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構成資産・みどころ一覧

コロニア・グエル教会地下礼拝堂

Cripta de la Colònia Güell
コロニア・グエル教会地下礼拝堂
コロニア・グエル教会地下礼拝堂は、バルセロナ市の郊外サンタ・コロマ・ダ・サルバリョにあります。繊維業で成功を収めていたエウゼビ・グエルは、自身の工場をこの場所に移転し、それに伴って工場労働者のための住居や学校、商店、劇場、教会など、街を丸ごとつくる計画を立てました。フランセスク・ベレンゲーやジョアン・ルビオなど、カタルーニャ出身の建築家が街の設計に参加し、その中で教会を任されたのがアントニ・ガウディでした。ガウディは、1898年の設計依頼から、教会の模型を作るのに10年を費やし、実際の建設工事に着手したのは1908年でした。しかし着工から6年後に依頼主のグエルが亡くなると、その跡を継いだ息子たちは教会の建設には消極的でした。さらに、ガウディ自身もサグラダ・ファミリアの建設に専念し始めていたため、完成したのは地下礼拝堂にとどまり、教会全体は未完成に終わってしまいました。
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グエル邸

Palau Güell
グエル邸
グエル邸は、1886年から1890年にかけて、バルセロナ中心部に実業家エウゼビ・グエル一家の住居と当時の富裕層が集まる社交空間として、建築家アントニ・ガウディによって設計されました。1918年のグエルの死後、邸宅は未亡人や相続人たちに受け継がれたのち、スペイン内戦中は警察署として使われた時期もありました。1944年アメリカの大富豪から邸宅の石材を一つずつ解体して自国に移築したいという申し出がありましたが、1945年グエルの末娘であるメルセ・イ・ロペスは、終身年金と建物を保存して文化的目的で使用する条件で邸宅をバルセロナ州議会に寄贈しました。
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グエル公園

Parc Güell
グエル公園
かつて禿山を意味するムンタニャ・ペラーダとよばれた場所にあるグエル公園は、当初は公園としてではなく、富裕な人々への住宅地を建設する民間プロジェクトとして整備されました。実業家エウゼビ・グエルはイギリスのような公園住宅の設計を建築家アントニ・ガウディに依頼し、地形に合わせて道路、高架橋、階段などが整備され、約60区画の住宅地が設けられました。1900年に工事が開始され、ガウディは敷地内に生えていたオリーブなどの植物をそのまま活かし、住宅には海を臨む眺望を遮らない高さと周囲への日当たりにも配慮するなど、厳しい建築条件を定めました。住宅区画を最初に購入したのは、グエルの友人で弁護士のマルティ・トリアス・イ・ドメネクでした。ガウディ自身も、1906年に父親と姪と一緒に暮らすためにここへ移住しています。しかしバルセロナ中心部から遠く上り坂がある住宅の購入者は集まらず、1914年に工事は中止され、実際に建設された住宅は60戸のうち2戸だけでした。グエルの死後、この場所はバルセロナ市に売却され、1926年に市立公園として開園しました。公園内にあるガウディの家は、1963年にガウディ博物館として一般公開されています。
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カサ・ミラ

Casa Milà "La Pedrera"
カサ・ミラ
カサ・ミラは建築家アントニ・ガウディが彼独自の手法を確立した円熟期にあたる1906年から1912年にかけて建設され、ガウディにとって最後の個人注文主による建築物となりました。バルセロナのグラシアス通りに、オーナーのペレ・ミラとロサリオ・セギモンの住居を1階に、2階から5階には王侯、外交官、起業家、俳優、芸術家、政治家、ジャーナリストなど多彩な人たちが住む賃貸用共同住宅として完成しました。しかし当初、カサ・ミラの革新性は理解されず、新聞にはカタルーニャ語で「ラ・ペドレーラ(石切り場)」と酷評され、その装飾が気に入らなかったロサリオ・セギモンは、ガウディの死後、自分の階の一部を取り壊すように命じたこともありました。スペイン内戦中に共和国政府に押収されて各部門の本部が置かれた時代もありましたが、現在は賃貸住宅やオフィス、店舗としての入居も行われ、博物館となっている最上階と屋上や住居部分の一部は見学することができます。
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カサ・ヴィセンス

