Properties & Sights

構成資産・みどころ一覧

座喜味城跡

Zakimi-jô site
座喜味城跡
座喜味(ざきみ)城は、1420年頃に有力な按司である護佐丸によって築かれました。護佐丸は当初、座喜味の北東約4㎞にある山田グスク(現在の恩納村)を居城としていました。しかし、今帰仁(なきじん)城の攻略に参戦した頃、敵からの防御や長浜港を控えた地の利を考慮し、高台にある座喜味の地に築城したとされています。また、国王の居城である首里城と迅速な連絡を図るという国防上の理由から、首里城がよく見渡せる丘の上が選ばれました。二つの廓を囲む城壁には、地元で採れる琉球石灰岩が使われています。その積み方は、「野面積み」や「布積み」が進化したとされる「あいかた積み」という手法が多く用いられているのが特徴です。さらに、中央にくさび石をはめて2つの石をかみ合わせることで造られたアーチ石門も大きな見どころですが、このくさび石を用いる方法は他のグスクには見られません。これらの高度な特徴からは、護佐丸が極めて優れた築城技術を持っていたことがうかがえます。
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今帰仁城跡

Nakijin-jô site
今帰仁城跡
今帰仁城跡(なきじんじょうあと)は、沖縄本島北部、本部(もとぶ)半島にあるグスク(城)です。沖縄県の県庁所在地である那覇市からは、車で1時間30分ほどの距離に位置しています。ここはかつて、三山時代に北山(ほくざん)を治めた国王の居城だった場所です。敷地内からは大量の中国陶磁器類が発掘されており、当時の北山王が盛んに海外交易を行なっていたことが分かっています。東側は川、西側は谷、そして南側は急斜面の崖に囲まれた独立丘の上という、防衛上たいへん優れた場所に築かれており、まさにやんばるの地を守る要の城でした。城壁の外周は1,500mに及び、その平面プランは自然の地形に沿って、美しい曲線を描くように造られています。1416年に中山(ちゅうざん)軍に滅ぼされた後は、この地を管理する監守(かんしゅ)が派遣されるようになりました。そして1665年に最後の監守が引き上げてからは、祭りを取り仕切る神聖な場所として大切に残されてきました。
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ムーア城

Moorish Castle / Castelo dos Mouros
ムーア城
大西洋から平野部までを一望できるシントラ山脈に位置する「ムーア城」は、10世紀にこの地を支配したイスラム教徒が、周辺地域の防衛とリスボンへの海上交通路を確保するために築いた、とても重要な戦略的拠点でした。その城壁は、花崗岩の岩山を縫うように連なっています。城壁の内側やその周辺には古くからイスラム教徒の集落が存在し、岩山をくり抜いてつくられた貯蔵庫は、穀物などの食料を保存するために使われていました。1147年、ポルトガル初代国王アフォンソ・エンリケスによってリスボンが奪還されると、シントラとその周辺地域もポルトガル領となりました。そして1154年、領土防衛の戦略的観点から、シントラとその周辺地域の管理はテンプル騎士団の総長グアルディム・パイスに委ねられ、勅許状が与えられました。
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セテアイス宮殿

Seteais Palace / Palácio de Seteais
セテアイス宮殿
「セテアイス宮殿」の歴史は、1787年に始まります。シントラの美しさに魅了された、ポルトガルの富裕な実業家でありオランダ領事でもあったダニエル・ギルデメーステルが、この地に「キンタ・ダ・アレグリア」と呼ばれる別邸を建設しました。1790年に新たな所有者となった第5代マリアルヴァ侯爵ドム・ディオゴ・ヴィトは、建物を2倍の大きさに広げ、2つの棟を結ぶ凱旋門を増築しました。ヨーロッパ各地から貴族が集まり、華やかな宴が開催されるセテアイス宮殿の黄金期を築きました。その後しばらくの間は人々から忘れ去られた場所となっていましたが、1946年にポルトガル政府によって買収され、現在は重要文化財に指定されています。同じ頃、建築家ラウル・リノの手によってホテルへと改築され、1955年9月、「ホテル・パラシオ・デ・セテアイス」として新たに開業しました。
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レガレイラ宮殿

