作業が行われない月だけ行われていたため、15世紀の終わりまで、岩塩坑には4つの採掘坑道と1つの地下層しかありませんでした。その一方で、ヴィエリチカは観光地としても有名になっていました。記録に残る当時の観光客の一人は、ニコラウス・コペルニクスです。彼は1493年に岩塩坑を訪れており、この出来事を記念して、その名前が付けられた部屋には彼の塩の像が設置されています。
ナイル川西岸にあるハトシェプスト女王葬祭殿は、新王国時代第18王朝のハトシェプスト女王(在位:紀元前1473年頃~前1458年頃)が治世7年目から約15年かけてつくった葬祭殿です。ハトシェプスト女王は、王家の谷に初めて墓を築いたトトメス1世の娘であり、トトメス2世の妃でもありました。彼女は夫の死後、トトメス3世の摂政となるのですが、やがて自らをファラオと名乗り、約20年間にわたってエジプトを支配しました。古代エジプトでは、「ファラオは男性がなるもの」という伝統があったので、これは極めて異例の事態でした。そこで、彼女は公の場に出るときは顎髭をつけたりして、男装をしていたと言われています。彼女の死後、トトメス3世は積年の恨みを晴らすため、葬祭殿にあった男装の女王の立像を破壊し、女王にまつわるレリーフを削ったと言われています。キリスト教が伝わると葬祭殿はコプト教の修道院として利用され、現在一帯はアラビア語で「北の修道院」を意味する「デイル・エル・バハリ」と呼ばれています。
フランス革命100周年を記念する1889年のパリ万博の目玉に決まったのが、ギュスターヴ・エッフェルが率いるエッフェル社が出した、当時の世界最高の高さを誇る鉄塔案でした。エッフェルは、アメリカ合衆国の世界遺産になっている『自由の女神像』の内部構造や、ポルトガル共和国のポルトにある「マリア・ピア橋」などを設計しており技術力が認められていました。1887年1月26日に建設が開始されると、わずか2年2カ月と5日後の1889年3月31日に記録的な速さで完成しました。5,300枚の図面を基に、150人の工場労働者、約300人の現場労働者が、鉄7,300トン、リベット(ネジ)250万個、塗料60トンを使って完成させました。
13世紀にフランス国王ルイ9世がビザンツ帝国皇帝から聖遺物であるキリストの「茨の冠」など22点を購入し、それらを納めるために建設されました。その時の購入金額は王国の収入の約半分もしたと伝わります。サント・シャペルを設計したのが誰なのかはわかっていませんが、シテ島にある王の邸宅の中に位置する礼拝堂として使われ、2階部分の豪華な礼拝堂は王の居室と直接つながっていました。フランス革命の混乱の中で多くの聖遺物は失われましたが、「茨の冠」は難を逃れ、現在はノートル・ダム大聖堂に納められています。
「レガレイラ宮殿」は、1840年にこの土地を購入したポルトガルの富豪の娘であり、後にレガレイラ男爵夫人として知られるアレン・フェレイラにちなんで、「キンタ・ダ・レガレイラ(レガレイラ邸宅)」と呼ばれるようになりました。19世紀末から20世紀初頭にかけて、大富豪アントニオ・アウグスト・カルヴァーリョ・モンテイロがこの邸宅を購入し、建築家で舞台美術家でもあるルイージ・マニーニの協力を得て大改修を行いました。その結果、ゴシック様式やルネサンス様式、マヌエル様式など、さまざまな建築様式が融合した、ロマン主義的で神秘的な建物となったのです。特に注目すべきなのは、「聖三位一体の礼拝堂」や井戸の内部に作られたような螺旋階段を下りていく「イニシエーションの井戸」です。この井戸の底の部分には地下洞窟が広がっていて、庭園の池へとつながっています。
ノイシュヴァンシュタイン城は、ドイツ南部・バイエルン地方の山あいに建つ19世紀の城です。バイエルン王ルートヴィヒ2世の命により1869年から建設が始まり、中世騎士文化やドイツの伝説世界への憧れを反映して築かれました。白い外壁と尖塔が印象的な姿は、まるで物語の世界のような景観として知られています。城内には、作曲家リヒャルト・ワーグナーのオペラ『ローエングリン』や『タンホイザー』などを題材にした装飾や壁画が多く取り入れられており、王の芸術への強い思いが感じられます。周囲にはアルプスの自然や湖が広がり、建築と自然が調和する風景も大きな魅力です。しかし、当時の莫大な建設費は周囲との対立を招き、1886年に王は精神異常を理由に廃位されます。王が長く暮らすことのなかったこの城は、その数奇な人生を今に伝える存在となっています。