Properties & Sights

構成資産・みどころ一覧

巡礼路

Pilgrimage Route
巡礼路
ベツレヘムとその聖誕教会はキリスト教の伝統的な巡礼地とされています。この道は、ダビデ王の井戸と聖誕教会を結んでおり、ダマスカス門を通って広場へと続いています。毎年クリスマスにはベツレヘムと聖誕教会を管理する3つのキリスト教の教派(カトリック、ギリシャ正教会、アルメニア正教会)の総大司教(正教会では総主教)が、それぞれの定める日の儀礼において辿る道です。この道はイエスの生まれた地とされるベツレヘムの聖誕教会へ向かうイエスの母である聖母マリアと父であるヨセフが辿った道とされています。
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聖誕教会

Church of the Nativity
聖誕教会
キリスト教の創始者イエス・キリストとされる、ナザレのイエスは紀元前4年頃にベツレヘムで誕生したと伝えられています。その生誕の地とされる洞窟を中心として聖誕教会(降誕教会とも)が建てられています。最初の教会はコンスタンティヌス1世の治世下の339年に創建されましたが、6世紀頃に火災により焼失しています。現在の教会は6世紀半ばに再建されたものを中心にその後増改築を経たものです。
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修道院群

Monasteries
修道院群
聖誕教会に隣接する形で、フランシスコ修道会、アルメニア正教会、ギリシャ正教会の修道院が建てられており、これらも世界遺産の構成資産となっています。1878年のベルリン条約で定められた「ステータス・クオ(現状維持協定)」に基づき聖誕教会とその周辺の建造物群はこれら3つの宗派が共同で監督・管理を行っています。毎年クリスマスの時期にはこれら3つの教会の総大司教がそれぞれの教派で異なるクリスマスの日に合わせて巡礼路を通ってベツレヘムを訪れ、イエスの聖誕を祝っています。
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アンドラーシ通り

Andrássy út
アンドラーシ通り
アンドラーシ通りは、エルジェーベト広場から英雄広場に延びる通りで、19世紀後半から行われるようになった計画的な都市開発の象徴です。この通りの敷設は、未整備であった郊外エリアを直線的に貫くことで、都市の構造を根本的に変革した意味において重要な意味を持つ存在です。中心街から郊外に向けて延びる道は区間ごとに幅が変わり、建物の高さは徐々に低くなり、中心部の連続した建物から郊外付近の独立したヴィラへの変化を見せています。道路や建物の連続的な変化によって、人工的な建築環境から自然環境へとスムーズに誘導する仕組みを形成しています。
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ツィタデッラ(要塞)

Citadella
ツィタデッラ(要塞)
ツィタデッラ(要塞)は、ドナウ川を見下ろすゲッレールトの丘の頂上に築かれた要塞です。ゲッレールトの丘の名は、11世紀に丘の斜面から突き落とされて殉教した司教の名前に由来し、15世紀頃からこのように呼ばれるようになりました。現在の要塞は1848〜49年のハンガリー革命の鎮圧後にブダペストを監視・防衛する目的でオーストリア帝国によって建設されたものです。第二次世界大戦時には防空陣地や防空壕としても使用されました。戦後は観光地として整備され、敷地内には有名な「自由の像」が立ち、現在は歴史展示や展望台、公園などを備えた文化・観光の拠点としてリニューアルされています。なお、ツィタデッラはイタリア語で「城塞」を意味します。
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マーチャーシュ聖堂

Mátyás-templom
マーチャーシュ聖堂
マーチャーシュ聖堂は、13世紀半ばのブダ城の建造と同時期にベーラ4世によって建造された聖母マリア聖堂が母体となっています。名を冠するマーチャーシュ1世(在位:1458~1490年)はハンガリー王国の最盛期を築いたとされる国王です。人文主義的な国王とされ、大学や図書館、宮廷印刷所を創設しただけでなく、イタリアから建築家や芸術家を宮廷に招き、ブダをヨーロッパにおけるルネサンス芸術の中心地のひとつへと発展させました。マーチャーシュ聖堂は、前述の聖母マリア聖堂をゴシック様式で改築したもので、彼の紋章であるワタリガラスで飾った尖塔などが建造されました。オスマン帝国の占領下では一時モスクに転用され、本来のゴシック様式の部分が失われましたが、19世紀末にオリジナルのディテールを残しつつ、歴史主義的なネオ・ゴシック様式で修復されました。
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ブダ城(王宮)

