Properties & Sights

構成資産・みどころ一覧

アランフエス王宮

Royal Palace of Aranjuez / Palacio Real de Aranjuez
アランフエス王宮
「アランフエス王宮」は、マドリードの南約30km、タホ川とハラマ川が合流する平野部に位置し、総面積1.1㎢もの広大な庭園に囲まれています。15世紀末に終結したレコンキスタ(国土回復運動)以降、アランフエスはサンティアゴ騎士団の所有地であり、その総長は現在の王宮がある場所に邸宅を構えていました。イサベル1世の時代に、総長の地位が君主の地位に統合されたことで、アランフエスの領地は王室資産の一部となりました。1561年、スペイン国王フェリペ2世は、父である神聖ローマ帝国皇帝カール5世(スペイン国王カルロス1世)の計画を引き継ぎ、アランフエスにあった古い邸宅の建て替えを命じました。建築家フアン・バウティスタ・デ・トレドは、まず庭園や農地を区切る並木道を設計し、アランフエスをイタリア風の邸宅に改築します。これが現在の王宮の前身となり、フェリペ2世と王妃のお気に入りの夏の離宮でした。さらにトレドによって礼拝堂の建設が始まり、マドリードのエル・エスコリアール修道院を手掛けた建築家フアン・デ・エレーラの手によって完成されます。数年後には、建築家フアン・デ・ミンハレスの指揮のもと、王宮本体の建設が始まりました。1598年、フェリペ2世が亡くなる時点では、礼拝堂を持つ南塔と、南側および西側正面(ファサード)の大部分が完成しています。
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ガルダイア

Ghardaïa
ガルダイア
ガルダイアはムザブの谷の中心の町で、アルジェリアにおけるイバード派イスラム教の拠点にもなっています。ムザブの谷の中でも特に美しい中世の街並みが残されており、その美しさから「サハラの宝石」という別名でも知られる見事なオアシスです。小高い丘の上に建つモスクのミナレットを頂点として、パステルカラーの家々がピラミッド状に密集しています。どの家からもモスクが見えるように設計されており、アルジェリアの中でも一際目立つ、独特で神秘的な異空間が広がっています。ミナレットはかつて監視塔として機能していました。また、モスク自体も要塞として構想されたものであり、敵に包囲された際の最後の拠点となるよう、内部には武器庫や穀物倉庫を備えていました。この共同生活に欠かせないモスクを中心として、周囲には城壁に至るまで同心円状に家々が建てられており、町全体が城壁で囲まれています。1千年紀の初め、イバード派の人々はムザブの谷で手に入る地元の材料を使い、自然環境に完璧に適応した、極めてシンプルな形態の土着建築を創り上げました。この優れた建築と都市計画のスタイルは、現代の建築デザインの模範ともなっています。
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王宮(フエ)

Hue Imperial City / Hoàng Thành Huế
王宮(フエ)
フエの王宮は、19世紀から20世紀に栄えたグエン朝ゆかりの建造物群で、ベトナムで初めての世界遺産である「フエの歴史的建造物群」の構成資産のひとつです。北京の故宮を参考にし、その約4分の3の規模で建設されました。フォーン川の左岸に位置し、高さ約6.6m、幅約21mという大城壁に囲まれた、一辺約2.2kmの正方形の都城です。東洋思想やベトナムの伝統、西洋の軍事建築であるヴォーバン様式の要素を取り入れて建設計画が進められました。南側にある正門(午門)を抜けるとあらわれる太和殿は、皇帝の政務の空間でした。中国明清時代の構造技法を踏襲した建築様式となっており、中には皇帝の座した金色の玉座が残っています。太和殿の柱の一部には、5本の指の龍が巻き付くデザインが施されており、これは皇帝を象徴するものとされています。
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薬師寺

