イスタンブルの歴史地区
アジアとヨーロッパを結び、東西文明の十字路となった歴史をもつイスタンブル

遺産DATA

地域 : 西・南アジア 保有国 : トルコ共和国 分類 : 文化遺産 登録年 : 1985年 範囲変更年 : 2017年 登録基準 : (i) (ii) (iii) (iv) 遺産の面積 : 7.655㎢ 座標 : N41 0 30 E28 58 60(Sultanahmet Urban Archaeological Component Area of World Heritage Site)

about

ビザンツ帝国千年の都

トルコ北西部のイスタンブルは、アナトリア半島、バルカン半島、黒海、地中海の間に位置し、ヨーロッパとアジアを隔てるボスフォラス海峡の両岸にまたがる、トルコ最大の都市です。その立地が表すように、ヨーロッパとアジアの文明交差する十字路であり、ローマ帝国やビザンツ帝国、オスマン帝国といった大帝国の都が置かれてきました。都市の起源は紀元前7世紀頃に遡り、古代ギリシャの都市国家メガラが、王の名にちなみビザンティオンという名の都市を建設したことが始まりとされています。2世紀末に、ローマ帝国に占領されてビザンティウムと改名。330年には帝都がローマからこの地へと遷され当時のローマ皇帝コンスタンティヌスの名にちなんで都市名は「コンスタンティノポリス」(コンスタンティノープル)と名付けられました。395年にローマ帝国が東西に分裂すると、コンスタンティノープルはビザンツ帝国(東ローマ帝国)の都となりました。西ローマ帝国はわずか80年後の476年に滅亡したのに対し、ビザンツ帝国はその後1,000年以上も続きました。また、1054年キリスト教会が東西に分裂すると、西のローマはカトリック教会、東のコンスタンティノープルはギリシャ正教会の本拠地となりました。 

オスマン帝国の都イスタンブルへ

11世紀になると、現在のイランやイラク、トルクメニスタンを拠点としていたイスラム王朝のセルジューク朝がアナトリア半島に侵入、さらに聖地エルサレムを支配下に置き、ビザンツ帝国を脅かしました。ビザンツ皇帝のアレクシオス1世コムネノスは、ローマ教皇ウルバヌス2世に救援を要請し、1095年のクレルモン宗教会議をもって聖地回復を目指す十字軍が組織されることになりました。しかし、ヴェネツィア商人の主導で行われた1204年の第4回十字軍はコンスタンティノープルを攻略し、ラテン帝国を樹立しました。1261年にビザンツ帝国の亡命政権であったニカイア帝国がコンスタンティノープルを奪還し、ビザンツ帝国は再興されますが、かつての勢いは失われていました。さらに、1300年前後にはアナトリアにイスラム王朝のオスマン朝が成立。帝国内の地方都市を占領し勢力を拡大するオスマン朝に、次第に圧迫されていきました。そして1453年、メフメト2世によってコンスタンティノープルは陥落し、ビザンツ帝国は1,000年以上の歴史に幕を下ろしました。街はオスマン帝国の新都となり、「イスタンブル」と呼ばれるようになりました(正式名称はコンスタンティニエ)。イスタンブルには歴代のスルタンによって、オスマン帝国の繁栄を象徴するような巨大なモスクや豪奢な宮殿が建設されました。17世紀頃まで帝国の繁栄は続きますが、それ以降は徐々に衰退。第一次世界大戦で敗戦し、帝国解体の危機が迫ると、1923年にトルコ共和国成立に伴いオスマン帝国は滅亡し、首都はアンカラへ遷されました。