Budavári Palota
ブダ城(王宮)
13世紀前半にタタールの襲来による荒廃の後、ハンガリー国王ベーラ4世は都をブダへと遷しました。そして、ブダ地区の防御に適した丘を城壁で囲み、そこに自身の王室の拠点を築きました。これがブダ城の起源です。その後アンジュー家の国王たちの統治下でゴシック様式の王宮が建造され、神聖ローマ皇帝でもあったハンガリー王ジギスムントによって王宮が拡張され発展します。さらに15世紀のマーチャーシュ1世による増改築で、イタリア・ルネサンス様式が取り入れられました。しかし、16世紀半ばにブダがオスマン帝国による征服を受けると、ブダ城の一部は火薬保管庫として使用されることとなり、その後には火薬の爆発によって壊滅的な被害を受けることとなります。17世紀後半のブダ解放のための戦いの被害もあり、城の丘の建造物の60~70%が破壊されたとされています。
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セーチェーニ鎖橋

Széchenyi Lánchíd
セーチェーニ鎖橋
ブダペストはもともとブダとオーブダ、ペストという3つの街でした。1849年にイギリス人技術者W.T.クラークの設計によってブダ地区とペスト地区を結ぶ形でドナウ川に架けられた橋がセーチェーニ鎖橋です。鋼鉄の鎖が橋を吊り下げて支えていることからその名が付けられました。この鎖橋によってブダ地区とペスト地区が結ばれ、1873年には3つの街がブダペストとして合併しました。鎖橋は第二次世界大戦中にドイツ軍によって爆破されるという悲劇に見舞われましたが、建設100周年の1949年に再建されました。セーチェーニ鎖橋は、ブダ地区とペスト地区の統合を象徴する記念碑的な建造物というだけでなく、周囲の並木道や丘などとともにブダペストの美しい都市景観を形成しています。
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ブダ城地区

Budai Várnegyed
ブダ城地区
ドナウ川西岸に広がる「ブダ城地区」は、ブダ城を中心とするエリアです。主にブダ城(王宮)、旧聖ジェルジ広場、居住区の3つに分けることができます。景観にひときわ強い印象を与えるのは、丘の上にそびえるブダ城です。その北側に位置する旧聖ジェルジ広場には、現在大統領官邸として使用されているシャンドール宮殿などが面しています。聖ジェルジ広場のさらに北側には居住区が広がっています。18世紀の外観をもつ1~2階建ての家が多いものの、中世の建築要素をもつ建造物や近代建築が混在した街並みが形成されています。
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国会議事堂

Országház
国会議事堂
ブダ城を中心とした歴史的な街であるブダ地区に対して、対岸のペスト地区にはハンガリーの近代化を象徴する建造物が建ち並んでいます。その中でも近代ハンガリーの象徴ともいえる建造物がネオ・ゴシック様式の国会議事堂です。自治国家の象徴たる建物として1884年に建築が始まった議事堂は、20年後の1904年に完成しました。建築家イムレ・スタインドルの設計による議事堂は、全長268mの規模と高さ96mのドーム(クーポラ)を有し、階段や廊下に敷かれた絨毯の総延長は20㎞にも及ぶとされています。当時の首相が「倹約は一切無用」として豪華絢爛に建造された議事堂には約40㎏もの22金が使用されました。また、当時最先端の技術だったセントラルヒーティングシステム、電灯、消火設備、電話が導入されるなど、ロンドン、ウィーン、ミュンヘンなどヨーロッパの主要な都市のそれに匹敵する優れた公共建築の一例とされています。
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クルチェット邸

Maison du Docteur Curutchet
クルチェット邸
1949~1953年にアルゼンチンのブエノスアイレス州ラ・プラタに建設されたクルチェット邸は、第二次世界大戦後の建築家ル・コルビュジエを代表する重要な作品です。この設計を依頼したのは、アルゼンチン人外科医のペドロ・ドミンゴ・クルチェットです。彼は優秀な医師であり、音楽・絵画・文学に造詣の深い教養人でもありました。クルチェットは外科クリニックを開業するにあたり、単に診療所付き住宅を求めるのではなく、「新しい時代の住まいのあり方」を表現できる建築家として、ル・コルビュジエに設計を依頼しました。敷地は小さいながらも公園に面した恵まれた場所で、この計画に魅力を感じたル・コルビュジエは、クルチェットに宛てた手紙の中で、「シンプルで、敷地や用途に適切に応えた、調和のある小さな傑作をつくる」と伝えています。
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ヴァイセンホフ・ジードルングの住宅

