1~30件を表示中(全162件中)
イパパンティ修道院
Monastery of the Presentation of Jesus Christ (Ypapanti)
ルサヌー修道院
Monastery of Roussanou
聖ニコラウス・アナパフサス修道院
Monastery of Saint Nikolaos Anapafsas
聖ニコラウス・アナパフサス修道院は、14世紀末に創建されましたが、現在の聖堂は16世紀に再建されたものです。メテオラの中では比較的低い奇岩の上にひっそりと立っており、この地の静寂さにちなみ「アナパフサス(静けさをもたらすもの)」と、尊称を込めて呼ばれました。この修道院の特筆すべき点が、16世紀のクレタ島出身の画家・テオファネスによるフレスコ画が数多く残されている点でしょう。テオファネスはポスト・ビザンツ芸術の先駆者であり、この修道院では「磔にされたキリスト」や「楽園で動物たちに名前をつけるアダム」などのフレスコ画を残しています。カストラキ村からメテオラへと向かう道中で、最初に訪れることのできる修道院でもあります。
アギオス・ステファノス修道院
Monastery of Saint Stephen (Agios Stefanos)
アギア・トリアダ修道院
Monastery of the Holy Trinity (Agia Triada)
ギリシャ語で「聖三位一体」を意味するアギア・トリアダ修道院は、標高約565mの奇岩の上に立ちます。メテオラで最も古い修道院のひとつで、1438年に修道士ドゥメティオスによって建造されたと考えられていますが、1362年にはすでに修道院として存在していたという記述もあります。修道院の主聖堂(カトリコン)は1475~76年にかけて建てられました。聖堂にはイコノスタシスやフレスコ画は17~18世紀に描かれたものです。また、17世紀に建設された洗礼者ヨハネに捧げる円形堂形式の礼拝堂もあります。他にも修道院はいくつかありますが、四方が断崖絶壁で囲まれているためか、絵葉書などにもよく使用される修道院であり、メテオラで最も絵になる修道院とも言われています。
ヴァルラーム修道院
Monastery of Varlaam
メガロ・メテオロン修道院
Monastery of the Transfiguration of the Savior (Great Meteoron)
プルーホニツキー公園
Průhonice Park / Průhonický park
ストラホフ修道院
Strahov Monastery / Strahovský klášter
1143年、ボヘミア公ウラディスラフ2世とオロモウツのジンドリフ・ズディーク司教によって、プレモントレ会の男性修道院が設立されました。これが「ストラホフ修道院」で、ここで生活する修道士たちは、その衣服から「白き修道士」と呼ばれ、チェコの精神的・文化的発展に不可欠な存在となりました。ストラホフ修道院は、創設当時「シオン」と呼ばれていましたが、後に現在の地名であるストラホフとして知られるようになります。また、1627年には、修道院の大聖堂にプレモントレ会の創始者である聖ノルベルトの遺骨が移されています。このように長い歴史を持つストラホフ修道院ですが、近現代には大きな試練を迎えます。1948年から1989年までの約41年間、チェコは共産党政権の時代に入ると、宗教への弾圧が強まります。1950年、修道院は閉鎖され、多くの修道士たちは投獄されました。共産党政権崩壊後の1990年、修道院は再びプレモントレ会に返還され現在に至っています。
ティーンの聖母聖堂
Church of the Mother of God before Týn / Kostel Matky Boží před Týnem