旧市街の4つエリアが世界遺産

イスタンブルの街は、黒海とマルマラ海を結び、アジア(東側)とヨーロッパ(西側)の2つの大陸を隔てるボスフォラス海峡にまたがって広がっています。世界遺産に登録されたのは、ヨーロッパ側のうち、金閣湾の南に位置する旧市街の4つのエリアです。海沿いの「スルタンアフメト地区」、「スレイマニエ・モスクとその周辺」、「ゼイレク・モスクとその周辺」、旧市街の西側に延びる「城壁」の4つのエリアです。これらのエリアには、歴代スルタンの政務と住居の場であったトプカプ宮殿、オスマン建築の代表例と名高いスレイマニエ・モスクなど、オスマン帝国時代に建造された豪奢な建築が残されています。また、ギリシャ正教会の総本山をモスクへと転用したアヤ・ソフィアや、ローマ帝国時代の競馬場の遺跡、5世紀のビザンツ皇帝テオドシウス2世が整備した城壁、6世紀のビザンツ皇帝ユスティニアヌス1世が築いた地下宮殿(貯水池)など、イスタンブルの長く複雑な歴史を物語る建造物や遺跡も点在しています。

アクセス

東京・成田空港からイスタンブル空港まで、直行便で約14時間。空港から市内へは、エアポートバスを使用し、約1時間半。

執筆協力者PROFILE

NPO法人世界遺産アカデミー研究員

東京外国語大学言語文化学部卒。在学中にパレスチナやヨルダンなど中東地域への留学を経験。大手メディア企業勤務を経て、2021年より現職。書籍やテレビ番組等の監修を行う。