Maisons de la Weissenhof-Siedlung
ヴァイセンホフ・ジードルングの住宅
ドイツ南西部のシュトゥットガルトにあるヴァイセンホフ・ジードルングの住宅は、大量生産できる現代住宅のモデルとして、1927年に開催されたジードルング住宅建築展に出展されました。この建築展はミース・ファン・デル・ローエが開催したもので、当時ヨーロッパで注目されていた17人の建築家が招集されました。そのなかには、バウハウスを開設したヴァルター・グロピウスや、ベルリンのモダニズム公共住宅を設計したブルーノ・タウトなども含まれていました。ミース・ファン・デル・ローエは、建物の条件として堅牢かつ機能的であることと、労働者のニーズを満たし、平屋根であることなどを求めていました。
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ギエット邸

Maison Guiette
ギエット邸
ベルギーのアントワープにあるギエット邸は、1926年に設計された画家ルネ・ギエットの住宅兼アトリエで、「レ・ププリエ(ポプラの家)」と呼ばれています。建築家ル・コルビュジエが海外で初めて受注した建築作品で、彼が提唱した住宅モデル「メゾン・シトロアン」を実際の住宅に表現した数少ない例のひとつです。「メゾン・シトロアン」は、建築部材の規格化と、「住宅は住むための機械である」という考えにもとづき、生活に必要な機能を建築に取り入れることを目指した住宅モデルです。一方、敷地が細長い形状だったこと、都市計画の規制があったこと、ギエット自身が1階で生活し庭へ直接出られる住まいを希望したことから、ル・コルビュジエ建築の特徴であるピロティは採用されませんでした。そのため、道路側にキッチンやトイレを配置した、独特の3階建て住宅になっています。
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レマン湖畔の小さな家

Villa Le Lac
レマン湖畔の小さな家
「ヴィラ ル・ラック(湖畔の家)」と呼ばれるこの住宅は、1923年から1924年にかけて、建築家ル・コルビュジェが両親のためにスイス西部のレマン湖畔に建てたものです。「最小限の住宅」と「多くの人々のための住まい」という課題に、初めて本格的に取り組んだ作品として知られています。約300㎡の塀に囲まれた敷地の中に、長さ約20m、幅約4m、延べ床面積64㎡の小さな平屋が建てられました。ル・コルビュジエはこの住宅について、「平面は敷地にぴったりと収まり、まるで手が手袋に収まるように土地と一体化している」と表現しています。
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ラ・ロッシュとジャンヌレ邸

Maisons La Roche et Jeanneret
ラ・ロッシュとジャンヌレ邸
1923年、建築家ル・コルビュジエによってフランスのパリ16区に設計された「ラ・ロッシュ邸とジャンヌレ邸」は、建築において近代に相応しい芸術を作ろうとする「ピュリスム」の運動を初めて表現した作品です。緑豊かな袋小路に建てられた2棟続きの邸宅は、ひとつの建築作品として設計されました。「ラ・ロッシュ邸」は、裕福な独身の美術収集家であり、スイスの銀行家でもあったラウル・ラ・ロッシュのために設計されました。独身者の住居であると同時に、近代絵画コレクションを展示するギャラリーとしての役割も担っていました。一方、「ジャンヌレ邸」は、ル・コルビュジエの兄であるアルベール・ジャンヌレ夫婦のために設計されました。3人の子どもを持つ家族のための住宅として、多くの部屋と生活に必要な設備が備えられています。
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マルセイユのユニテ・ダビタシオン

Unité d’Habitation in Marseille
マルセイユのユニテ・ダビタシオン
1945年、フランスの復興・都市計画大臣ラウル・ドートリーは、建築家ル・コルビュジエに、第二次世界大戦で壊滅的な被害を受けたフランス南部マルセイユにおける大規模集合住宅「ユニテ・ダビタシオン」の建設を依頼しました。ル・コルビュジエは、生涯で5つのユニテ・ダビタシオンを設計しています。なかでもマルセイユのユニテ・ダビタシオンは最初の作品であり、1947年から1952年にかけて建設されました。この集合住宅は「垂直の庭園都市」という考えのもとに計画されました。「ピロティ」とよばれる柱の上に持ち上げられた高床式の建物は、長さ135m、幅24m、高さ56mの直方体の形をしています。18階建ての建物には、約1,500~1,700人の住民が暮らし、23種類のタイプに分かれた330戸の住居が設けられています。また、7階と8階にはスーパーや郵便局、ホテル、レストランなどがあり、さらに屋上テラスには幼稚園やスポーツ施設が設けられるなど、都市の機能も備えているのです。
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ノートル・ダム・デュ・オ礼拝堂(ロンシャンの礼拝堂)