高さ約80mの2本の尖塔を持つ「ティーンの聖母聖堂」は、ヴルタヴァ川(モルダウ川)の右岸、チェコのプラハ旧市街の東側に位置するゴシック様式の教会です。ティーンとは、かつて周囲を柵で囲んでいた敷地「ティンスキー・ドヴール」に由来します。13世紀半ば、ここは外国人商人たちが宿泊し、関税を支払うための場所として使われていたことから、この呼び名が定着しました。この場所の最も古い記録は、1135年の文献で、「聖母マリア教会」と「病院」があったことが記録されています。13世紀半ばになると、名前の由来にもなった教会の隣にある敷地が、外国人商人のための施設として使われ始めました。13世紀末から14世紀初頭にかけて、教会は地域の中心である教区教会となり、信者の増加に対応するため大規模な改築と拡張工事が行われました。これにより、3つの通路(身廊)や地下室、西側の塔を持つ新しい建物となり、1310年には塔に鐘が吊るされました。この時代の建物で現存しているのは「聖ニコラス礼拝堂」のみです。
国民劇場(プラハ)
National Theatre / Národní Divadlo
「国民劇場」は、チェコ国民によって建設資金が集められた、民族のアイデンティティと独立の意志を象徴する建物です。1844年、国民の手によってプラハに壮麗な劇場を建設するという構想が提起されました。実際に募金活動が開始されたのは1851年のことです。その1年後、最初の募金により小さな製塩所跡地を購入します。これにより、プラハ城を望むヴルタヴァ川のほとりで劇場建設が始まったのです。しかし、その狭い敷地と台形の形状は、建築家たちにとって大きな課題となりました。その後、ボヘミアがオーストリアの専制支配を受けた時代には、国民劇場建設が中断され、当初の構想からより簡素な建物への設計変更が行われました。1862年、建築家イグナーツ・ウルマンの設計によって、敷地の南側に建てられた「仮劇場」が開場します。この仮劇場の建物は、後に現在の国民劇場の一部となり、その外壁は劇場の後方に今も見ることができます。
聖ヴィート大聖堂
St. Vitus Cathedral / Katedrála svatého Víta
ヴィエリチカ製塩所博物館
Cracow Saltworks Museum in Wieliczka / Muzeum Żup Krakowskich Wieliczka
ボフニャ岩塩坑
Bochnia Salt Mine / Kopalnia Soli Bochnia
ヴィエリチカ岩塩坑
Wieliczka Salt Mine / Kopalnia Soli Wieliczka
ポーランドの古都クラクフの南東15㎞に位置するヴィエリチカ岩塩坑は、13世紀頃から本格的な採掘が始まった岩塩採掘所です。2,000万年前は海だったこの場所は、地殻変動により長い年月をかけて広大な岩塩層へと変化しました。新石器時代は、ここから汲み上げられた塩水から塩が得られており、ヴィエリチカの近くにあるバリチ村から、中央ヨーロッパで最も古い製塩道具が発見されています。その後何世紀もの間、製塩技術は代々受け継がれ、製塩に携わる人々は専門的な職業集団を形成していきました。得られた塩は肉や魚の保存料として、さらに周辺地域に住む人々との交易の決済手段としても使われていました。11~12世紀頃、塩水の湧き出る量が減少したため、井戸を掘って塩水の捜索が開始されました。13世紀に入り、掘り進めていた井戸の1つから最初の岩塩の塊が偶然発見され、これにより採掘によって塩を得ることが可能になったのです。地下へと続く最初の坑道は、13世紀の後半から開削が始められています。12世紀末にポーランド王カジミエシュ2世がこの地に城塞を築き、14世紀に「大王」と呼ばれたカジミエシュ3世がヴィエリチカの採掘権を独占しました。岩塩の収益は当時のポーランド王国の財源の3分の1にもなり、その一部はポーランド最初の大学であるクラクフ大学設置に役立てられたとされています。1368年には製塩所条例が発布され、以後数十年にわたる岩塩坑の安定した発展につながりました。しかしながら、中世の岩塩採掘はまだ季節労働で、採掘は農作業が行われない月だけ行われていたため、15世紀の終わりまで、岩塩坑には4つの採掘坑道と1つの地下層しかありませんでした。その一方で、ヴィエリチカは観光地としても有名になっていました。記録に残る当時の観光客の一人は、ニコラウス・コペルニクスです。彼は1493年に岩塩坑を訪れており、この出来事を記念して、その名前が付けられた部屋には彼の塩の像が設置されています。
デリンクユの地下都市
Subterranean city of Derinkuyu / Derinkuyu Yeraltı Şehri
カイマクルの地下都市
