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巡礼路
Pilgrimage Route
聖誕教会
Church of the Nativity
修道院群
Monasteries
アンドラーシ通り
Andrássy út
ツィタデッラ(要塞)
Citadella
ツィタデッラ(要塞)は、ドナウ川を見下ろすゲッレールトの丘の頂上に築かれた要塞です。ゲッレールトの丘の名は、11世紀に丘の斜面から突き落とされて殉教した司教の名前に由来し、15世紀頃からこのように呼ばれるようになりました。現在の要塞は1848〜49年のハンガリー革命の鎮圧後にブダペストを監視・防衛する目的でオーストリア帝国によって建設されたものです。第二次世界大戦時には防空陣地や防空壕としても使用されました。戦後は観光地として整備され、敷地内には有名な「自由の像」が立ち、現在は歴史展示や展望台、公園などを備えた文化・観光の拠点としてリニューアルされています。なお、ツィタデッラはイタリア語で「城塞」を意味します。
マーチャーシュ聖堂
Mátyás-templom
マーチャーシュ聖堂は、13世紀半ばのブダ城の建造と同時期にベーラ4世によって建造された聖母マリア聖堂が母体となっています。名を冠するマーチャーシュ1世(在位:1458~1490年)はハンガリー王国の最盛期を築いたとされる国王です。人文主義的な国王とされ、大学や図書館、宮廷印刷所を創設しただけでなく、イタリアから建築家や芸術家を宮廷に招き、ブダをヨーロッパにおけるルネサンス芸術の中心地のひとつへと発展させました。マーチャーシュ聖堂は、前述の聖母マリア聖堂をゴシック様式で改築したもので、彼の紋章であるワタリガラスで飾った尖塔などが建造されました。オスマン帝国の占領下では一時モスクに転用され、本来のゴシック様式の部分が失われましたが、19世紀末にオリジナルのディテールを残しつつ、歴史主義的なネオ・ゴシック様式で修復されました。
ブダ城(王宮)
Budavári Palota
13世紀前半にタタールの襲来による荒廃の後、ハンガリー国王ベーラ4世は都をブダへと遷しました。そして、ブダ地区の防御に適した丘を城壁で囲み、そこに自身の王室の拠点を築きました。これがブダ城の起源です。その後アンジュー家の国王たちの統治下でゴシック様式の王宮が建造され、神聖ローマ皇帝でもあったハンガリー王ジギスムントによって王宮が拡張され発展します。さらに15世紀のマーチャーシュ1世による増改築で、イタリア・ルネサンス様式が取り入れられました。しかし、16世紀半ばにブダがオスマン帝国による征服を受けると、ブダ城の一部は火薬保管庫として使用されることとなり、その後には火薬の爆発によって壊滅的な被害を受けることとなります。17世紀後半のブダ解放のための戦いの被害もあり、城の丘の建造物の60~70%が破壊されたとされています。
セーチェーニ鎖橋
Széchenyi Lánchíd
ブダペストはもともとブダとオーブダ、ペストという3つの街でした。1849年にイギリス人技術者W.T.クラークの設計によってブダ地区とペスト地区を結ぶ形でドナウ川に架けられた橋がセーチェーニ鎖橋です。鋼鉄の鎖が橋を吊り下げて支えていることからその名が付けられました。この鎖橋によってブダ地区とペスト地区が結ばれ、1873年には3つの街がブダペストとして合併しました。鎖橋は第二次世界大戦中にドイツ軍によって爆破されるという悲劇に見舞われましたが、建設100周年の1949年に再建されました。セーチェーニ鎖橋は、ブダ地区とペスト地区の統合を象徴する記念碑的な建造物というだけでなく、周囲の並木道や丘などとともにブダペストの美しい都市景観を形成しています。
ブダ城地区
Budai Várnegyed
国会議事堂
Országház
ブダ城を中心とした歴史的な街であるブダ地区に対して、対岸のペスト地区にはハンガリーの近代化を象徴する建造物が建ち並んでいます。その中でも近代ハンガリーの象徴ともいえる建造物がネオ・ゴシック様式の国会議事堂です。自治国家の象徴たる建物として1884年に建築が始まった議事堂は、20年後の1904年に完成しました。建築家イムレ・スタインドルの設計による議事堂は、全長268mの規模と高さ96mのドーム(クーポラ)を有し、階段や廊下に敷かれた絨毯の総延長は20㎞にも及ぶとされています。当時の首相が「倹約は一切無用」として豪華絢爛に建造された議事堂には約40㎏もの22金が使用されました。また、当時最先端の技術だったセントラルヒーティングシステム、電灯、消火設備、電話が導入されるなど、ロンドン、ウィーン、ミュンヘンなどヨーロッパの主要な都市のそれに匹敵する優れた公共建築の一例とされています。
