徳川家康を神として祀る霊廟
東照宮は徳川家康の霊廟として1617年に創建されました。その前年に、家康は駿府城で75歳の生涯を閉じ、久能山に葬られましたが、「死後は日光山に神として祀るように」とした遺言に基づいて、東照宮が造営されました。当初の規模は簡素な社殿で、静岡市に現存する久能山東照宮と同規模であったとされています。20年後の1636年に、家康を敬愛する三代将軍徳川家光により、「寛永の大造替」と呼ばれる全面的な建て替え工事が行われて、豪華絢爛な社殿が建ち並ぶ神社となりました。東照宮の建築により「権現造」の様式が確立されたとされています。そして、建造物には、白、黒、金を基調として漆や極彩色が施され、柱などには数多くの彫刻が見られます。山の地形を生かして造営され、石段や階段の配置で境内を広く見せる、奥行きを出すために参道を屈曲させるなど、さまざまな手法が取り入れられています。東照宮の建造物は、本殿・石の間・拝殿、陽明門など8棟が国宝に、五重塔、神厩舎など34棟が重要文化財に指定されています。
石鳥居から青銅の鳥居まで
日光東照宮の境内入り口に立つ石鳥居を抜けると、すぐ左側に36mの高さの五重塔があります。この塔は、法隆寺の五重塔のような心柱を使用した免震構造を持っています。さらに進んで表門をくぐると、右から正面にかけて三神庫と呼ばれる3つの収納建物があります。校倉造の鮮やかな色彩を用いた建物で、それらの中には春と秋の例大祭での千人行列の衣装が収められています。参道を挟んで向かいにあるのが、神厩舎と呼ばれる、神に仕える白馬の厩で、東照宮の境内で唯一、彩色をしていない素木造の建物です。この建物の屋根と壁面の間に取り付けられる長押には、人の一生を表したとされる8面のサルの彫刻があり、「見ざる、聞かざる、言わざる」で知られる三猿も見られます。一連の重要文化財である建物群を経て、参道をさらに進んで青銅の鳥居をくぐると、国宝である陽明門が正面に見えます。

「日暮の門」とも呼ばれる豪奢な陽明門
陽明門は1636年造営で、屋根の葺替えと塗装の塗替え以外は創建時の様式が保たれています。名称は宮中(現在の京都御所)にある十二門の一つにあやかったとされ、彫刻、飾金具、彩色など江戸時代初期の工芸・装飾の粋を結集した楼門です。龍、麒麟、獅子などの霊獣や、仙人、賢人などの人物を描いたとされる約500体もの彫刻が施されています。それらの彫刻を一日中ながめていても飽きないことから「日暮の門」とも呼ばれています。陽明門から左右に延びる回廊も国宝であり、花や鳥の彫刻で飾られています。東側の回廊には、家康の墓所である奥社につながる参道の入り口がありますが、その上部には左甚五郎の作とされる「眠り猫」の彫刻が見られます。
東照宮本殿につながる国宝建造物群
陽明門を抜けると、東照宮本社の入り口にあたる唐門があります。唐門は1636年に造営された間口3m、奥行2mの小さな門で、白と黒を基調としています。左右の柱には、紫檀や黒檀で寄木細工された「昇龍」と「降龍」が施されています。また、軒下には中国の故事に由来する名君や賢人の彫刻が見られます。唐門から左右に延びて本社を囲んでいる塀は「透塀」と呼ばれ、鳥や植物の透かし彫りで飾られています。唐門をくぐると、本殿、石の間、拝殿とひとつながりとなった建物があります。1636年に造営され、1654年に屋根の葺き替え、1690年に本殿の基礎部分にあたる亀腹石の変更がありましたが、それ以降は建築様式の変更なく維持されています。本殿と拝殿をつなぐ「石の間」が本殿や拝殿よりも一段低くなっている神社建築様式である「権現造」の完成形と言われています。唐門から見て手前にある拝殿の天井には、狩野探幽と一門による100頭の龍が描かれています。拝殿の左右には「将軍着座の間」と「法親王着座の間」があります。石の間は、拝殿から3段、本殿から5段下りの階段に挟まれていて、天井には鳳凰が描かれています。本殿は、外陣、内陣、内々陣の3室で構成されていて、金箔の装飾が施された神聖な場所とされ、一般の参拝客は入場できません。

執筆協力者PROFILE
米国総合化学会社の日本法人にて海外人事部門などで40年間勤務した後、筑波大学大学院人間総合科学研究科世界文化遺産学専攻の博士課程を修了。博士(世界遺産学)。日本造園学会会員。日本シルク学会会員。元大東文化大学国際関係学部非常勤講師。
執筆協力者PROFILE
米国総合化学会社の日本法人にて海外人事部門などで40年間勤務した後、筑波大学大学院人間総合科学研究科世界文化遺産学専攻の博士課程を修了。博士(世界遺産学)。日本造園学会会員。日本シルク学会会員。元大東文化大学国際関係学部非常勤講師。