Subterranean city of Kaymakli / Kaymaklı Yeraltı Şehri
ギョレメ国立公園
Göreme National Park / Göreme Tarihî Milli Parkı
山海関
Shanhaiguan
「山海関」は河北省秦皇島市に位置し、中国本土を北方遊牧民の侵入から守る「万里の長城」の最も東にある城塞です。明代(1368~1644年)に築かれた万里の長城の東の起点であり、その戦略的な立地、強固な防衛機能、壮大な規模から「天下第一関」としても知られています。「山海関」という名前は、北の燕山山脈と南の渤海との間に築かれたという、特徴的な地理的要因に由来しています。かつては城塞の四方の門に「甕城(おうじょう)」とよばれる半円形の出城があり、関所の周囲に二重の防御線を作り鉄壁の守りを誇っていました。現在は、東門の甕城のみを見ることができます。ここには、「鎮東楼」をはじめとする5つの防衛拠点が配置され、それらは国境を守る「五虎」と称されていました。
嘉峪関
Jiayuguan
八達嶺
Badaling
万里の長城の総延長は2万kmを超え、東は渤海に面する河北省・山海関から、西はゴビ砂漠の甘粛省・嘉峪関までの広大な範囲におよびます。その一部である「八達嶺」は、北京の北西約60㎞に位置する延慶区の、険しい山々が連なる軍都山にあります。明代の書物『長安客話』には、「道がここから分かれ、四通八達(あらゆる方向に通じている)しているため八達嶺と名付けられた。この山々の中で最も高い場所である」と名前の由来が記されています。万里の長城には数多くの有名な関所や要衝があり、なかでも八達嶺は「九塞」に数えられる9つの重要な城塞の一つである「居庸関(きょようかん)」を守る拠点になっています。ここが軍事上の要衝となった歴史は春秋戦国時代(紀元前770~前221年)に遡ることができ、紀元前1世紀に編纂された『史記』にもその記録が残されています。現在も、当時の崩れた壁や見張り台の遺構を見ることができます。
斎場御嶽
Sêfa-utaki
斎場御嶽(せーふぁうたき)は、琉球開闢(かいびゃく)伝説にも登場する琉球王国最高の聖地です。最高位の神職である聞得大君(きこえおおきみ)との関係が深く、格式高い御嶽として知られており、中央集権的な王権を信仰面と精神面から支える国家的な祭祀の場でもありました。琉球王国の正史である『中山世鑑(ちゅうざんせいかん)』には、琉球の開闢神アマミクが創設した御嶽のひとつとして記されています。御嶽の中にはイビと呼ばれる神域が6カ所あります。琉球国王はこれらの場所を参拝しながら、国家の繁栄や安寧、五穀豊穣、航海安全などを神に祈願していました。琉球王国時代、国家的な催事の際には「神の島」と呼ばれる久高島から聖なる白砂を特別に運び入れ、御嶽に敷きつめていました。こうした祭事の中でも最大の行事が、聞得大君の就任式である「御新下り(おあらうり)」でした。
識名園
Shikinaen
識名園は、1799年に造営された琉球王家最大の別邸の庭です。当時は国王一家の保養だけでなく、中国皇帝の使者である冊封使を接待する場としても使用されていました。識名園の造園形式は、池のまわりを歩きながら景色の移り変わりを楽しむ「回遊式庭園(かいゆうしきていえん)」が採用されています。回遊式庭園は、日本の近世に大名たちが競って造るようになった形式ですが、識名園には琉球独特の工夫が随所に見られるのが特徴です。「心」の字をくずした池(心字池)を中心に、池に浮かぶ島には中国風あずまやの六角堂や大小のアーチ橋が配され、池の周囲には琉球石灰岩が積みまわされています。1941年(昭和16年)12月13日には国の「名勝」に指定されましたが、1945年(昭和20年)4月の第二次世界大戦の沖縄戦によって破壊されてしまいました。その後、1975年から1996年(昭和50年~平成8年)にかけて、総事業費7億8千万円を投じた復元整備が行われます。その結果、1976年(昭和51年)1月30日に再び国の「名勝」となり、2000年(平成12年)3月30日には「特別名勝」に指定されました。敷地の指定面積は4万1,997㎡に及び、そのうち御殿をはじめとするすべての建物の面積は、合計で643㎡(約195坪)となっています。
玉陵
Tamaudun