Quinta da Regaleira
レガレイラ宮殿
「レガレイラ宮殿」は、1840年にこの土地を購入したポルトガルの富豪の娘であり、後にレガレイラ男爵夫人として知られるアレン・フェレイラにちなんで、「キンタ・ダ・レガレイラ(レガレイラ邸宅)」と呼ばれるようになりました。19世紀末から20世紀初頭にかけて、大富豪アントニオ・アウグスト・カルヴァーリョ・モンテイロがこの邸宅を購入し、建築家で舞台美術家でもあるルイージ・マニーニの協力を得て大改修を行いました。その結果、ゴシック様式やルネサンス様式、マヌエル様式など、さまざまな建築様式が融合した、ロマン主義的で神秘的な建物となったのです。特に注目すべきなのは、「聖三位一体の礼拝堂」や井戸の内部に作られたような螺旋階段を下りていく「イニシエーションの井戸」です。この井戸の底の部分には地下洞窟が広がっていて、庭園の池へとつながっています。
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モンセラーテ宮殿

Monserrate Palace / Palácio de Monserrate
モンセラーテ宮殿
「モンセラーテ宮殿」の歴史は、1540年の礼拝堂建設から始まりました。ポルトガル人修道士ガスパル・プレトは、バルセロナ郊外にあるモンセラート礼拝堂に感銘を受け、シントラの地に同じような礼拝堂の建設を命じました。当時、この土地はリスボンのトドス・オス・サントス病院の所有地であり、同病院の院長を務めていた彼は、この場所を礼拝の場としてだけでなく、病院で消費する農産物栽培の場としても活用しようと計画したのです。1718年にはポルトガル領インドの最高責任者だったカエタノ・デ・メロ・エ・カストロがこの土地を取得しました。その後、1755年のリスボン大地震で建物は大きな被害を受けますが、1789年にイギリス商人のジェラード・デ・ヴィスメが土地を借り受け、ネオ・ゴシック様式の城を建てました。1794年には、同じくイギリス人作家ウィリアム・ベックフォードが新たな借り受け人となったものの、彼が去った後は再び荒廃の一途をたどることになります。1863年になると、イギリス人商人であり美術収集家でもあったフランシス・クックがモンセラーテの所有者となり、初代モンセラーテ子爵に叙せられました。
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ペナ宮殿

Pena Palace / Palácio Nacional de Pena
ペナ宮殿
大西洋を望むロカ岬から続くシントラ山脈の山の頂、「ペナ宮殿」が建つ場所の歴史は、12世紀にこの地で聖母マリアが現れたという伝説に基づき、小さな礼拝堂が建てられたことから始まります。その後、1503年にマヌエル1世がここに「サンタ・マリア修道院」の建設を命じました。当時、修道士たちの会議室や食堂として使われていた部屋は、現在もその一部を見ることができます。1755年にリスボンを襲った大地震によって、修道院は大きな被害を受けました。その後、1834年に修道会解散にともない、修道院が放棄されたことで、この場所は次第に忘れられていきました。
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シントラ宮殿

Sintra Palace / Palácio Nacional de Sintra
シントラ宮殿
ポルトガル最古の歴史を持つ「シントラ宮殿」は、街の中心に位置し、厨房の上にそびえる2本の巨大な円錐形煙突が特徴的です。現在の宮殿は、何世紀にもわたって建設や増築、改築が繰り返され、複数の王宮が融合してできたものです。最古の宮殿の正確な創建年は分かっていませんが、おそらく最初の建物は、この地が北アフリカからやってきたイスラム教徒ムーア人の支配下にあった、10世紀から11世紀頃に建てられたと考えられています。1147年、アフォンソ・エンリケスによってリスボンが征服されると、シントラを支配していたムーア人勢力であるムラービト朝は降伏し、3世紀以上に及んだその支配に終止符が打たれました。現在の宮殿がある場所は、当時「オリーブの平地」と呼ばれており、ムーア人総督の邸宅が建っていたと考えられていますが、その遺構はいまだ発見されていません。
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西表島