Chapelle Notre-Dame-du-Haut
ノートル・ダム・デュ・オ礼拝堂(ロンシャンの礼拝堂)
フランス北東部ヴォージュ山脈の南、ロンシャンに位置するノートル・ダム・デュ・オの丘は、11世紀以前の歴史はよく分かっていませんが、その地形から古代には戦略上重要な場所であった可能性があり、ローマ軍の駐屯地があったとも考えられています。カトリック修道会であるドミニコ会の巡礼地として6世紀末には礼拝所が設けられ、9世紀には毎年9月8日に聖母マリアの誕生祭を祝い、祈りをささげる巡礼者たちが訪れていたようです。残念ながら、当時の礼拝堂の姿を伝える資料は残っていません。20世紀に入ると、8月15日の聖母被昇天を祝う巡礼が行われるようになりました。第二次世界大戦中、ロンシャンは爆撃を受け、ノートル・ダム・デュ・オの丘の礼拝堂は破壊され、ドイツ軍の軍用無線局や観測所が置かれました。戦後、礼拝堂再建の設計が建築家ル・コルビュジエに依頼されました。彼は当初、教会のために働くことを拒否していましたが、1950年にロンシャンを訪れ、そこで目にした風景に心を奪われ、この依頼を受けることを決意したのです。1955年にル・コルビュジエによって礼拝堂が完成し、その後1970年代にジャン・ブルーヴェが鐘楼を、2011年にレンゾ・ピアノが聖クララ修道院と案内所を設計しました。この丘全体が、歴史的、芸術的、精神的価値を併せ持つ場所となったのです。
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サヴォワ邸と庭師小屋

Villa Savoye et loge du jardinier
サヴォワ邸と庭師小屋
1928年、ピエール・サヴォワとウジェニー・サヴォワ夫妻は、パリ郊外のポワシーに週末を過ごすための別荘を建てることを決めました。彼らは、当時すでに前衛的な作品で知られていた建築家ル・コルビュジエに別荘の建築を依頼しました。その依頼はサヴォワ夫人からル・コルビュジエに宛てた手紙によって行われ、そこには温水設備、電気やガスの設備、照明の雰囲気や床材の指定など細かな要望が具体的に記されていました。この建築には、ル・コルビュジエの従兄弟であるピエール・ジャンヌレも協力しました。当時のポワシーはのどかな田園地帯で、別荘の敷地はセーヌ川を望む木々に囲まれた広大な草地でした。ル・コルビュジエはこの自然環境をできるだけ損なわないように、「家は草地の上に、何も乱すことなく置かれた物体のように存在するべきだ」と考え建築に取り組んだのです。
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チャンディガールのキャピトル・コンプレックス

Complexe du Capitole de Chandigarh
チャンディガールのキャピトル・コンプレックス
1952年にインドのパンジャーブ州チャンディガールで始まった都市計画は、「チャンディガールのキャピトル・コンプレックス」として、建築家ル・コルビュジエによる最も壮大な近代建築のひとつとして知られています。1947年にインドがイギリスから独立した際、パンジャーブ州は東西に分割され、東側はインド領、西側はパキスタン領になりました。当時、州都であったラホールがパキスタン側に属することになったため、新たな州都がチャンディガールに建設されることになったのです。この都市計画は、独立を果たしたインドが自由と近代化へ向かう姿を象徴しており、民主主義を支える立法・行政・司法の3つの建物と、ル・コルビュジエの思想を表現する4つのモニュメントで構成されています。
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国立西洋美術館

