フィレンツェの歴史地区
大聖堂のドームとヴェッキオ宮殿が街のシンボルとなっている

遺産DATA

地域 : ヨーロッパ 保有国 : イタリア共和国 分類 : 文化遺産 登録年 : 1982年 範囲変更年 : 2015,2021,2023年 登録基準 : (i) (ii) (iii) (iv) (vi) 遺産の面積 : 5.32㎢ バッファ・ゾーン : 104.53㎢ 座標 : N43 46 23.016 E11 15 22

about

ルネサンスを象徴する商業の都

紀元前7世紀頃から、アルノ川周辺の浅瀬にエトルリア人が暮らし始めたと考えられるフィレンツェは、12世紀に自由都市になると手工業が発展し、アルノ川や街道をつかった交易で栄えました。中世に毛織物業や金融業を通して商工業者や銀行家が力をもつと、彼らは教会や封建領主による古い社会を打ち破る強い熱気と自由な気風で、人文主義(人間主義)を中心とした芸術や思想を生み出していきました。これがルネサンスです。13世紀以降にサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂やサンタ・クローチェ教会、現在のウフィッツィ美術館、ピッティ宮殿などが築かれ、15~17世紀に都市を支配したメディチ家の下でルネサンス都市としての地位を確立していきました。世界遺産には、14世紀にアルノルフォ・ディ・カンビオが設計したとされる市壁内の歴史地区が登録されています。

忘れられた都市だったフィレンツェ

経済の基盤であった毛織物業の優先的な地位をイギリスやオランダに奪われ、大航海時代が始まって交易の中心が地中海から大西洋に移ると、フィレンツェの華々しい歴史は急速に終わりを迎えます。18世紀半ばにハプスブルク家の一部に組み込まれると、人々の関心からフィレンツェは外れていきました。当時のヨーロッパ各地の人々はイタリアに強い関心を持っていましたが、それはローマ帝国の遺跡が残るローマやナポリに対してであり、トスカーナ地方には関心がありませんでした。フィレンツェを含むトスカーナ地方には、歴史的な価値も美的な価値も当時はほとんどありませんでした。ゲーテはイタリアに恋焦がれて、2年近くイタリアに滞在しましたが、フィレンツェには15日と3時間しかいなかったそうです。

イタリア共和国の文化の中心として復活

1860年、住民投票によってフィレンツェを含むトスカーナ大公国はイタリアを初めて統一したイタリア王国に併合されます。そして1865年からはトリノに代わる首都となりました。また、イタリア王国が統一する際に文化的な中心軸としたダンテやボッカッチョなどの使っていた言語がトスカーナ方言と近かったため、トスカーナ方言が統一のイタリア語に採用されました。1871年にはローマに首都が遷されますが、その頃に「リザナメント」と呼ばれる都市の大改造が行われ、ルネサンス期の歴史を残しながら現在みられる環状道路や広場が作られました。

アクセス

日本から飛行機を乗り継いで約18時間。フィレンツェ・ペレトラ空港からフィレンツェ中央駅までトラムで約20分。

執筆協力者PROFILE

宮澤 光
宮澤 光
NPO法人世界遺産アカデミー主任研究員

北海道大学大学院博士後期課程を満期単位取得退学。仏グルノーブル第Ⅱ大学留学。2008年より現職。世界遺産に関するさまざまな書籍の編集・執筆・監修を手掛けるほか、「チコちゃんに叱られる!」(NHK)などの多くのメディア出演や、全国各地で100本を超す講演・講座を実施している。著書に『13歳からの世界遺産』(マイナビ出版)、『世界遺産のひみつ』(イースト・プレス)など。

Trivia

泥の天使たちが救った貴重な文化財

フィレンツェは、1966 年に起きたアルノ川の大氾濫で大きな被害を受けました。多くの市民が命を落としただけでなく、街は水没し、多くの文化財や貴重な書物が失われてしまいました。この時にフィレンツェを救おうと、ヨーロッパを中心に世界中から1,000人以上のボランティアが集まります。彼らは、泥の中から美術品を救い出し、書物を一枚一枚クリーニングし、気の遠くなるような復興の手助けをしました。泥まみれになって働く彼らは「泥の天使たち(アンジェリ・デル・ファンゴ)」と呼ばれました。この時の経験が、文化財の保存・修復技術の発展や、文書のアーカイヴ作成、自然災害対策などに大きく活かされています。