Iriomote Islands
西表島
西表島は4島の中で唯一南琉球に位置する島です。現在の琉球列島は、およそ1,200万年前までユーラシア大陸とひと続きでした。200万年前ごろまでに起きた大規模な地殻変動の影響で、ユーラシアプレートにフィリピン海プレートが沈み込み、現在の琉球列島西側に「沖縄トラフ」と呼ばれる海域が生まれ、徐々に大陸と切り離されました。しかし、南琉球では海面が低下する氷期、海面が上昇する間氷期が繰り返される中、大陸とつながったり離れたりを繰り返し、長い間大陸の生き物が行き来する環境となり、最終的にはその一部が現在の西表島に取り残されました。中琉球では「生きる化石」とも言える遺存固有種が多く見られるのが特徴的である一方で、南琉球に位置する西表島ではほとんどみられず、近縁種が大陸に存在するイリオモテヤマネコなど新固有種が多く生息しているのが特徴として挙げられます。
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沖縄島北部

Northern part of Okinawa Island
沖縄島北部
沖縄本島最高峰の与那覇岳(標高503m)や伊湯岳(446m)などの山々がある沖縄島北部が「やんばる(山原)」です。範囲の明確な定義はないものの、国頭村、大宜味村、東村の3村を世界遺産では「やんばる3村」と呼んでいます。3つの村にまたがる「やんばる国立公園」には、国内最大級の亜熱帯雨林が広がります。飛べない鳥として知られるヤンバルクイナや沖縄県の県鳥でもあるノグチゲラのほか、遺存固有種のオキナワトゲネズミやヤンバルテナガコガネ、オキナワイシカワガエル、1996年に初めて見つかったヤンバルホオヒゲコウモリなど、希少な生物が存在します。また、与那覇岳などの斜面には豊富な降水量に裏打ちされた雲霧林が広がっています。20~30度の傾斜地が多いため、多量の雨水の流入によって川床と川岸が周期的に冠水する「渓流帯」が存在し、環境に適応した渓流植生が根を張っており、今でも新種が発見されています。
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徳之島

Tokunoshima Island
徳之島
徳之島は、鹿児島市から南に約450kmに位置する中琉球の島で、世界遺産に登録された4島の中で最小の島です。登録区域が4島で唯一、島の最高峰・井之川岳(標高645m)でアマミノクロウサギなどが生息する中央部と、標高533mの天城岳のある北部の2か所に分かれています。これらの山々ではスダジイを中心とする亜熱帯照葉樹林が広がっており、島の固有種トクノシマトゲネズミやオビトカゲモドキなど、遺存固有種の生物が多く生息しています。
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奄美大島

Amami-Oshima Island
奄美大島
奄美大島は、中琉球に位置する奄美群島で最大の島です。群島最高峰の湯湾岳(標高694m)に代表されるように、面積の8割以上を森林が占めています。スダジイの自然林や、カシやシイの切り株や根から新しい芽が伸びてできる萌芽林のほか、汽水域には西表島に次いで国内で2番目に広いマングローブ林があります。そのような豊かな植生に守られるように、奄美大島の固有種で、オスになることを決める「Y染色体」を持たないのにオスが誕生する哺乳類アマミトゲネズミや、「日本一美しいカエル」と称される金褐色の斑紋が目を引くアマミイシカワガエルなど、特徴的な動物が多く存在しています。また、奄美大島と徳之島の固有種の哺乳類アマミノクロウサギや、絶滅のおそれのある鳥類のルリカケスなど、遺存固有種の動植物も多く生息しています。
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瀋陽の故宮