Yakushiji Temple
薬師寺
法相宗大本山である薬師寺は、680年、天武天皇が皇后の病気回復を祈念して発願したのが始まりです。当時の都・藤原京に造営されますが、その後、皇后は回復し、完成を見る前に天武天皇のほうが病に倒れてしまいます。亡き夫の意志を継いだ皇后は持統天皇となり、伽藍を完成させました。その後の平城京遷都に伴って、718年、現在地に移されました。金堂より手前に東西に2基の塔が並び立つ「薬師寺式伽藍配置」は、日本初の伽藍配置です。これら堂塔の各層には「裳階」と呼ばれる庇状の構造物がつけられており、その華麗な姿は「龍宮造り」と称えられました。なお、藤原京での創建時の薬師寺は、本薬師寺跡として国の特別史跡に指定されており、当時の伽藍を記憶する礎石が残されています。
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東大寺

Todaiji Temple
東大寺
「奈良の大仏」で知られる東大寺は、1,300年近い歴史をもつ華厳宗大本山の寺院です。東大寺という名称は、平城京の東方に建てられた官大寺であることに由来します。創建当時、平城京では政変や反乱、自然災害などが相次ぎ、疫病も流行っていました。聖武天皇はそうした社会的不安を仏教の力で鎮めようと全国に国分寺の建立を命じました。その頂点に立つ総国分寺として位置づけられたのが東大寺です。生きとし生けるすべてのものの幸福を願いつくられた大仏は、752年に開眼供養会が盛大に営まれました。高さが約15mという世界最大級の金銅仏である大仏とそれを安置する大仏殿の造営には、延べ260万人もの人々が関わったと伝えられています。なお、大仏は正式には「盧舎那仏」もしくは「毘盧遮那仏」と言います。
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春日大社

Kasugataisha Shrine
春日大社
古くから神が宿る山として人々の信仰を集めてきた春日山(御蓋山)の西麓に、春日大社は鎮座しています。国家鎮護の社として創建された春日大社は、山も含めると約30万坪(約100万㎡)にも及ぶ神域を有しています。その起源は、8世紀に武神として崇敬される武甕槌命が白鹿に乗って御蓋山に降臨したという伝承にあります。春日大社は藤原氏の氏神を祀っていることから、藤原氏や朝廷の篤い崇敬を受けて栄えました。平安時代に神仏習合思想が広まると、藤原氏の氏寺であった興福寺と一体化し、さらなる発展を遂げました。現在、毎年1月2日には、興福寺の僧侶が春日大社に参詣する社参式が行われており、神仏習合時代の神前読経の歴史を今に伝える行事となっています。
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春日山原始林

Kasugayama Primeval Forest
春日山原始林
奈良市の市街地東方に位置する春日山原始林は、春日大社の神山・御蓋山の後方に広がり、美しい稜線を形成している緑豊かな森です。ここは841年に仁明天皇の勅命により狩猟と伐採が禁止され、春日大社の神域として守られてきました。常緑のシイやカシなどの照葉樹林が広がるなかに、「春日杉」と呼ばれるスギやモミ、ツガといった針葉樹、ツル性植物やシダ植物など、約800種もの植物が生育しています。また、メタリックブルーの体をもつルリセンチコガネをはじめとする昆虫類、さまざまな野鳥、シカやムササビなど哺乳類の住処でもあります。市街地に隣接しながらも原始的な姿を保っているこの森は、その貴重な植生が評価され、1924年に天然記念物、1955年には特別天然記念物に指定されました。
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元興寺

Gangoji Temple
元興寺
元興寺は、蘇我馬子が6世紀に創立した日本最初の本格的寺院である飛鳥寺(法興寺)を起源としています。平城京遷都に伴って飛鳥から移転し、そのしばらく後に造営が始まり、8世紀後半にかけて大伽藍が整えられました。朝廷の保護を受けた南都七大寺のひとつとして発展し、三論・法相(ほっそう)など教学の中心となりました。現在、市内中心部で町家が軒を連ねる「ならまち」として親しまれる一帯は、奈良時代にはほぼ全域が元興寺の境内でした。広大な敷地には金堂や講堂、五重塔などが立ち並び、南都を代表する大寺院として隆盛を誇りました。しかし、律令国家の衰退によって、経済的基盤を失い、元興寺は徐々に凋落の道をたどりました。
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興福寺