Casa Vicens
カサ・ヴィセンス
カサ・ヴィセンスは、バルセロナの郊外グラシア地区にあります。1883年から1888年にかけて、通貨取引業者で株式仲買人のマヌエル・ヴィセンスと妻ドロルス・ヒラルトの夏の別荘として、若きガウディによって設計されました。この場所は当時グラシア村とよばれた農村でしたが、急速に都市化するバルセロナの労働者や中流階級の人々が移り住む地区として発展しました。30歳の若いガウディにとって初めての住宅建築であり、彼の建築家としての出発点ともいえる場所です。
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カサ・バトリョ

Casa Batlló
カサ・バトリョ
カサ・バトリョが立つバルセロナのグラシア通り43番地は、スペイン語で「地区」と「リンゴ」が同じ綴りであることから、「不和のリンゴ」と皮肉られる場所でした。当時成長しつつあった富裕層が競い合うように著名な建築家に設計を依頼し、ガウディのライバルとされたリュイス・ドメネク・モンタネールによるカサ・リュオ・モレラや、ジョセップ・プッチ・イ・カダファルクによるカサ・アマトレなど個性豊かな建物が並んでいます。もとの建物は1877年、建築家エミリ・サラ・コルテスによって建てられました。1903年、繊維業者のジョセップ・バトリョ・イ・カサノバスがこの建物を購入し、建築家アントニ・ガウディに色使いや外観も含めた大胆な改築を依頼しました。周囲の建物を意識しながらも独創的に設計されたカサ・バトリョは、「骨の家」「仮面の家」「ドラゴンの家」など、さまざまな愛称で親しまれる建物となりました。
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サグラダ・ファミリア贖罪聖堂

Temple Expiatori de la Sagrada Família
サグラダ・ファミリア贖罪聖堂
サグラダ・ファミリア(聖家族贖罪教会)は、建築家アントニ・ガウディが世界的に知られるきっかけとなった代表作であり、バルセロナを象徴する建物です。建設は1882年に始まり、当初は建築家フランシスコ・デ・パウラ・ヴィラールが、ネオゴシック様式を取り入れて後陣の地下礼拝堂から建設工事を進めていました。しかし、資金面での意見対立からヴィラールが解任されると、その後をガウディが設計と建設を引き継ぎました。当時、建築家として頭角をあらわしはじめていたガウディは、地下礼拝堂を完成させた後、教会全体の設計を従来のネオゴシック様式から新しく革新的で壮大なものへと大幅に変更しました。
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アヤ・ソフィア(ハギア・ソフィア)

Ayasofya (Hagia Sophia)
アヤ・ソフィア(ハギア・ソフィア)
スルタンアフメト地区に立つアヤ・ソフィアは、ビザンツ建築の最高傑作と評され、オスマン建築に多大な影響を与えた建造物です。建築技術の高さ、壮麗なモザイク装飾など建築・芸術の面だけでなく、キリスト教とイスラム教の宗教的な面においても、きわめて重要な意味をもっています。元来はギリシャ語で「聖なる叡智」を意味する「ハギア・ソフィア」と呼ばれていました。歴史的には、キリスト教を公認したローマ皇帝コンスタンティヌス1世の息子であるコンスタンティウス2世が360年に建てた礼拝堂を前身としています。この礼拝堂は404年に焼失し、415年に再建されましたが、532年にユスティニアヌス1世に対して市民が蜂起したニカの乱によって再び焼失しました。ユスティニアヌス1世は動乱鎮圧後、すぐに再建を開始し、537年にアヤ・ソフィアを完成させました。1204~1261年の第4回十字軍に伴うラテン帝国成立期には、一時カトリック教会として使用された時期もありますが、約1,000年にわたりギリシャ正教会の総本山として信仰を集めました。
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スルタンアフメト・モスク

Sultan Ahmet Camii
スルタンアフメト・モスク
イスタンブルの歴史地区として登録されている4つのエリアのうち、もっとも海側に位置するのが、スルタンアフメト・モスク地区です。その中心となるスルタンアフメト・モスクは、1609~1616年(1617年とも)に建設されました。建設を命じたのは、当時19歳だったオスマン帝国第14代スルタンのアフメト1世です。一説には、他のスルタンのように軍事的な勝利を収めることのできなかったアフメト1世が、自身の権威を誇示するために建設を始めたとも言われています。流れるように連なる大小のドームと、6つのミナレットを備えるこのモスクは、イスタンブルのスカイラインでひときわ大きな存在感を放っていますが、最も特筆すべきは壮麗な内部空間です。内部は青いタイルで装飾されており、その美しさから「ブルー・モスク」とも呼ばれています。
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スレイマニエ・モスク