Imperial Palaces of the Ming and Qing Dynasties in Shenyang
瀋陽の故宮
清の前身、後金を建国したヌルハチによって建設されたのが瀋陽の故宮です。中国を統治した最後の王朝、清の礎を築いた場所とも言えます。敷地面積は約6万㎡と北京の故宮に比べて規模は小さいものの、東路・中路・西路の3つのエリアに分けられ、約70の建物が建ち並びます。最も早い時期に建てられたのが、1626年創建の大政殿です。東路に位置し、遊牧民族の住居パオのような八角形の建物となっています。大政殿へといたる通路の両側には、すべて同じ建築様式で建てられた10の建造物群があり、十王亭と呼ばれています。ここは、ルーツである女真族の狩猟組織を発展させた清の軍事制度「八旗」の拠点であり、またそれを象徴する建物でもありました。中路の正殿である崇政殿は、清代皇帝の居住地でした。2代目ホンタイジはここで政務を行ったそうです。西路の北部には文遡閣と呼ばれる建物があり、乾隆帝によって編纂された四庫全書が納められていることで知られます。瀋陽の故宮は現在、北京の故宮と同様に博物館として公開され、かつての栄華を今に伝えています。
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城門(北京の故宮)

The Gates of the Forbidden City (Beijing)
城門(北京の故宮)
北京の故宮の周囲には東西南北それぞれひとつずつ城門があり、南は午門、北は神武門、東は東華門、西は西華門と呼ばれます。また、故宮内部にも多くの門が存在します。南側の外朝(政治や儀礼の場)と、北側の内廷(皇帝の私的空間)の間には、2つの空間を隔てる乾清門があります。皇城の南端に位置する天安門を入り、故宮の入り口となる端門、正門である午門、外朝入り口の太和門、そして乾清門を経て内廷へと至る多層構造は、中国古代の都城の配置である「五門三朝」の制度に影響を受けているとされています。
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内廷(北京の故宮)

Inner Court
内廷(北京の故宮)
北京の故宮を南北2つのエリアに分けた北側の部分は内廷と呼ばれます。主に皇帝のプライベートな生活空間として使われた場所で、多数の宮院が建ち並んでいます。建物を支える大理石の基礎、皇帝のみが使うことを許された黄色の瑠璃瓦、赤く塗られた壁や柱……。いたるところから当時の華やかな宮廷生活がしのばれます。神事を行った祭壇などからは、清のルーツである女真族の伝統文化をうかがい知ることもできます。
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外朝(北京の故宮)

Outer Court
外朝(北京の故宮)
北京の故宮の顔ともいえるのが、外朝と呼ばれるエリアです。敷地中央の乾清門を境とした南北2つのエリアの南側に当たります。ここは皇帝が公務を行った場所で、前三殿と称された3つの建物、太和殿・中和殿・保和殿が南北に並びます。最も南にある太和殿は現存する中では中国最大の木造建造物。東西約64m、南北約37m、高さ約35m以上にも及び、その威容は見る者を圧倒します。ここは皇帝の即位や結婚、祭礼など重要な行事や儀式が執り行われた場所で、龍をモチーフにした彫刻が随所に施されているのを見つけることができます。内部には金箔張りの柱や玉座などもあり、別名「金鑾殿」とも呼ばれました。1420年に創建されましたが、幾度かの火災に見舞われ、現存しているのは1695年に再建された建物です。
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荒船風穴

Arafune Cold Storage
荒船風穴
荒船風穴は、群馬県と長野県の県境にそびえる荒船山の北麓、標高約900mの位置にあり、現在の下仁田町の一部となります。その一帯は新世代第三紀の貫入岩が露出し、その岩塊が崩落して谷を埋めたことで、地中には空間が多く見られます。冬季に岩塊は猛烈に冷やされて、そこに雨水が浸み込んで氷や凍土をつくります。夏になっても冷えた環境は保たれて、岩の隙間から冷気が吹き出す風穴となっています。夏の暑い時期には吹き出し口から流れる気流により、その大きな温度差から白煙となる光景も見ることができます。
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高山社跡