玉陵(たまうどぅん)は1501年、尚真王(しょうしんおう)が父である尚円王(しょうえんおう)の遺骨を改葬するために築いたもので、その後、第二尚氏王統の陵墓となりました。墓室は自然の岩壁を利用した平瓦葺きの屋根を持つ切妻造りで、琉球特有の「破風墓(はふばか)」と呼ばれる形式です。墓室や前面の墓庭を囲む石垣、そして墓庭を内庭と外庭に区分けする石垣は、それぞれ珊瑚質石灰岩の切石を積み上げて築かれています。墓室は中室、東室、西室の三つに分かれており。それぞれ異なる役割を持っています。中室は洗骨(せんこつ)前の遺骸を安置する部屋、東室は洗骨後の王と王妃を納骨する部屋、そして西室は墓前の庭にある玉陵碑に記された限られた王族を納骨する部屋です。墓域は2,442㎡に及び、沖縄戦で大きな被害を受けましたが、1974年から3年余りの歳月をかけて修復工事が行われました。その結果、往時の姿を取り戻して今日に至っています。玉陵は2018年12月25日に正式に国宝へ指定され、沖縄県内の建造物としては初の国宝指定となりました。
園比屋武御嶽石門
Sonohyan-utaki Ishimon
1519年に造られた石造りの門であり、門の背後に広がる樹林地は園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)と呼ばれる聖域になっています。ここはかつて、国王が城外へ外出する際に、道中の安全を祈願した格式高い礼拝所です。一見すると人が通り抜けるための門のような形をしていますが、実際には人が通る場所ではなく、神へ祈りを捧げるための「礼拝の門」というべき宗教的な施設です。そのため、人々は石門そのものではなく、その奥にある御嶽(聖域)に向かって祈りを捧げます。この石門は琉球を代表する石造建造物であり、扉を除いたすべての部分が石でできています。特に、最上部にある棟石(むねいし)の部分に施された細やかな彫刻は実に見事です。1933年には国宝に指定されましたが、沖縄戦によって一部が破壊されてしまいました。その後、1957年に復元され、現在は国の重要文化財に指定されています。
首里城跡
Shuri-jô site
中城城跡
Nakagusuku-jô site
勝連城跡
Katsuren-jô site
座喜味城跡
Zakimi-jô site
座喜味(ざきみ)城は、1420年頃に有力な按司である護佐丸によって築かれました。護佐丸は当初、座喜味の北東約4㎞にある山田グスク(現在の恩納村)を居城としていました。しかし、今帰仁(なきじん)城の攻略に参戦した頃、敵からの防御や長浜港を控えた地の利を考慮し、高台にある座喜味の地に築城したとされています。また、国王の居城である首里城と迅速な連絡を図るという国防上の理由から、首里城がよく見渡せる丘の上が選ばれました。二つの廓を囲む城壁には、地元で採れる琉球石灰岩が使われています。その積み方は、「野面積み」や「布積み」が進化したとされる「あいかた積み」という手法が多く用いられているのが特徴です。さらに、中央にくさび石をはめて2つの石をかみ合わせることで造られたアーチ石門も大きな見どころですが、このくさび石を用いる方法は他のグスクには見られません。これらの高度な特徴からは、護佐丸が極めて優れた築城技術を持っていたことがうかがえます。
今帰仁城跡
Nakijin-jô site
今帰仁城跡(なきじんじょうあと)は、沖縄本島北部、本部(もとぶ)半島にあるグスク(城)です。沖縄県の県庁所在地である那覇市からは、車で1時間30分ほどの距離に位置しています。ここはかつて、三山時代に北山(ほくざん)を治めた国王の居城だった場所です。敷地内からは大量の中国陶磁器類が発掘されており、当時の北山王が盛んに海外交易を行なっていたことが分かっています。東側は川、西側は谷、そして南側は急斜面の崖に囲まれた独立丘の上という、防衛上たいへん優れた場所に築かれており、まさにやんばるの地を守る要の城でした。城壁の外周は1,500mに及び、その平面プランは自然の地形に沿って、美しい曲線を描くように造られています。1416年に中山(ちゅうざん)軍に滅ぼされた後は、この地を管理する監守(かんしゅ)が派遣されるようになりました。そして1665年に最後の監守が引き上げてからは、祭りを取り仕切る神聖な場所として大切に残されてきました。