Kohfukuji Temple
興福寺
法相宗の大本山である興福寺は、その前身である「山階寺」が669年に造営されたのが始まりです。これは、藤原鎌足が大病した際、妻である鏡女王が夫の回復を祈願し、釈迦三尊や四天王といった諸仏を安置するために建てたものと言われています。のちに飛鳥の「厩坂寺」を経て、平城遷都に伴い平城京に移されて興福寺となりました。ここは藤原氏一門の氏寺ですが、主要堂塔の建立の発願は、天皇や皇后によるものが多いことが特徴です。平安時代以降は再三の火災に見舞われながらも、その都度復興を遂げてきました。そうした背景には、藤原一族の強大な権力がありました。
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ルイーネンベルク

Ruinenberg
ルイーネンベルク
ポツダムのサンスーシ宮殿の北側に位置する「ルイーネンベルク」は、18世紀半ば、プロイセン国王フリードリヒ2世がサンスーシ公園の噴水に水を供給する浅い人工池を建設したことから始まります。彼はイギリスの景観を模してこの池の周りを、巨大な円柱やドーリア式の円形建物、ピラミッド、古代劇場を思わせる壁、そして木々の自然な植栽で囲みました。そのためこの場所は、『遺跡の丘』もしくは『廃墟の丘』とも呼ばれています。その後、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の命によって「ノルマン塔」が建設されたことで、この景観はさらに素晴らしいものへと発展しました。同時に、造園家ピーター・ヨーゼフ・レンネによってルイーネンベルクや近接するボルンシュテット家の領地が取り込まれ、サンスーシ公園は美しく拡張されることとなりました。
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シャルロッテンホーフ宮殿

Charlottenhof Villa / Schloss Charlottenhof
シャルロッテンホーフ宮殿
サンスーシ宮殿の南西には、新古典主義様式で建てられた小さな「シャルロッテンフォーフ宮殿」があります。1825年、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、皇太子フリードリヒ・ヴィルヘルム4世とその妻エリザベート・フォン・バイエルンへのクリスマスプレゼントとして、サンスーシ公園南西の土地を購入しました。1826年から1829年にかけて、皇太子夫妻の命を受けた建築家カール・フリードリヒ・シンケルと造園家ペーター・ヨーゼフ・レンネによって、この土地にあった邸宅は、イギリス庭園を持つ平屋建ての古典主義様式の夏の宮殿へと改築されました。
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新宮殿(ポツダム)

New Palace / Neues Palais
新宮殿(ポツダム)
ポツダムのサンスーシ公園内にある「新宮殿」は、1763年から1769年にかけて、プロイセンのフリードリヒ2世が建設を命じた、彼にとって最後の宮殿です。公園のメインストリートの西端に位置し、サンスーシ宮殿群の中で最も大きな規模の建物です。フリードリヒ2世の依頼を受け、建築家ヨハン・ゴットフリート・ビューリングとハインリヒ・ルートヴィヒ・マンガー、カール・フォン・ゴンタルトらが設計を手がけました。質素なサンスーシ宮殿とは対照的に、七年戦争後のプロイセンの強大な国力を誇示する目的で建てられたため、そびえ立つドームを持つその姿は、フランスの宮殿を彷彿とさせる壮麗な外観となっています。
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グリーニッケ宮殿

Glienicke Villa / Schloss Glienicke
グリーニッケ宮殿
ベルリンの「グリーニッケ宮殿」は、木々が生い茂る丘からハーフェル川へと緩やかに広がる緑地にあります。この地にはもとは、造園家ペーター・ヨーゼフ・レネが、前の所有者であるカール・アウグスト・フュルスト・フォン・ハルデンベルク侯爵のために手がけた見事な庭園が広がっていました。1823年、初めてのイタリア訪問からベルリンへと帰国した当時21歳のプロイセンのカール王子は、砂だらけで不毛なこの土地に南国を思わせるイタリア風別荘を建てるという夢を抱き、それをこの地で実現させたのです。1824年、建築家カール・フリードリヒ・シンケルの設計により、グリーニッケには、宮殿やカジノ、大小の東屋(ノイギーアデ)といった古典主義的な建物が古代様式で建てられました。調和を重んじて建てられた建物と、カール王子が熱心に収集した数多くの古代芸術品は、この宮殿に地中海地方を思わせるたたずまいをもたらしています。
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バーベルスベルク宮殿