Takayama-sha Sericulture School
高山社跡
「高山社跡」は、群馬県南部を流れる神流川の支流である三名川の河岸段丘上にあり、現在の藤岡市郊外(旧高山村)に位置します。1884年に設立された民間養蚕教育機関「養蚕改良高山社」(1873年創立の「養蚕改良高山組」が前身)の建物は、高山社を設立し、初代社長となった高山長五郎の住居でした。高山長五郎は、江戸末期、天保元年(1830年)生まれで、養蚕を糧とする祖母に育てられました。蚕の病害に苦しめられる姿を見て育ち、自らも養蚕の研究を続け、後に全国標準の養蚕法となる「清温育」を完成させました。
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田島弥平旧宅

Tajima Yahei Sericulture Farm
田島弥平旧宅
田島弥平旧宅は利根川沿岸に形成された集落にあり、現在の伊勢崎市境島村にあたります。この一帯は砂質の土壌のため桑の栽培に適しており、江戸時代後期から蚕種の生産地として知られていました。蚕種は蚕の卵のことで、母蛾の交配により生み出されます。そして、良質な蚕種から孵化した蚕に桑を与え成長を促します。成長した蚕は繭をつくり出し、その繭から高品質な生糸の生産に繋げることができます。幕末の文政5年(1822年)にこの地で生まれた田島弥平は、より良い養蚕法を求めました。初めは東北地方で一般的であった「温暖育」を学び、試行錯誤を重ねた上で、通風を重視する方法に改良していき、「清涼育」を完成させました。
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富岡製糸場

Tomioka Silk Mill
富岡製糸場
群馬県南部にある富岡製糸場は、上信電鉄上州富岡駅から南西600mの距離で、鏑川に面した崖の上に建設されました。1872年に明治政府の近代化政策の一環として建てられた官営工場が始まりでした。東西200m、南北250mの敷地内に、製糸工場関連の様々な建物が残されました。門に入って正面に東繭置所があり、中庭を経て、同じ形状の西繭置所があります。そして、2つの繭置所の南側に繰糸場が配置されています。これらの3つの建物は国宝に指定されています。そして、繰糸場の北側には、蒸気窯所、煙突、鉄水槽が見られます。このように、大型の器械製糸工場として必要とされる建造物群が、ほぼ完全な形で残されているのは他に例がありません。富岡製糸場は、官営から民営に移行後も、1987年に操業を停止するまで115年に渡って生糸を生産し続けました。最後の所有者であった片倉工業は、製糸操業停止後も工場建物群が持つ文化財としての価値を認めて、2005年に富岡市に譲渡するまで常駐の管理者を配置して保全を続けました。その努力が、その後の世界遺産登録に繋がったと評価されています。
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ヴァティカン図書館

Vatican Apostolic Library / Biblioteca Apostolica Vaticana
ヴァティカン図書館
ヴァティカン図書館は15世紀に設立された、世界最古の図書館のひとつです。その起源は4世紀には存在した図書館兼文書館に遡ります。13世紀前半にもともとの図書館兼文書館が失われた後、カトリック・ローマ教皇の座がアヴィニョンへ移された「アヴィニョン捕囚」を経て、ローマ復帰後の教皇たちの手によって再設立されました。15世紀には図書館は4つの部屋に分けられ、それぞれラテン語資料、ギリシャ語資料、閲覧制限のある資料、教皇の書簡などを収蔵していました。書籍や資料はその場で閲覧できるほか、厳格な規則のもとで貸し出しも許されていました。
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システィーナ礼拝堂

Sistine Chapel / Cappella Sistina
システィーナ礼拝堂
システィーナ礼拝堂はサン・ピエトロ大聖堂の北側、ヴァティカン宮殿内にある礼拝堂です。もともと宮殿内にあった古い礼拝堂を教皇シクストゥス4世が1477年~1480年にかけて改築させたもので、その教皇名にちなんで「システィーナ礼拝堂」と名付けられました。礼拝堂で有名なのが、ペルジーノ、ボッティチェッリなどルネサンス期を代表する芸術家たちが内装に描いたフレスコ画の絵画作品です。中でも「最後の審判」はミケランジェロの絵画作品の頂点として知られています。
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ヴァティカン美術館