Süleymaniye Camii
スレイマニエ・モスク
スレイマニエ・モスクは、オスマン帝国の最盛期を築いたスレイマン1世(大帝)の命により、1551~1558年(1557年とも)にかけて建設されました。設計を担当したのは、帝国史上最も高名な建築家ミマール・スィナンです。スレイマン1世はモスクの建設に強い情熱を注ぎ、自ら石材を運ぶなどの作業に従事したと言われています。約7年の歳月をかけて完成した壮大なモスクは、金閣湾を一望する丘の上に佇み、現在もイスタンブルの街でひときわ存在感を放っています。
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ゼイレク・モスク

Molla Zeyrek Camii
ゼイレク・モスク
ゼイレク・モスクは、ビザンツ皇帝のヨハネス2世コムネノス(在位:1118~1143年)と、その最初の皇后であるエイレーネーによって、1118~1136年にかけて建設されたパントクラトール(全能者ハリストス)修道院の一部を前身としています。南側のパントクラトール教会と、北側の生神女教会、両者を結ぶ礼拝堂で構成されていました。修道院には図書館や病院が含まれ、礼拝堂にはヨハネス2世コムネノスをはじめとするコムネノス朝やパレオロゴス朝の皇帝が埋葬されるなど、宗教儀礼、医療、教育の場を兼ね備えていたようです。しかし、1204~1261年のラテン帝国期には、パントクラトール修道院が所蔵していた多くの聖遺物や聖具がヴェネツィアへと持ち去られ、建物も大きな損傷を受けました。
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テオドシウスの城壁

Theodosian Walls
テオドシウスの城壁
北の金閣湾と南のマルマラ海を結ぶように、全長約6kmにわたって延びる「テオドシウスの城壁」は、ローマ皇帝テオドシウス2世の治世下の413年に築かれた城壁です。イスタンブル旧市街は三方を海に面していますが、街の西側は陸続きのため攻め入れられる可能性がありました。この弱点を克服するために建設されたのが城壁で、古くは4世紀のコンスタンティヌス1世の時代に遡り、「テオドシウスの城壁」はさらにその西側にあります。テオドシウス2世の父アルカディウスの治世下にあたる404年頃から始まったようです。413年に完成しますが、447年の大地震で深刻な被害を受けました。ちょうどそのころ、アッティラ率いるフン族がイスタンブルまで迫っており、わずか60日で城壁の修復作業が行われたと伝わっています。
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トプカプ宮殿

Topkapı Palace
トプカプ宮殿
コンスタンティノープル征服からわずか6年後の1459年、メフメト2世によってマルマラ海とボスフォラス海峡を臨む岬に建設が開始されたのがトプカプ宮殿です。1856年に宮廷がドルマバフチェ宮殿に移されるまで、トプカプ宮殿は歴代スルタンの宮廷生活と政務の場となりました。「トプカプ」の名は18世紀以降、宮殿近くにあった「大砲の門」にちなむもので、それまでは「新宮殿」と呼ばれていました。宮殿の面積はおよそ70万㎡あり、外廷、内廷、後宮(ハーレム)の3つに大きく分かれています。アヤ・ソフィアの南東にある「帝王門」と呼ばれる正門から入ることができます。
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地下宮殿

Basilica Cistern
地下宮殿
スルタンアフメト地区アヤ・ソフィアのすぐ近くに、ビザンツ帝国時代の貯水池としては現存最大規模を誇る地下貯水池があります。ビザンツ皇帝ユスティニアヌス1世(在位:527~567年)が築いたもので、長さ約140 m、幅約70mの長方形の空間に、多数の柱がそびえる様子が宮殿のように見えることから、トルコ語では「イェレバタン・サラユ」(地下宮殿)とも呼ばれています。高さ9mの大理石の柱は合計336本、28本ずつ12列にわたり均等な間隔で立ち並んでいます。メドゥーサの頭が彫られた土台が据えられた柱や、コリント様式の柱頭をもつものなどさまざまです。この貯水池は面積1万㎡、貯水量はおよそ8万tもあり、ビザンツ帝国時代は宮殿とその周辺の建物に水を供給していたと考えられています。1950年代以降に修復工事が複数回を行われ、1987年に一般公開されるようになりました。
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ウフィツィ美術館