Properties

Ayasofya (Hagia Sophia)
スルタンアフメト地区に立つアヤ・ソフィアは、ビザンツ建築の最高傑作と評され、オスマン建築に多大な影響を与えた建造物です。建築技術の高さ、壮麗なモザイク装飾など建築・芸術の面だけでなく、キリスト教とイスラム教の宗教的な面においても、きわめて重要な意味をもっています。元来はギリシャ語で「聖なる叡智」を意味する「ハギア・ソフィア」と呼ばれていました。歴史的には、キリスト教を公認したローマ皇帝コンスタンティヌス1世の息子であるコンスタンティウス2世が360年に建てた礼拝堂を前身としています。この礼拝堂は404年に焼失し、415年に再建されましたが、532年にユスティニアヌス1世に対して市民が蜂起したニカの乱によって再び焼失しました。ユスティニアヌス1世は動乱鎮圧後、すぐに再建を開始し、537年にアヤ・ソフィアを完成させました。1204~1261年の第4回十字軍に伴うラテン帝国成立期には、一時カトリック教会として使用された時期もありますが、約1,000年にわたりギリシャ正教会の総本山として信仰を集めました。
Sultan Ahmet Camii
イスタンブルの歴史地区として登録されている4つのエリアのうち、もっとも海側に位置するのが、スルタンアフメト・モスク地区です。その中心となるスルタンアフメト・モスクは、1609~1616年(1617年とも)に建設されました。建設を命じたのは、当時19歳だったオスマン帝国第14代スルタンのアフメト1世です。一説には、他のスルタンのように軍事的な勝利を収めることのできなかったアフメト1世が、自身の権威を誇示するために建設を始めたとも言われています。流れるように連なる大小のドームと、6つのミナレットを備えるこのモスクは、イスタンブルのスカイラインでひときわ大きな存在感を放っていますが、最も特筆すべきは壮麗な内部空間です。内部は青いタイルで装飾されており、その美しさから「ブルー・モスク」とも呼ばれています。
Süleymaniye Camii
スレイマニエ・モスクは、オスマン帝国の最盛期を築いたスレイマン1世(大帝)の命により、1551~1558年(1557年とも)にかけて建設されました。設計を担当したのは、帝国史上最も高名な建築家ミマール・スィナンです。スレイマン1世はモスクの建設に強い情熱を注ぎ、自ら石材を運ぶなどの作業に従事したと言われています。約7年の歳月をかけて完成した壮大なモスクは、金閣湾を一望する丘の上に佇み、現在もイスタンブルの街でひときわ存在感を放っています。
Topkapı Palace
コンスタンティノープル征服からわずか6年後の1459年、メフメト2世によってマルマラ海とボスフォラス海峡を臨む岬に建設が開始されたのがトプカプ宮殿です。1856年に宮廷がドルマバフチェ宮殿に移されるまで、トプカプ宮殿は歴代スルタンの宮廷生活と政務の場となりました。「トプカプ」の名は18世紀以降、宮殿近くにあった「大砲の門」にちなむもので、それまでは「新宮殿」と呼ばれていました。宮殿の面積はおよそ70万㎡あり、外廷、内廷、後宮(ハーレム)の3つに大きく分かれています。アヤ・ソフィアの南東にある「帝王門」と呼ばれる正門から入ることができます。
Molla Zeyrek Camii
ゼイレク・モスクは、ビザンツ皇帝のヨハネス2世コムネノス(在位:1118~1143年)と、その最初の皇后であるエイレーネーによって、1118~1136年にかけて建設されたパントクラトール(全能者ハリストス)修道院の一部を前身としています。南側のパントクラトール教会と、北側の生神女教会、両者を結ぶ礼拝堂で構成されていました。修道院には図書館や病院が含まれ、礼拝堂にはヨハネス2世コムネノスをはじめとするコムネノス朝やパレオロゴス朝の皇帝が埋葬されるなど、宗教儀礼、医療、教育の場を兼ね備えていたようです。しかし、1204~1261年のラテン帝国期には、パントクラトール修道院が所蔵していた多くの聖遺物や聖具がヴェネツィアへと持ち去られ、建物も大きな損傷を受けました。
Theodosian Walls
北の金閣湾と南のマルマラ海を結ぶように、全長約6kmにわたって延びる「テオドシウスの城壁」は、ローマ皇帝テオドシウス2世の治世下の413年に築かれた城壁です。イスタンブル旧市街は三方を海に面していますが、街の西側は陸続きのため攻め入れられる可能性がありました。この弱点を克服するために建設されたのが城壁で、古くは4世紀のコンスタンティヌス1世の時代に遡り、「テオドシウスの城壁」はさらにその西側にあります。テオドシウス2世の父アルカディウスの治世下にあたる404年頃から始まったようです。413年に完成しますが、447年の大地震で深刻な被害を受けました。ちょうどそのころ、アッティラ率いるフン族がイスタンブルまで迫っており、わずか60日で城壁の修復作業が行われたと伝わっています。
Basilica Cistern
スルタンアフメト地区アヤ・ソフィアのすぐ近くに、ビザンツ帝国時代の貯水池としては現存最大規模を誇る地下貯水池があります。ビザンツ皇帝ユスティニアヌス1世(在位:527~567年)が築いたもので、長さ約140 m、幅約70mの長方形の空間に、多数の柱がそびえる様子が宮殿のように見えることから、トルコ語では「イェレバタン・サラユ」(地下宮殿)とも呼ばれています。高さ9mの大理石の柱は合計336本、28本ずつ12列にわたり均等な間隔で立ち並んでいます。メドゥーサの頭が彫られた土台が据えられた柱や、コリント様式の柱頭をもつものなどさまざまです。この貯水池は面積1万㎡、貯水量はおよそ8万tもあり、ビザンツ帝国時代は宮殿とその周辺の建物に水を供給していたと考えられています。1950年代以降に修復工事が複数回を行われ、1987年に一般公開されるようになりました。

遺産DATA

保有国 : トルコ共和国
分類 : 文化遺産
登録年 : 1985年
範囲変更年 : 2017年
登録基準 : (i) (ii) (iii) (iv)
遺産の面積 : 7.655㎢
座標 :N41 0 30 E28 58 60(Sultanahmet Urban Archaeological Component Area of World Heritage Site)

アクセス

東京・成田空港からイスタンブル空港まで、直行便で約14時間。空港から市内へは、エアポートバスを使用し、約1時間半。

執筆協力者PROFILE

NPO法人世界遺産アカデミー研究員

東京外国語大学言語文化学部卒。在学中にパレスチナやヨルダンなど中東地域への留学を経験。大手メディア企業勤務を経て、2021年より現職。書籍やテレビ番組等の監修を行う。