Vatican Museums / Musei Vaticani
ヴァティカン美術館
16世紀初頭に在位した第216代ローマ教皇ユリウス2世は、自身が所蔵する芸術作品を展示するために「ヴァティカン美術館」の基盤となる建物の整備を始めました。1503年、教皇は建築家ドナート・ブラマンテに、ヴァティカン宮殿の修築を依頼しました。この修築には、壮大な「ベルヴェデーレの中庭」とそれに隣接する「彫像の中庭」の建設が含まれていました。彫刻の中庭の壁に設けられたくぼみには、『ラオコーン』や『ベルヴェデーレのアポロン』といった傑作を含む、古代彫像の教皇コレクションが飾られました。こうしてこの場所が、今日のヴァティカン美術館の最初の展示室となったのです。
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使徒宮殿(ヴァティカン宮殿)

Apostolic Palace(Vatican Palace)/ Palazzo Apostolico
使徒宮殿(ヴァティカン宮殿)
使徒宮殿(ヴァティカン宮殿)はサン・ピエトロ大聖堂に隣接するローマ教皇の公邸です。15世紀から17世紀にかけて、歴代教皇が壮麗さを競い合うように増築と改修を重ねてきました。その壮麗さはルネサンス期とバロック期の芸術史におけるモデルとして称されています。18世紀半ばから、ローマ教皇たちはルネサンス時代にさかのぼる古美術品の個人コレクションの拡大に力を注いできました。その結果として宮殿の一部が学者や愛好家がアクセスできる博物館へと姿を変えました。現在、宮殿の大部分はヴァティカン美術館が占めています。また、宮殿内にはミケランジェロ作の「最後の審判」で有名なシスティーナ礼拝堂をはじめ、ラファエロの間やボルジアの居室などもあります。
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サン・ピエトロ広場

St. Peter's Square / Piazza San Pietro
サン・ピエトロ広場
サン・ピエトロ広場は、サン・ピエトロ大聖堂の目の前に広がる広場です。17世紀に、教皇アレクサンデル7世の命を受けて、建築家ジャン・ロレンツォ・ベルニーニが設計し、1667年に完成しました。広場は上空から見ると鍵穴のような形をしています。半円形の回廊が大聖堂のファサードまで連なっており、訪れる人々を包み込むような構成となっています。回廊には高さ約16mの柱が4列にわたって計284本立ち、その上には140体の聖人の像が置かれています。広場の中央には、古代エジプトのオベリスクがそびえ、その頂上には、十字架が備え付けられています。このオベリスクは、1世紀頃にこの地に存在した円形闘技場に置かれていたもので、西暦64年にネロ帝によって殉教した聖ペテロやキリスト教徒を想起させるものとなっています。
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サン・ピエトロ大聖堂

St. Peter's Basilica / Basilica di San Pietro
サン・ピエトロ大聖堂
イエス・キリストの最初の弟子である聖ペテロの墓所があったとされるヴァティカンの丘。そこに、初めてキリスト教を保護したローマ皇帝コンスタンティヌス1世の命によりバシリカ式の教会が建てられました。建設から約1,000年後の15世紀半ば、教皇ニコラウス5世は建物の老朽化を理由により大きな聖堂への改築を構想します。この案はなかなか実現しませんでしたが、1506年に教皇ユリウス2世が工事の開始に踏み切ります。主任建築家はルネサンス期を代表する名建築家ドナート・ブラマンテ。資金難、技術的課題などにより工事は難航しますが、彼の死後、巨匠ミケランジェロ・ブオナローティらが引き継ぎ、1626年に大聖堂が完成しました。ラファエロ・サンツィオやジュリアーノ・ダ・サンガッロ、バルダッサーレ・ペルッツィ、カルロ・マデルノなど名だたる芸術家が携わった大聖堂は、現在も豪華かつ荘厳な輝きを放っています。
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天安門広場

