高山社跡
母屋兼蚕室。換気用の越屋根(天窓)が3カ所ついている

構成資産DATA

高山長五郎が開発した「清温育」

「高山社跡」は、群馬県南部を流れる神流川の支流である三名川の河岸段丘上にあり、現在の藤岡市郊外(旧高山村)に位置します。1884年に設立された民間養蚕教育機関「養蚕改良高山社」(1873年創立の「養蚕改良高山組」が前身)の建物は、高山社を設立し、初代社長となった高山長五郎の住居でした。高山長五郎は、江戸末期、天保元年(1830年)生まれで、養蚕を糧とする祖母に育てられました。蚕の病害に苦しめられる姿を見て育ち、自らも養蚕の研究を続け、後に全国標準の養蚕法となる「清温育」を完成させました。

2つの飼育方法のハイブリッド

「清温育」は、東北地方で普及していた火気により蚕室を温める「温暖育」と、田島弥平開発の通気を重視した「清涼育」を調和させた手法でした。高山長五郎は、「清温育」の理論の実践の場として、先祖伝来の屋敷を壊して2階建ての住居兼蚕室を建てました。2階の蚕室は、屋根上に換気用の櫓を3つ設けて、3部屋に分かれた各部屋の床下には養蚕火鉢を設置しました。また、天井は「小間返し」と呼ばれるスノコ状の形式をとりました。通気を良くし、温度と換気の調節・管理を行い、蚕にとって適温の23度を保つ工夫が採られました。

国内外への技術移転を実現した教育・普及システム

「清温育」を学ぶために、高山社には全国から生徒が集まりました。高山長五郎は1886年に病死しましたが、その遺志を次いで2代目社長となった町田菊次郎は、1901年に私立甲種高山社養蚕学校を現在の藤岡市内に設立しました。現在の「高山社跡」となった建物は、分教場(別科)として活用されました。本社(本科)での技術指導に加えて、授業員と呼ばれた養蚕教師の育成と農村への派遣に尽力しました。さらに、優秀な授業員の自宅を分教場とし、「清温育」の技術習得者の増加を進めました。また、貧しい生徒も学べるように、分教場の生徒の学費は、本科の100分の1程度の費用で通えるように工夫しました。1927年に廃校となるまでに、総数2万人の生徒を送り出し、この中には朝鮮半島、中国からの留学生60人も含まれていました。分教場の数も全国で116に達し、高山社は「養蚕の総本山」と呼ばれました。藤岡市内に設立した養蚕学校は現在残されておらず、郊外の分教場の機能を保ち続けた「高山社跡」のみが痕跡を残しています。

 

執筆協力者PROFILE

NPO法人世界遺産アカデミー客員研究員

米国総合化学会社の日本法人にて海外人事部門などで40年間勤務した後、筑波大学大学院人間総合科学研究科世界文化遺産学専攻の博士課程を修了。博士(世界遺産学)。日本造園学会会員。日本シルク学会会員。元大東文化大学国際関係学部非常勤講師。

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執筆協力者PROFILE

NPO法人世界遺産アカデミー客員研究員

米国総合化学会社の日本法人にて海外人事部門などで40年間勤務した後、筑波大学大学院人間総合科学研究科世界文化遺産学専攻の博士課程を修了。博士(世界遺産学)。日本造園学会会員。日本シルク学会会員。元大東文化大学国際関係学部非常勤講師。