富岡製糸場
入り口アーチ中央には創業年「明治5年」(1972年)の要石がある

構成資産DATA

奇跡的に残された機械製糸工場建造物群

群馬県南部にある富岡製糸場は、上信電鉄上州富岡駅から南西600mの距離で、鏑川に面した崖の上に建設されました。1872年に明治政府の近代化政策の一環として建てられた官営工場が始まりでした。東西200m、南北250mの敷地内に、製糸工場関連の様々な建物が残されました。門に入って正面に東置繭所があり、中庭を経て、同じ形状の西置繭所があります。そして、2つの置繭所の南側に繰糸場が配置されています。これらの3つの建物は国宝に指定されています。そして、繰糸場の北側には、蒸気窯所、煙突、鉄水槽が見られます。このように、大型の器械製糸工場として必要とされる建造物群が、ほぼ完全な形で残されているのは他に例がありません。富岡製糸場は、官営から民営に移行後も、1987年に操業を停止するまで115年に渡って生糸を生産し続けました。最後の所有者であった片倉工業は、製糸操業停止後も工場建物群が持つ文化財としての価値を認めて、2005年に富岡市に譲渡するまで常駐の管理者を配置して保全を続けました。その努力が、その後の世界遺産登録に繋がったと評価されています。

東置繭所(東繭倉庫)
繭を乾燥・貯蔵した東置繭所(東繭倉庫)。木骨レンガ造の構造がよく分かる(©Faula Photo Works/Adobe Stock)

フランスと日本の技術が融合した繰糸場

繰糸場は器械製糸工場で中心となる建物です。富岡製糸場の繰糸場は、建物の長辺を南に向けた東西140mの長い建物です。北側に設置した蒸気窯所から送られる動力と熱を使って、繭から生糸を繰り出す工程を担いました。建物は木骨レンガ造りという日本と西洋の技術を融合したものです。柱や梁は木材ですが、壁はレンガ造りで、その目地には漆喰が使われました。レンガの積み方は、フランス人技師の指導で、縦と横に交互に積み上げていく「フランス積み」が使われました。この技術は、後に東京駅や日本銀行の建物でも応用されました。また、柱のない広い空間をつくり出すために、屋根部分の骨組みに「トラス構造」という三角形を基本とする小屋組みを取り入れました。そして、フランス製のガラス窓を多用して、電灯のなかった時代に、自然光を取り入れやすくしました。屋根は伝統的な日本瓦を使い、屋根の上には換気のための越屋根を設けました。和洋折衷の技術が使われた繰糸場内では、当初フランス製の繰糸器が300釜も設置されて、300人から400人もの工女が繰糸に従事する光景が見られました。

年間を通しての操業を可能にした大型繭倉庫

富岡製糸場では、繭倉庫を「置繭所」と呼んでいました。東西2棟の置繭所は、それぞれ104mの長さがある大型の繭倉庫です。この大きさは、ヨーロッパに存在したものの2倍とされています。これほど大きなものを2棟も用意したのは、創業当時の養蚕の事情が影響していました。日本の養蚕は年に一度、春のみ行われていました。そのため、富岡製糸場のような大工場では、通年操業のために大量に原料繭を確保しておく必要がありました。東西の置繭所も、繰糸場同様に木骨レンガ造りが採用されていて、2階建てになっています。東置繭所の中門の上にある要石には、創業年を示す「明治五年」の文字が刻まれています。また、西置繭所では、2015年から6年間に渡り大規模な修復工事が行われました。耐震補強用の鉄骨を骨組みとしたガラスの部屋を整備し、資料展示室と多目的ホールを設けたものです。繭倉庫の持つ広い空間を活用したもので、建物の保存と活用を両立させる意図が見られます。

執筆協力者PROFILE

NPO法人世界遺産アカデミー客員研究員

米国総合化学会社の日本法人にて海外人事部門などで40年間勤務した後、筑波大学大学院人間総合科学研究科世界文化遺産学専攻の博士課程を修了。博士(世界遺産学)。日本造園学会会員。日本シルク学会会員。元大東文化大学国際関係学部非常勤講師。

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執筆協力者PROFILE

NPO法人世界遺産アカデミー客員研究員

米国総合化学会社の日本法人にて海外人事部門などで40年間勤務した後、筑波大学大学院人間総合科学研究科世界文化遺産学専攻の博士課程を修了。博士(世界遺産学)。日本造園学会会員。日本シルク学会会員。元大東文化大学国際関係学部非常勤講師。