Tiananmen Square
天安門広場
都心にある世界最大の広場とされる天安門広場は、明・清両時代、皇帝が政務を行った紫禁城(現在の故宮)の正門の外にあった宮廷広場でした。1912年以降、徐々に開放型の現代的な公共広場として整備され、現在の姿になりました。広場の重要な構成要素である天安門は明代に建てられました。かつては承天門と呼ばれていましたが、清時代に改築され、天安門と呼ばれるようになったそうです。北側と南側にはそれぞれ、宮殿前に建てられるような装飾性の高い石柱が一対ずつ配置されています。天安門は国家の儀礼の象徴でもあり、広場で繰り広げられた国家の歴史的瞬間を見守り続けてきました。広場には他にも、人民英雄記念碑、毛主席記念堂、人民大会堂、中国国家博物館などの建物が並び、荘厳な都市空間を形成しています。北京の中軸線における建築景観に調和した空間は、20世紀後半の中国において最も重要な建築上の成果の一つとされています。
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端門

Upright Gate
端門
端門は、明・清両時代に皇帝の儀礼用品を保管していた場所で、同時に儀仗を整備する場でもありました。端門の両側には官吏が休んで待つ部屋もあり、皇帝が儀礼を執り行う朝堂空間を構成していました。北京の中軸線上では、北側にある故宮南面の午門と、南側にある天安門の間に挟まれた位置にあります。建物は壮麗な装飾に彩られ、天安門や午門と共に美しい軸線を描いて皇宮建築の威厳を引き立てる重要な門戸の一つとなっています。2018年には、故宮博物院が展示施設「端門デジタル館」を開設。明、清時代の紫禁城をVR技術で再現した作品が、館内のVRシアターで一般公開されました。
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太廟

Imperial Ancestral Temple
太廟
中軸線上にある天安門の東側に位置する太廟は、1420年に建立され、明・清の皇帝により祖先をまつるために使われた聖地です。祖先をまつることは中国の伝統社会において極めて重要な意味を持ち、北京では元・明・清時代にわたって多くの壮大な祭祀建造物が建てられました。その中でも最大規模かつ最も格式高い建築群が太廟です。敷地は南北475m、東西294mの長方形で、三重の大きな塀に囲まれています。塀の中には、南から北にかけて3つの殿堂形式の建物、前殿・中殿・後殿が並びます。最も格式が高いのが大殿とも呼ばれる前殿で、皇室の祖先の位牌が納められ、皇帝が大きな祭祀を行った場所でした。故宮と同じく赤い壁と黄色の釉薬瓦の屋根が特徴の建築群は、日差しを遮る高い古木に囲まれ、荘厳で落ち着いた雰囲気に包まれています。1951年に一般公開された太廟は、今では歴史博物館として皇族の歴史とその威厳を伝えています。
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紫禁城

Forbidden City
紫禁城
北京の中心部に位置する故宮は、かつて紫禁城と呼ばれ、明・清時代の約500年間、計24人の皇帝が居城とし、政治の中枢となった場所でした。清が滅びた後、「昔の宮殿」を意味する「故宮」と改称され、現在は博物館として機能しています。「紫」は天帝の在所や皇宮・朝廷を指した紫微垣に、「禁」は宮殿が一般の立ち入りを厳しく禁じていたことにそれぞれ由来して、紫禁城と呼ばれるようになったそうです。敷地は東西約750m、南北約960mと広大で、周囲は壮麗な深紅の城壁に囲まれ、四方にそれぞれ門が配置されています。ハイライトの一つが、敷地の南側、皇帝が政務を行った外朝と呼ばれるエリアに並ぶ3つの建物です。現存する中国最大の木造建造物、太和殿をはじめとする壮観な眺めを楽しむことができます。
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