Babelsberg Palace / Schloss Babelsberg
バーベルスベルク宮殿
ハーフェル川のほとりには、イギリスのネオ・ゴシック様式で建てられた「バーベルスベルク宮殿」があります。1833年から1835年にかけて、建築家カール・フリードリヒ・シンケルが設計した最初の宮殿は、小さなコテージほどの大きさでした。しかし、1840年にヴィルヘルム王子がプロイセン王位継承者に任命されて職務が増えると、宮殿は1844年から1849年にかけて拡張されることになります。この拡張工事は、建築家ルートヴィヒ・ペルシウスとヨハン・ハインリヒ・シュトラックが手がけました。ヴィルヘルムとアウグスタ夫妻は、この宮殿の設計と家具選びに積極的に関わります。1860年代から1880年代にかけて、バーベルスベルクはプロイセン政治における最も重要な中心地のひとつとなり、1871年のドイツ帝国誕生にいたる時代に最盛期を迎えました。1833年の造営以降、バーベルスベルク宮殿は50年以上にわたり、皇帝夫妻の夏の離宮として使われたのです。
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バーベルスベルク公園

Babelsberg Park / Park Babelsberg
バーベルスベルク公園
ドイツのポツダムにある「バーベルスベルク公園」は、ハーフェル川のほとりに位置しています。この公園からは、ティーフェン湖やユングフェルン湖、そしてグリーニッケ橋の景色を眺めることができます。1.24㎢の広さを持つこの公園は、後に皇帝ヴィルヘルム1世として即位するヴィルヘルム王子とその妻ザクセン=ヴァイマル公女アウグスタの命によって、1833年以降に造営されました。公園の設計は、造園家ペーター・ヨーゼフ・レンネとヘルマン・フュルスト・フォン・ピュックラー=ムスカウの2人が手がけました。
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ツェツィーリエンホーフ宮殿

Schloss Cecilienhof
ツェツィーリエンホーフ宮殿
ホーエンツォレルン家が築いた最後の宮殿であるツェツィーリエンホーフ宮殿は、1913年に着工し、第一次世界大戦の只中であった1917年に完成しました。これはドイツ帝国最後の皇帝ヴィルヘルム2世が、自身の長男であるヴィルヘルム皇太子とツェツィーリエ妃のために建設させたものです。建築家パウル・シュルツェ=ナウムブルクが設計しました。英国の田園地帯にたたずむ別荘のような趣の宮殿は、レンガや木材などの伝統的な素材が使われ、周りの自然環境にも調和した外観となっています。
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サンスーシ宮殿

Schloss Sanssouci
サンスーシ宮殿
プロイセン国王フリードリヒ2世の夏の離宮として築かれたサンスーシ宮殿は、ポツダムにあるホーエンツォレルン家の宮殿の中で最も有名なもののひとつです。第一次シュレジエン戦争の後、1745年から1747年にかけて建造されました。宮殿の設計を行ったのは、フリードリヒ2世の軍隊時代からの友人、建築家クノーベルスドルフですが、基本構想はフリードリヒ2世自身によるものです。彼が書いた図面が2枚、今も宮殿の書斎に保管されています。宮殿南側には広大な庭園が広がっており、丘の斜面を利用してつくられた6段のテラスにはガラス扉がはめ込まれ、ブドウやイチジクが大切に育てられていました。
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前庭(ジラウハーナ)(タージ・マハル)

Taj Mahal Forecourt / Jilaukhana
前庭(ジラウハーナ)(タージ・マハル)
タージ・マハルの「前庭(ジラウハーナ)」は、かつて墓廟を訪れる人々が象や馬から降り、楼門(大門)をくぐるための準備をした場所です。この前庭の北側は霊廟へと続く庭園の壁に隣接しており、かつては墓守の宿舎が置かれていました。また、東西に延びる市場へと続く通りがあり、その両側には「女友達の塔」として知られる墓廟群があります。ここには、皇帝シャー・ジャハーンのもう一人の王妃が建てたモスクや、ムムターズ・マハルの侍女長であったサッティ・ウン・ニサ・カーヌムの墓とされる無名の墓が並んで建てられています。
地域: 西・南アジア / 国名: インド / 遺産名: タージ・マハル
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迎賓館(メフマーン・ハーナ)(タージ・マハル)

