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マーシャル諸島共和国初の世界遺産
日本から南東に約4,600㎞離れた太平洋の島国、マーシャル諸島共和国のビキニ環礁は、第2次世界大戦後に始まった冷戦下において、アメリカの核実験場となった場所です。アメリカは、住民を別の場所に強制的に移住させたうえで、1946年から1958年までマーシャル諸島のビキニ環礁及びエニウェトク環礁で合計67回の核実験を実施しました。一連の実験で使用された核兵器の累積は、広島型原爆の約7,000回分に匹敵し、環礁の地質や自然環境、生態系、被曝による人びとの健康被害など、重大な影響を及ぼしました。特に、23回もの核実験が行われたビキニ環礁はその象徴的な場所で、1946年の実験で環礁の底に沈んだ船や、1954年の水素爆弾「ブラボー」の実験でできた直径約2㎞の巨大なブラボー・クレーターなど、核実験の威力を伝える上で非常に重要かつ直接的な痕跡が残っています。アメリカによって10年あまり続いた核実験は、ビキニ環礁とマーシャル諸島の歴史を変えました。そしてビキニ環礁は、その歴史を通して、平和と地上の楽園という矛盾したイメージを持ちながらも、核時代の幕開けの象徴となり、同時に、軍縮を推進する国際的な運動の発展にもつながっていきました。マーシャル諸島で初の世界遺産として、2010年に登録されました。
「死の灰」の影響は今も続く
太平洋戦争後、アメリカの信託統治下に置かれたマーシャル諸島で行われた67回もの核実験のうち、1954年3月1日にビキニ環礁で行われた実験では、広島に投下された原子爆弾の約1,000発分にあたる破壊力をもった水爆が使用されました(ブラボー実験)。放射性物質を含んだ、いわゆる「死の灰」は、アメリカが指定した危険区域の外にまで広がり、ビキニ環礁から約160㎞離れた海上で操業していた静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23人が被曝し、半年後に1人が亡くなっています。死の灰は、ビキニ環礁から200㎞以上離れたロンゲラップ環礁にも到達し、島民全員が被ばくし、別の環礁に避難して治療を受けました。その後、アメリカ側の「安全宣言」を受けて島民はいったん島に戻りましたが、甲状腺がんや白血病などを発症する人たちが相次ぎ、再び島からの避難を余儀なくされました。アメリカと旧ソビエトによる激しい核開発競争のさなかに核実験が繰り返されたビキニ環礁とその周辺の歴史は、核兵器の惨禍を今に伝え続けているのです。
アクセス
日本からビキニ環礁へ直接行くことはできない。マーシャル諸島共和国の首都・マジュロ経由で、ボートをチャーターするなどして向かうことができる。
執筆協力者PROFILE
中央大学文学部卒業。慶應義塾大学大学院修了(MBA)。元民放ニュースキャスターで、NHKに転職後、解説委員として世界遺産の価値や課題を取材・解説。学芸員、防災士の資格をもつ。文化審議会文化政策部会の委員を務めた(15〜20期)。
アクセス
日本からビキニ環礁へ直接行くことはできない。マーシャル諸島共和国の首都・マジュロ経由で、ボートをチャーターするなどして向かうことができる。
執筆協力者PROFILE
中央大学文学部卒業。慶應義塾大学大学院修了(MBA)。元民放ニュースキャスターで、NHKに転職後、解説委員として世界遺産の価値や課題を取材・解説。学芸員、防災士の資格をもつ。文化審議会文化政策部会の委員を務めた(15〜20期)。
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