The National Museum of Western Art
国立西洋美術館
国立西洋美術館は東京の上野恩賜公園内にあり、実業家松方幸次郎が収集した美術品コレクション(松方コレクション)を基礎に、西洋美術作品を収蔵・展示するために建設されました。第二次世界大戦末期、松方コレクションはフランス政府に接収されていましたが、1953年に日本へ寄贈返還されることとなります。その際、フランス政府は返還の条件として、新たな美術館を建設することを求めました。これに応えるため、フランスの建築家ル・コルビュジエの基本設計をもとに、彼の弟子である前川國男、坂倉準三、吉阪隆正によって日本で実施設計が行われました。1959年に完成した国立西洋美術館は、近代建築の巨匠ル・コルビュジエによる日本唯一の作品であり、その後の日本現代建築にも大きな影響を与えたのです。
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リンクシュトラーセ

Ringstrasse
リンクシュトラーセ
リンクシュトラーセは、ウィーン旧市街を囲む全長約5.3kmの大通りで、19世紀後半に整備されました。かつてこの場所には中世以来の城壁がありましたが、1857年に皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が城壁撤去を命じ、その後19世紀後半にかけて整備されました。沿道には国立歌劇場、国会議事堂、市庁舎、美術史美術館、ブルク劇場など、歴史主義様式による壮麗な建築群が並びます。また、公園や広場も一体的に整備され、19世紀ヨーロッパ都市計画の象徴ともいえる景観を形成しています。リンクシュトラーセは、ハプスブルク帝国時代の繁栄や文化的成熟を今に伝える存在として、ウィーン歴史地区の重要な構成要素となっています。
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ウィーン国立歌劇場

Wiener Staatsoper
ウィーン国立歌劇場
ウィーン国立歌劇場は、1869年にハプスブルク帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の時代に開場した、世界屈指のオペラハウスです。ネオ・ルネサンス様式で建設され、リング通りを代表する建築のひとつとして知られています。しかし、華やかな歴史だけではなく、第二次世界大戦中のナチス政権下では芸術活動への統制が強まり、多くの芸術家が厳しい状況に置かれました。1944年には戦争の影響で劇場も閉鎖され、1945年の空襲では舞台や客席を含む建物の大部分が焼失します。長年使用されてきた舞台装置や大量の衣装も失われました。その後、約10年に及ぶ修復を経て1955年に再開場します。戦争を乗り越え、“ウィーン文化復興の象徴”として再び人々を迎えています。
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ベルヴェデーレ宮殿

Belvedere Palace / Schloss Belvedere
ベルヴェデーレ宮殿
ベルヴェデーレ宮殿は、ウィーンを代表するバロック様式の宮殿です。ハプスブルク家の総司令官として、オスマン帝国軍との戦いで功績を残したオイゲン公(サヴォイア家出身)が、夏の離宮として建設しました。宮殿は「上宮」と「下宮」に分かれ、その間には左右対称の美しい庭園が広がっています。なかでも上宮は丘の上に建ち、庭園越しに望む景観が大きな魅力です。「ベルヴェデーレ」という名称にも、“美しい眺め”という意味があります。また、下宮はオイゲン公の居城となり、「大理石の間」「黄金の間」など贅沢な装飾が施された空間が存在します。
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ショッテン修道院

Schottenstift
ショッテン修道院
ショッテン修道院は、1155年にオーストリア公ハインリヒ2世ヤゾミルゴットによって創建された、ウィーン最古級のベネディクト会修道院です。アイルランド系の修道士たちが招かれたことから、「ショッテン」の名で知られるようになりました。中世には祈りの場であるだけでなく、学問や教育の拠点としても重要な役割を果たしました。現在も修道院内には名門校ショッテンギムナジウムが置かれています。17〜18世紀には大規模な改築が行われ、現在見られるバロック様式の教会や建物群が整えられました。
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聖シュテファン大聖堂

St. Stephen's Cathedral / Domkirche St. Stephan
聖シュテファン大聖堂
聖シュテファン大聖堂の歴史は、1137年に最初のロマネスク様式の教会建設が始まったことにさかのぼります。その後、火災や増改築を繰り返しながら、13〜15世紀にかけて現在の壮大なゴシック様式へ発展しました。特にハプスブルク家のルドルフ4世は大聖堂の拡張を進め、ウィーンを象徴する存在へと成長させました。高さ136mの南塔は中世ヨーロッパでも有数の高さを誇り、街のランドマークとして親しまれています。長い歴史の中ではオスマン帝国による侵攻や戦争も経験しましたが、それでも人々に守られ続けてきた、ウィーンの歴史そのものを映す建築です。
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ハーン・ハリーリ