Taj Mahal Mehmaan khana
迎賓館(メフマーン・ハーナ)(タージ・マハル)
白大理石の霊廟が位置する台座の両側には、ほぼ同じ形をした赤砂岩の建物が2つ並び、白と赤の美しく鮮やかな色彩のコントラストを生み出しています。庭園から向かって左の西側は「モスク」、右の東側は「メフマーン・ハーナ」と呼ばれる迎賓館です。これらはまったく同じ外観をしており、まるで鏡のように完璧な左右対称の構造をしています。当初、メフマーン・ハーナは、ムムターズ・マハルの命日に霊廟を参拝する賓客を受け入れるための施設として使われていました。建物が完成するまでの数年間は、臨時のテントで賓客の受け入れが行われていましたが、完成後はこの迎賓館がその役割を担うようになりました。この建物の床面には、霊廟ドームを描いた2枚の設計図が刻まれていることでも知られています。モスクとメフマーン・ハーナは、どちらもテラスから約64cm高い基壇の上に立っています。この基壇と中央の霊廟の間は、長方形のくぼんだ中庭のようになっており、モスク側の中庭には、礼拝前に手足を清めるために使う水槽が設けられています。一方、メフマーン・ハーナ側にも同様の水槽が置かれていますが、こちらは実用的な機能を持たず、完璧な左右対称の美しさを表現するためだけものです。
地域: 西・南アジア / 国名: インド / 遺産名: タージ・マハル
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庭園(タージ・マハル)

Taj Mahal Garden
庭園(タージ・マハル)
タージ・マハルには、皇帝シャー・ジャハーンと建築家や造園家の革新的な取り組みが見られます。そのひとつが、四分割された庭園の中央に霊廟を配置するという従来の様式ではなく、ヤムナー川沿いの北端に配置したことです。これにより、タージ・マハルの景観に奥行きと遠近感が生まれ、その壮大さが際立つ工夫がなされています。霊廟前に広がる大きな庭園は、ペルシア、ティムール朝の庭園様式の影響を受けたもので、2本の主要な通路によって4つの区画(チャハル・バーグ)に分割されています。各区画はさらに狭い十字形の通路によって細分化され、16の小区画が形成されています。そして庭園全体は、すべての小通路とつながる通路で囲まれています。このようにして作り出された幾何学模様の庭園は、初期ムガル建築装飾の特徴です。
地域: 西・南アジア / 国名: インド / 遺産名: タージ・マハル
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モスク(タージ・マハル)

Taj Mahal Mosque
モスク(タージ・マハル)
白大理石の霊廟が位置する台座の両側には、ほぼ同じ形をした赤砂岩の建物が2つ並んでいます。庭園から向かって左の西側は「モスク」、右の東側は「メフマーン・ハーナ」と呼ばれる迎賓館です。2つの建物は同じ外観をしており、完璧に左右対称の構造をなしています。イスラム教の礼拝堂であるモスクは、日々の礼拝や宗教的な儀式、説教などが行う場所です。その床には、569枚の黒大理石が、まるで祈祷用絨毯を並べたような輪郭で敷き詰められています。ムガル帝国時代のモスクの礼拝堂は3つのエリアに区分される構造になっており、タージ・マハルでは、それぞれのエリアがイーワーンと呼ばれる丸みを帯びたアーチ状の広い空間によって外に開かれています。モスクとメフマーン・ハーナどちらも、テラス面から約64cm高くなった基壇の上に建てられています。この基壇と中央の霊廟の間は、長方形のくぼんだ中庭のようになっており、モスク側の中庭には、礼拝前に手足を清めるために使う水槽が設けられています。
地域: 西・南アジア / 国名: インド / 遺産名: タージ・マハル
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霊廟(タージ・マハル)

