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ムガル帝国第2代皇帝フマユーンの墓所
インドの首都デリーにあるムガル帝国の第2代皇帝フマユーンの墓廟です。初代皇帝バーブルの跡を継いだフマユーンは生涯戦いに明け暮れ、一時インドから追われてペルシアに亡命するなど波乱の生活を送りましたが、16世紀半ばにようやく北インドの支配を奪還しました。しかしその翌年に不慮の事故で亡くなったことから、「悲劇の皇帝」ともいわれます。彼の死後にペルシア出身でイスラム教徒である王妃のベーグムによりこの墓廟が建設されました。
ペルシャ、イスラムとインドの伝統的様式の見事な融合
この墓廟はインド初の本格的なイスラム建築と言われます。イスラム建築特有の「尖塔型のアーチ」、ペルシア建築由来の「巨大なドーム」、そしてインド独特の工芸技術である象嵌細工とチャトリと呼ばれる小塔など、ペルシア、イスラム、インドの伝統的様式が融合した建造物です。さらに庭園はペルシア発祥の、水路で4分割された正方形の「四分庭園(チャハル・バーグ)」です。これらは約100年後の「タージ・マハル」の建設に受け継がれています。
ムガル帝国の栄光と終焉の地
ムガル帝国は6代皇帝アウラングゼーブの死後、弱体化していきました。その混乱に乗じてヨーロッパ諸国も介入し、19世紀には英国がインドを植民地としました。しかし、英国が課す税金や新たな土地制度の導入により社会は疲弊し、1857年には英国に対する大反乱(セポイの乱)が発生しました。すでに名目上の存在となっていたムガル皇帝のバハードゥル・シャー2世は反乱軍の指導者として担ぎ出され、反乱はインド各地に広まりましたが、次第に鎮圧されていきました。1858年、皇帝はフマユーン廟で英国軍に捕らえられ、隣国ビルマへと追放されました。この事件をもって、ムガル帝国は名実ともに消滅しました。フマユーン廟の壮麗な墓廟は、16世紀のムガル帝国の栄光と繁栄を象徴する建造物であり、奇しくも帝国の栄光と終焉の舞台となりました。
アクセス
ニューデリーの中心部から、 バイオレットラインのJLNスタジアム駅まで地下鉄を利用。
執筆協力者PROFILE
早稲田大学卒業。損害保険会社勤務の傍ら世界遺産を勉強し、退職後いくつかの大学にて関連講座を担当。現在は大学講師と趣味の音楽(クラシック歌手)の二刀流。
アクセス
ニューデリーの中心部から、 バイオレットラインのJLNスタジアム駅まで地下鉄を利用。
執筆協力者PROFILE
早稲田大学卒業。損害保険会社勤務の傍ら世界遺産を勉強し、退職後いくつかの大学にて関連講座を担当。現在は大学講師と趣味の音楽(クラシック歌手)の二刀流。
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