Galleria degli Uffizi
ウフィツィ美術館
コジモ1世は、フィレンツェのさまざまな場所に点在していた行政機関を一カ所にまとめることを目的に、ジョルジョ・ヴァザーリに行政庁舎の建設計画を依頼します。1560年に始まった建設は、13の事務所が集められ1580年に完成しました。ウフィッツィというのは、イタリア語のオフィス(ウフィッチオ)の複数形です。コジモ1世はヴェッキオ宮殿とピッティ宮殿を結ぶ回廊の建設も命じ、1565年にはフランソワ1世とジョアンナの結婚を記念してウフィッツィとピッティ宮殿を結ぶヴァザーリの回廊も建設されました。フランチェスコ1世はウフィッツィの最上階を美術品の展示スペースとし、フランチェスコ1世の後を継いだ弟のフェルディナンド1世は、コジモ1世の遺言に従い肖像画コレクションをヴェッキオ宮殿からウフィッツィに移しました。1737年にメディチ家のジャン・ガストーネ大公が後継者を残さずに亡くなると、妹のアンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチは「メディチ家の財産はフィレンツェのもの」として美術品コレクションの全てをフィレンツェ市に遺贈し、ウフィッツィ美術館として公開されています。
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ヴェッキオ宮殿

Palazzo Vecchio
ヴェッキオ宮殿
ヴェッキオ宮殿は、アルノルフォ・ディ・カンビオの設計で1298年から建設が始まりました。ローマ教皇を支持するゲルフ(教皇派)に敗れた、神聖ローマ皇帝を支持するギベリン(皇帝派)の貴族の邸宅跡に建てられたプリオーリ宮殿(政務官の宮殿)を増築する形で建設され、権力の象徴として建てられた高くそびえる塔はアルノルフォの塔とも呼ばれます。シニョーリア宮殿(領主の宮殿)と呼ばれていましたが、1540年からコジモ1世の邸宅として使用され、新たにピッティ宮殿が建設されてコジモ1世がそちらに移ってからは、ヴェッキオ宮殿(古い宮殿)と呼ばれるようになりました。
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サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂

Cattedrale di Santa Maria del Fiore
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂
フィレンツェのシンボルでもあるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の名前は、「花の聖母マリア大聖堂」という意味で、地名のフィレンツェ(英語名フローレンス)のラテン語の語源「フロレンス(花が咲いた)」と、都市の紋章に用いられているユリの花に由来しています。世界最大級の聖堂のひとつで、大聖堂の全長は153m、高さは92mもあります。1296年から、古い教会堂があった場所の上で新たな大聖堂の建設が始まりました。アルノルフォ・ディ・カンビオの設計に従いゴシック様式で建築が進められ、14世紀中ごろからフランチェスコ・タレンティによって拡張されて現在みられる大聖堂の基本形が完成しました。現在は3つの身廊を持つ三廊式バシリカと八角形のサン・ジョヴァンニ礼拝堂、ジョットの鐘楼で構成されています。
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サン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ聖堂

Basilica di San Paolo fuori le mura
サン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ聖堂
「アウレリアヌスの城壁」の外側、約2kmに位置する「城壁の外の聖パウロ聖堂」という名の聖堂で、ヴァティカン市国に属します。もともとの聖堂はコンスタンティヌス帝によって330年頃に建てられましたが、多くの巡礼者が訪れるには小さすぎたため、テオドシウス1世とウァレンティニアヌス2世、アルカディウスの3人の皇帝によって380年頃に再建されました。聖パウロが埋葬された場所に建てられており、墓は教皇の祭壇の下にあります。聖パウロは、聖ペテロと共に、ローマの大火の後のネロ帝の迫害によって殉教しました。
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カンピドーリオの丘

Campidoglio
カンピドーリオの丘
ローマの七丘のひとつであるカンピドーリオの丘には、イタリアを代表する広場のひとつであるカンピドーリオ広場があります。世界で最も美しい広場とも称されるこの広場は、16世紀前半にミケランジェロ・ブオナローティによって設計されたものです。ローマの都市再開発の一環として設計され、広場の正面の石段の延長線上に、ヴァティカン市国のサン・ピエトロ大聖堂が来るように配置が工夫されています。広場はヌオーヴォ宮殿(現在のカピトリーノ美術館)とセナトリオ宮殿(現在の市庁舎)、コンセルヴァトーリ宮殿に囲まれており、ミケランジェロがデザインした特徴的な舗装は、通貨ユーロの50セントコインのデザインにも採用されています。
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パンテオン