クルチェット邸
Maison du Docteur Curutchet
1949~1953年にアルゼンチンのブエノスアイレス州ラ・プラタに建設されたクルチェット邸は、第二次世界大戦後の建築家ル・コルビュジエを代表する重要な作品です。この設計を依頼したのは、アルゼンチン人外科医のペドロ・ドミンゴ・クルチェットです。彼は優秀な医師であり、音楽・絵画・文学に造詣の深い教養人でもありました。クルチェットは外科クリニックを開業するにあたり、単に診療所付き住宅を求めるのではなく、「新しい時代の住まいのあり方」を表現できる建築家として、ル・コルビュジエに設計を依頼しました。敷地は小さいながらも公園に面した恵まれた場所で、この計画に魅力を感じたル・コルビュジエは、クルチェットに宛てた手紙の中で、「シンプルで、敷地や用途に適切に応えた、調和のある小さな傑作をつくる」と伝えています。
ヴァイセンホフ・ジードルングの住宅
Maisons de la Weissenhof-Siedlung
ギエット邸
Maison Guiette
ベルギーのアントワープにあるギエット邸は、1926年に設計された画家ルネ・ギエットの住宅兼アトリエで、「レ・ププリエ(ポプラの家)」と呼ばれています。建築家ル・コルビュジエが海外で初めて受注した建築作品で、彼が提唱した住宅モデル「メゾン・シトロアン」を実際の住宅に表現した数少ない例のひとつです。「メゾン・シトロアン」は、建築部材の規格化と、「住宅は住むための機械である」という考えにもとづき、生活に必要な機能を建築に取り入れることを目指した住宅モデルです。一方、敷地が細長い形状だったこと、都市計画の規制があったこと、ギエット自身が1階で生活し庭へ直接出られる住まいを希望したことから、ル・コルビュジエ建築の特徴であるピロティは採用されませんでした。そのため、道路側にキッチンやトイレを配置した、独特の3階建て住宅になっています。
レマン湖畔の小さな家
Villa Le Lac
ラ・ロッシュとジャンヌレ邸
Maisons La Roche et Jeanneret
1923年、建築家ル・コルビュジエによってフランスのパリ16区に設計された「ラ・ロッシュ邸とジャンヌレ邸」は、建築において近代に相応しい芸術を作ろうとする「ピュリスム」の運動を初めて表現した作品です。緑豊かな袋小路に建てられた2棟続きの邸宅は、ひとつの建築作品として設計されました。「ラ・ロッシュ邸」は、裕福な独身の美術収集家であり、スイスの銀行家でもあったラウル・ラ・ロッシュのために設計されました。独身者の住居であると同時に、近代絵画コレクションを展示するギャラリーとしての役割も担っていました。一方、「ジャンヌレ邸」は、ル・コルビュジエの兄であるアルベール・ジャンヌレ夫婦のために設計されました。3人の子どもを持つ家族のための住宅として、多くの部屋と生活に必要な設備が備えられています。
マルセイユのユニテ・ダビタシオン
Unité d’Habitation in Marseille
1945年、フランスの復興・都市計画大臣ラウル・ドートリーは、建築家ル・コルビュジエに、第二次世界大戦で壊滅的な被害を受けたフランス南部マルセイユにおける大規模集合住宅「ユニテ・ダビタシオン」の建設を依頼しました。ル・コルビュジエは、生涯で5つのユニテ・ダビタシオンを設計しています。なかでもマルセイユのユニテ・ダビタシオンは最初の作品であり、1947年から1952年にかけて建設されました。この集合住宅は「垂直の庭園都市」という考えのもとに計画されました。「ピロティ」とよばれる柱の上に持ち上げられた高床式の建物は、長さ135m、幅24m、高さ56mの直方体の形をしています。18階建ての建物には、約1,500~1,700人の住民が暮らし、23種類のタイプに分かれた330戸の住居が設けられています。また、7階と8階にはスーパーや郵便局、ホテル、レストランなどがあり、さらに屋上テラスには幼稚園やスポーツ施設が設けられるなど、都市の機能も備えているのです。