Khan El-Khalili
ハーン・ハリーリ
ハーン・ハリーリは、カイロの「イスラム地区」の中央にある広大な市場バザールです。ここは14世紀から続く古い市場ですが、もともとは12世紀アイユーブ朝のサラディンにより開かれた交易の場で、その後マムルーク朝時代に隊商宿(キャラバンサライ)が多く建てられたことで広大な市場となりました。現在は衣類やスカーフ、パピルスの文書絵画、香水、香辛料、真鍮細工などを扱う商店が2,000以上も連なり、日々賑わいを見せています。中世の雰囲気を残す石畳や迷路のような路地が続き、歴史を感じさせます。
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アズハル・モスク

Al-Azhar Mosque
アズハル・モスク
972年、ファーティマ朝時代に建設されたモスクです。当初は質素なデザインで、中庭と列柱を多用した当時の典型的なモスクでしたが、その後の統治者により拡張工事が行われ、現在の規模となりました。カイロは、ファーティマ朝によってイスラム勢力の政治・経済・宗教の中心地へと発展していき、アズハル・モスクもイスラム神学やイスラム法研究の拠点となりました。1171年にファーティマ朝がアイユーブ朝によって打倒されると、金曜モスクとしての地位を失いましたが、マムルーク朝支配下の1266年に、再びモスクでの説教が復活され、規模も拡大されました。その後のオスマン帝国の時代にも、大規模な拡張が行われ、各時代の様式が組み合わされ混在するという、カイロの豊かなイスラムの歴史を反映したモスクです。各ミナレットが少し不揃いなのも、各時代の寄進者によりバラバラに建てられてきたことが理由です。
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スルタン・ハサン・モスクとマドラサ

Mosque and Madrasa of Sultan Hasan
スルタン・ハサン・モスクとマドラサ
カイロの「イスラム地区」と呼ばれる旧市街で、サラディンの城塞(シダデル)の手前にある巨大な建造物です。14世紀にマムルーク朝のスルタンであったナースィル・ハサンが建設し、1363年に完成しました。その巨大さは、高さ55mのドームや、カイロで最大のミナレット(高さ80m)を見ればよくわかります。一説には、建材にギザのピラミッドの表面を覆っていた化粧石板が使われたと言われています。また、その規模だけでなく、繊細な内部装飾や黄金で飾られたミフラーブなど、イスラム芸術の粋を集めた美しさで見どころ満載です。しかし、この建物の完成の直前にスルタン・ハサンは暗殺されてしまい、彼はこの壮麗な建物の完成を見ることはできませんでした。彼の棺もここに納められています。
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イブン・トゥールーン・モスク

Ahmad Ibn Tulun Mosque
イブン・トゥールーン・モスク
アッバース朝よりエジプト総督に任じられたアフマド・イブン・トゥールーンは、軍隊を率いてエジプト入りした後、単に総督としての地位に飽き足らずに、一種の独立政権(トゥールーン朝)を確立しました。そして、それまでのフスタートの町が人口の増加で手狭になってきたのを機会に、その北東に新たにアル・カターイーの町を建設し、行政の首都としました。879年、アル・カターイーの主要な集会モスクとして建設されたのが、「イブン・トゥールーンのモスク」です。モスク本体は123m×140mの規模、中庭は90㎡の正方形で、四方を列柱アーチ式の回廊が囲んでいます。当時としては先端の建築技術で建設されたようですが、様式としては、中庭を囲む回廊や外階段のついたミナレットなど、メディナの「預言者のモスク」以来の古典的建築様式を踏襲しており、イブン・トゥールーンが若い頃滞在したアッバース朝の首都サーマッラーの大モスクの影響も色濃く現れています。
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アムル・イブン・アル・アース・モスク

‘Amr ibn al-‘As Mosque
アムル・イブン・アル・アース・モスク
アラビア半島から進攻してきたイスラム軍の総司令官アムル・イブン・アル・アースは、640年、現在のオールド・カイロ地区付近に、アフリカでの軍事拠点としてフスタートを建設しました。アムル・イブン・アル・アースは、預言者ムハンマドに直接会ったイスラム教徒(教友、サハーバとも)の一人とされる人物です。641年(642年とも)、彼はフスタートに自らの名を冠したモスクを建立しました。これはアフリカ大陸で最初のモスクとされます。当初のモスクは、日干しレンガやヤシ材を用いた簡素で小規模な建築であったと考えられています。
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