Pantheon
パンテオン
パンテオンはもともと、紀元前27年にアグリッパが建設した、全ての神々を祀る「万神殿」でした。80年と110年の火災で焼失してしまいましたが、128年にハドリアヌス帝によって再建されました。ファサード(建物正面)はギリシャ神殿を思わせるような八柱式の作りですが、建物はローマン・コンクリートで作られたロトンダと呼ばれる円堂の上に、ローマ建築の特徴であるドーム天井が載っています。そしてそのドーム天井の中心には、ラテン語で「目」を意味するオクルスと呼ばれる円形の窓が開いていて、そこから美しく光りが堂内に差し込みます。
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フォロ・ロマーノ

Foro Romano
フォロ・ロマーノ
「ローマ市民の広場」という名前のフォロ・ロマーノは、パラティーノの丘とカピトリーノの丘、コロッセウム、フォーリ・インペリアーリ通りに囲まれた広場で、古代ローマからローマ帝国にかけて政治や文化、宗教、経済の中心地でした。古代ローマでは都市の中心にそうした広場が作られるのが普通で、フォロ・ロマーノはローマで最初に作られた広場と考えられています。ローマ市民たちは、フォロ・ロマーノで政治家の演説を聞いたり、凱旋パレードを見たり、集会を開いたりしていました。中心を通る「聖なる道(ヴィア・サクラ)」は、パラティーノの丘とカピトリーノの丘を結ぶ道で、その周囲には多くの神殿が築かれました。またヴィア・サクラの「ティトゥスの凱旋門」から「セプティミウス・セウェルスの凱旋門」までは皇帝たちの凱旋パレードにも使われました。
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コロッセウム

Colosseum
コロッセウム
暴君として知られたローマ帝国皇帝ネロが68年に帝位を追われた後、ローマは内戦状態にありました。69年に皇帝となったウェスパシアヌスは、ローマ市民の不満のはけ口となる娯楽の場を与える意味もあり、ネロ帝の宮殿「ドムス・アウレア」の庭園跡地に新しい円形闘技場の建設を決めます。70年から始まった円形闘技場の建設は、次の皇帝ティトゥスの時代まで続き、80年に完成しました。当初は、ウェスパシアヌス帝が開いたフラウィウス朝に因んで「フラウィウス円形闘技場」と呼ばれていました。しかし、円形闘技場の近くにネロ帝の巨大なブロンズ像「コロッセオ・ディ・ネローネ(ネロの巨像)」が立っていたことから、いつからか「コロッセウム」と呼ばれるようになりました。ネロ帝は暴君として知られますが、一部の市民からは死後も根強い人気があったそうです。
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イエローストーン湖とイエローストーン川

Yellowstone Lake and Yellowstone River
イエローストーン湖とイエローストーン川
イエローストーン湖は、標高2,357mにある北米大陸最大で最高地にある淡水湖です。ウィスコンシン大学の研究によると、イエローストーン湖の水をすべて抜くと、イエローストーン国立公園の地上で見られるのと同じような間欠泉や温泉(ホット・スプリングス)、深い渓谷などが現れるそうです。イエローストーン湖には141を超える支流が流れ込んでいますが、流れ出る出口はイエローストーン川のみです。イエローストーン川は湖から出るとアッパー・フォールズとローワー・フォールズの2つの滝を通って大地を削り、深い渓谷を作り上げています。またイエローストーン川は、アメリカ合衆国本土48州の中で、ダムのない川としては最長の長さを誇ります。
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マンモス・ホット・スプリングス

Mammoth Hot Springs
マンモス・ホット・スプリングス
岩の裂け目から染み込んだ水は地中で熱せられると、数百万年前にこの一帯が海中だった頃に堆積した石灰岩の間を通って地表に流れ出ます。石灰岩の間を熱水が通る間に石灰岩(炭酸カルシウム)が溶け出して熱水と一緒に運ばれ、地表で二酸化炭素が放出されると炭酸カルシウムが堆積して、トラバーチンと呼ばれる白い石灰質の岩を作り上げます。このトラバーチンが段々と連なっているのが石灰棚です。
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オールド・フェイスフル・ガイザー