ノートル・ダム・デュ・オ礼拝堂(ロンシャンの礼拝堂)
Chapelle Notre-Dame-du-Haut
フランス北東部ヴォージュ山脈の南、ロンシャンに位置するノートル・ダム・デュ・オの丘は、11世紀以前の歴史はよく分かっていませんが、その地形から古代には戦略上重要な場所であった可能性があり、ローマ軍の駐屯地があったとも考えられています。カトリック修道会であるドミニコ会の巡礼地として6世紀末には礼拝所が設けられ、9世紀には毎年9月8日に聖母マリアの誕生祭を祝い、祈りをささげる巡礼者たちが訪れていたようです。残念ながら、当時の礼拝堂の姿を伝える資料は残っていません。20世紀に入ると、8月15日の聖母被昇天を祝う巡礼が行われるようになりました。第二次世界大戦中、ロンシャンは爆撃を受け、ノートル・ダム・デュ・オの丘の礼拝堂は破壊され、ドイツ軍の軍用無線局や観測所が置かれました。戦後、礼拝堂再建の設計が建築家ル・コルビュジエに依頼されました。彼は当初、教会のために働くことを拒否していましたが、1950年にロンシャンを訪れ、そこで目にした風景に心を奪われ、この依頼を受けることを決意したのです。1955年にル・コルビュジエによって礼拝堂が完成し、その後1970年代にジャン・ブルーヴェが鐘楼を、2011年にレンゾ・ピアノが聖クララ修道院と案内所を設計しました。この丘全体が、歴史的、芸術的、精神的価値を併せ持つ場所となったのです。
サヴォワ邸と庭師小屋
Villa Savoye et loge du jardinier
1928年、ピエール・サヴォワとウジェニー・サヴォワ夫妻は、パリ郊外のポワシーに週末を過ごすための別荘を建てることを決めました。彼らは、当時すでに前衛的な作品で知られていた建築家ル・コルビュジエに別荘の建築を依頼しました。その依頼はサヴォワ夫人からル・コルビュジエに宛てた手紙によって行われ、そこには温水設備、電気やガスの設備、照明の雰囲気や床材の指定など細かな要望が具体的に記されていました。この建築には、ル・コルビュジエの従兄弟であるピエール・ジャンヌレも協力しました。当時のポワシーはのどかな田園地帯で、別荘の敷地はセーヌ川を望む木々に囲まれた広大な草地でした。ル・コルビュジエはこの自然環境をできるだけ損なわないように、「家は草地の上に、何も乱すことなく置かれた物体のように存在するべきだ」と考え建築に取り組んだのです。
チャンディガールのキャピトル・コンプレックス
Complexe du Capitole de Chandigarh
1952年にインドのパンジャーブ州チャンディガールで始まった都市計画は、「チャンディガールのキャピトル・コンプレックス」として、建築家ル・コルビュジエによる最も壮大な近代建築のひとつとして知られています。1947年にインドがイギリスから独立した際、パンジャーブ州は東西に分割され、東側はインド領、西側はパキスタン領になりました。当時、州都であったラホールがパキスタン側に属することになったため、新たな州都がチャンディガールに建設されることになったのです。この都市計画は、独立を果たしたインドが自由と近代化へ向かう姿を象徴しており、民主主義を支える立法・行政・司法の3つの建物と、ル・コルビュジエの思想を表現する4つのモニュメントで構成されています。
国立西洋美術館
The National Museum of Western Art
国立西洋美術館は東京の上野恩賜公園内にあり、実業家松方幸次郎が収集した美術品コレクション(松方コレクション)を基礎に、西洋美術作品を収蔵・展示するために建設されました。第二次世界大戦末期、松方コレクションはフランス政府に接収されていましたが、1953年に日本へ寄贈返還されることとなります。その際、フランス政府は返還の条件として、新たな美術館を建設することを求めました。これに応えるため、フランスの建築家ル・コルビュジエの基本設計をもとに、彼の弟子である前川國男、坂倉準三、吉阪隆正によって日本で実施設計が行われました。1959年に完成した国立西洋美術館は、近代建築の巨匠ル・コルビュジエによる日本唯一の作品であり、その後の日本現代建築にも大きな影響を与えたのです。