泥の天使たちが救った貴重な文化財

Properties

Cattedrale di Santa Maria del Fiore
フィレンツェのシンボルでもあるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の名前は、「花の聖母マリア大聖堂」という意味で、地名のフィレンツェ(英語名フローレンス)のラテン語の語源「フロレンス(花が咲いた)」と、都市の紋章に用いられているユリの花に由来しています。世界最大級の聖堂の1つで、大聖堂の全長は153m、高さは92mもあります。1296年から、古い教会堂があった場所の上で新たな大聖堂の建設が始まりました。アルノルフォ・ディ・カンビオの設計に従いゴシック様式で建築が進められ、14世紀中ごろからフランチェスコ・タレンティによって拡張されて現在みられる大聖堂の基本形が完成しました。現在は3つの身廊を持つ三廊式バシリカと八角形のサン・ジョヴァンニ礼拝堂、ジョットの鐘楼で構成されています。
Palazzo Vecchio
ヴェッキオ宮殿は、アルノルフォ・ディ・カンビオの設計で1298年から建設が始まりました。ローマ教皇を支持するゲルフ(教皇派)に敗れた、神聖ローマ皇帝を支持するギベリン(皇帝派)の貴族の邸宅跡に建てられたプリオーリ宮殿(政務官の宮殿)を増築する形で建設され、権力の象徴として建てられた高くそびえる塔はアルノルフォの塔とも呼ばれます。シニョーリア宮殿(領主の宮殿)と呼ばれていましたが、1540年からコジモ1世の邸宅として使用され、新たにピッティ宮殿が建設されてコジモ1世がそちらに移ってからは、ヴェッキオ宮殿(古い宮殿)と呼ばれるようになりました。
Galleria degli Uffizi
コジモ1世は、フィレンツェのさまざまな場所に点在していた行政機関を一カ所にまとめることを目的に、ジョルジョ・ヴァザーリに行政庁舎の建設計画を依頼します。1560年に始まった建設は、13の事務所が集められ1580年に完成しました。ウフィッツィというのは、イタリア語のオフィス(ウフィッチオ)の複数形です。コジモ1世はヴェッキオ宮殿とピッティ宮殿を結ぶ回廊の建設も命じ、1565年にはフランソワ1世とジョアンナの結婚を記念してウフィッツィとピッティ宮殿を結ぶヴァザーリの回廊も建設されました。フランチェスコ1世はウフィッツィの最上階を美術品の展示スペースとし、フランチェスコ1世の後を継いだ弟のフェルディナンド1世は、コジモ1世の遺言に従い肖像画コレクションをヴェッキオ宮殿からウフィッツィに移しました。1737年にメディチ家のジャン・ガストーネ大公が後継者を残さずに亡くなると、妹のアンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチは「メディチ家の財産はフィレンツェのもの」として美術品コレクションの全てをフィレンツェ市に遺贈し、ウフィッツィ美術館として公開されています。

遺産DATA

分類 : 文化遺産
登録年 : 1982年
範囲変更年 : 2015,2021,2023年
登録基準 : (i) (ii) (iii) (iv) (vi)
遺産の面積 : 5.32㎢
バッファ・ゾーン : 104.53㎢
座標 :N43 46 23.016 E11 15 22

アクセス

日本から飛行機を乗り継いで約18時間。フィレンツェ・ペレトラ空港からフィレンツェ中央駅までトラムで約20分。

執筆協力者PROFILE

宮澤 光
宮澤 光
NPO法人世界遺産アカデミー主任研究員

北海道大学大学院博士後期課程を満期単位取得退学。仏グルノーブル第Ⅱ大学留学。2008年より現職。世界遺産に関するさまざまな書籍の編集・執筆・監修を手掛けるほか、「チコちゃんに叱られる!」(NHK)などの多くのメディア出演や、全国各地で100本を超す講演・講座を実施している。著書に『13歳からの世界遺産』(マイナビ出版)、『世界遺産のひみつ』(イースト・プレス)など。