The Old Faithful Geyser
オールド・フェイスフル・ガイザー
イエローストーン国立公園には、地球上の間欠泉の3分の2に相当する300以上の間欠泉があります。間欠泉とは、一定の周期で地中から熱水や水蒸気を噴き上げる温泉のことです。湧き出る温泉(ホット・スプリングス)と同じように、大地に雨や雪として降った水が岩の間から染み込み熱せられるのですが、温泉とは異なり地表近くで岩が狭くなっているために熱が逃げず地表近くまで高温のまま熱水が上がってきます。そこで水蒸気と狭い岩の圧力によって熱水が膨張し、一気に噴き上げるのです。
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グランド・プリズマティック・スプリング

Grand Prismatic Spring
グランド・プリズマティック・スプリング
マグマ溜りの上に位置するイエローストーン国立公園では、様々な熱水現象が見られますが、そのひとつが温泉(ホット・スプリングス)です。大地に雨や雪として降った水が亀裂だらけの岩に染み込むと、マグマで熱せられた塩水とぶつかり200℃を超える過熱水になります。普通であれば蒸発してしまうのですが、上から水の重みと圧力で押さえつけられているため蒸発できません。しかし熱水は上にある重く冷たい水よりも密度が低いため、対流が生じて高温の熱水が地表に出てきます。イエローストーン国立公園にはこうした温泉が1万以上あります。
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シャイヨー宮

The Palais de Chaillot
シャイヨー宮
エッフェル塔からイエナ橋を挟んでちょうど反対側の丘の上にあるシャイヨー宮のある場所には、かつてフランス王妃カトリーヌ・ド・メディシスが建てたシャイヨー城がありましたが、フランス革命の際に大きな被害を受けました。現在のトロカデロ庭園を囲むようなU字型の宮殿となったのは、1937年のパリ万博の時です。シャイヨー宮の建物の間にある人権広場からはエッフェル塔が美しく見えることもあり、ヒトラーがパリを征服した時には広場で記念写真を撮ったり、NATO本部がシャイヨー宮に置かれたほか、世界人権宣言を採択した国連総会が開催されるなど、フランスを代表しパリを象徴する場所としても使われてきました。現在も人気の観光スポットとなっています。
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オルセー美術館

The Musée d'Orsay
オルセー美術館
オルセー美術館のある場所には19世紀に建てられたオルセー宮殿がありましたが、19世紀末の激動の時代に焼失し、そのまま放置されていました。その地を活用したのが、1900年のパリ万博です。万博を訪れる人々のための駅舎兼ホテルとして建て直されました。その駅舎が美術館として生まれ変わったのは1986年のことです。現在ではパリの新しい名所として多くの人が訪れています。ジャン・フランソワ・ミレーの「落穂ひろい」やクロード・モネの「日傘の女」、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの「自画像」、オーギュスト・ルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」などの絵画作品のほか、フランソワ・ポンポンの「白熊」など、近代の作品を中心に現代の作品もコレクションに含んでいます。
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アンヴァリッド

The Hôtel des Invalides
アンヴァリッド
アンヴァリッドは4,000人の傷痍軍人のための療養所として、1670年にルイ14世の命で建設されました。アンヴァリッドには、病院や兵舎だけでなく、ホスピスや修道院も含まれ、王のために戦い傷ついた兵士だけでなく、戦地から戻り好き勝手に放蕩生活を送る兵士を収容する意味もありました。1706年に完成したアンヴァリッドを象徴する黄金のドーム(礼拝堂)は、ルイ9世の棺を安置するために築かれました。地下墓所にはナポレオン1世の棺も置かれています。またアンヴァリッドは、現在でも100名ほどの傷痍軍人が生活する現役の施設でもあります。
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ルーヴル宮(ルーヴル美術館)

The Louvre Place
ルーヴル宮(ルーヴル美術館)
セーヌ右岸に位置するルーヴル美術館は、フランス国王フィリップ2世が12世紀に築いた要塞を起源としています。16世紀半ばに国王フランソワ1世が改築し、現在のような城館となりました。その後も歴代の王が王宮として改築や増築を続け、17世紀のルイ14世の時代には、ルイ・ル・ヴォーやシャルル・ル・ブランなど、後に豪華なヴェルサイユ宮殿を築く芸術家の手でアポロンのギャラリーなどがつくられました。アポロンのギャラリーはヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」のモデルにもなっています。しかし、ルイ14世はアポロンのギャラリーが完成する前に王宮をヴェルサイユに遷したため、アポロンのギャラリーは長い間、未完成のまま残されました。ルーヴル宮が本格的に美術品を展示する美術館になったのは、フランス革命の後のことでした。
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