リンクシュトラーセ
Ringstrasse
ウィーン国立歌劇場
Wiener Staatsoper
ウィーン国立歌劇場は、1869年にハプスブルク帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の時代に開場した、世界屈指のオペラハウスです。ネオ・ルネサンス様式で建設され、リング通りを代表する建築のひとつとして知られています。しかし、華やかな歴史だけではなく、第二次世界大戦中のナチス政権下では芸術活動への統制が強まり、多くの芸術家が厳しい状況に置かれました。1944年には戦争の影響で劇場も閉鎖され、1945年の空襲では舞台や客席を含む建物の大部分が焼失します。長年使用されてきた舞台装置や大量の衣装も失われました。その後、約10年に及ぶ修復を経て1955年に再開場します。戦争を乗り越え、“ウィーン文化復興の象徴”として再び人々を迎えています。
ベルヴェデーレ宮殿
Belvedere Palace / Schloss Belvedere
ショッテン修道院
Schottenstift
聖シュテファン大聖堂
St. Stephen's Cathedral / Domkirche St. Stephan
ハーン・ハリーリ
Khan El-Khalili
アズハル・モスク
Al-Azhar Mosque
972年、ファーティマ朝時代に建設されたモスクです。当初は質素なデザインで、中庭と列柱を多用した当時の典型的なモスクでしたが、その後の統治者により拡張工事が行われ、現在の規模となりました。カイロは、ファーティマ朝によってイスラム勢力の政治・経済・宗教の中心地へと発展していき、アズハル・モスクもイスラム神学やイスラム法研究の拠点となりました。1171年にファーティマ朝がアイユーブ朝によって打倒されると、金曜モスクとしての地位を失いましたが、マムルーク朝支配下の1266年に、再びモスクでの説教が復活され、規模も拡大されました。その後のオスマン帝国の時代にも、大規模な拡張が行われ、各時代の様式が組み合わされ混在するという、カイロの豊かなイスラムの歴史を反映したモスクです。各ミナレットが少し不揃いなのも、各時代の寄進者によりバラバラに建てられてきたことが理由です。
スルタン・ハサン・モスクとマドラサ
Mosque and Madrasa of Sultan Hasan
カイロの「イスラム地区」と呼ばれる旧市街で、サラディンの城塞(シダデル)の手前にある巨大な建造物です。14世紀にマムルーク朝のスルタンであったナースィル・ハサンが建設し、1363年に完成しました。その巨大さは、高さ55mのドームや、カイロで最大のミナレット(高さ80m)を見ればよくわかります。一説には、建材にギザのピラミッドの表面を覆っていた化粧石板が使われたと言われています。また、その規模だけでなく、繊細な内部装飾や黄金で飾られたミフラーブなど、イスラム芸術の粋を集めた美しさで見どころ満載です。しかし、この建物の完成の直前にスルタン・ハサンは暗殺されてしまい、彼はこの壮麗な建物の完成を見ることはできませんでした。彼の棺もここに納められています。
イブン・トゥールーン・モスク
Ahmad Ibn Tulun Mosque
アッバース朝よりエジプト総督に任じられたアフマド・イブン・トゥールーンは、軍隊を率いてエジプト入りした後、単に総督としての地位に飽き足らずに、一種の独立政権(トゥールーン朝)を確立しました。そして、それまでのフスタートの町が人口の増加で手狭になってきたのを機会に、その北東に新たにアル・カターイーの町を建設し、行政の首都としました。879年、アル・カターイーの主要な集会モスクとして建設されたのが、「イブン・トゥールーンのモスク」です。モスク本体は123m×140mの規模、中庭は90㎡の正方形で、四方を列柱アーチ式の回廊が囲んでいます。当時としては先端の建築技術で建設されたようですが、様式としては、中庭を囲む回廊や外階段のついたミナレットなど、メディナの「預言者のモスク」以来の古典的建築様式を踏襲しており、イブン・トゥールーンが若い頃滞在したアッバース朝の首都サーマッラーの大モスクの影響も色濃く現れています。
アムル・イブン・アル・アース・モスク
‘Amr ibn al-‘As Mosque