Taj Mahal Mausoleum
霊廟(タージ・マハル)
タージ・マハルは、ムガル帝国の第5代皇帝シャー・ジャハーンが、亡き妻ムムターズ・マハルのために古都アーグラに建設した霊廟です。皇帝の建築と芸術への強いこだわりを象徴する建物で、中心軸から左右対称に広がる構造や、新しい柱のデザイン、曲線的なフォルム、そして植物をモチーフにした自然主義的な装飾などは、すべて、シャー・ジャハーン様式の特徴です。なかでも、その中心にある霊廟は、ラジャスタン州マクラナ産の白大理石で覆われています。白亜の輝きを放つ霊廟の美しさを、詩人や歴史家たちは、「タージ・マハルは天国にある愛妃ムムターズ・マハルの邸宅を地上に再現したものだ」「見る者に天界へ昇りたいという願望を忘れさせるほど、ここは光り輝く墓である」と評しています。この庭園付きの邸宅を可能な限り忠実に実現するために、従来の霊廟建築のように、霊廟を十字形に配置された庭園(チャハル・バーグ)の中心に建てるという手法は取られませんでした。代わりに、当時、アーグラで主流となっていた、川に面する庭園様式が採用されています。こうしてタージ・マハルは、邸宅と霊廟という二つの機能を見事に調和させたのです。
地域: 西・南アジア / 国名: インド / 遺産名: タージ・マハル
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西教会(アムステルダム)

Western Church / Westerkerk
西教会(アムステルダム)
アムステルダムの西教会は、プリンセン運河とケイザー運河に面して建つプロテスタント派の教会です。アムステルダム市議会の委託を受けたヘンドリック・デ・ケイゼルによって、1620~1631年にかけてルネサンス様式で建てられました。高さ85mの塔がこの教会のシンボルで、アムステルダム最大のプロテスタント教会です。内部は36の大きな窓から差し込む光が教会堂の清浄な雰囲気を高めており、尖塔のカリオンは15分ごとに美しい音色を奏でます。『アンネの日記』にも、西教会の鐘の音が登場します。この教会にはオランダ出身の世界的な画家レンブラントも埋葬されていますが、正確な埋葬場所は分かっていないそうです。
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アンネ・フランクの家

Anne Frank House / Anne Frank Huis
アンネ・フランクの家
プリンセン運河沿いにある「アンネ・フランクの家」は、1635年に建てられその後増築された家屋で、アンネ・フランクの父親の仕事場でした。フランク一家は、もともとドイツのフランクフルトの裕福なユダヤ人一家でしたが、ナチスによるユダヤ人迫害を恐れ、アムステルダムに移り住みました。しかし、オランダがナチス・ドイツに占領され、ここでも「ユダヤ人狩り」が頻繁に行われるようになると、一家は18世紀に増築されたこの家の屋根裏部分に隠れ住み、潜伏生活を送ることになります。そこでは、同じくドイツからアムステルダムに移住してきたファン・ペルス一家と、フリッツ・プフェファーの計8人でおよそ2年間生活を続けましたが、ついに1944年にナチスの秘密警察(ゲシュタポ)に発見され、アウシュヴィッツ強制収容所に送られました。この潜伏の間(1942年~1944年)の日々を綴ったものが「アンネの日記」です。現在、家の内部は公開されており、隠れ家に通じる入口を隠した回転式本棚や日記を綴った屋根裏部屋なども見ることができます。
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ジンフェルグラハト

Singelgracht
ジンフェルグラハト
オランダの首都アムステルダムの運河地区には、16世紀末から17世紀初めにかけて新しい「港湾都市」計画の一環として建設された同心円状の運河があり、「グラクテンゴルデル(Grachtengordel)」と呼ばれる同心円状の3つの運河(ヘーレングラハト、プリンセングラハト、ケイザーグラハト)のその外側に建設された運河です。世界遺産登録名の「ジンフェルグラハト(Singelgracht)」とは、この外縁部の運河を指しており、世界遺産はその内側に広がる17世紀の環状運河地区と歴史的街並みから構成されています。
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ソロモン・R・グッゲンハイム美術館

Solomon R.Guggenheim Museum
ソロモン・R・グッゲンハイム美術館
ソロモン・R・グッゲンハイム美術館は、1943年に設計され、1956年から1959年にかけて建造されました。ニューヨークのセントラルパークに面して建つこの美術館は、製鉄業で財を成したソロモン・R・グッゲンハイムの収集品を展示するために造られたものです。館内には印象派や後期印象派、モダンアート、現代美術を中心に、およそ2.500点もの作品が収蔵されています。建物は鉄筋コンクリート造で、主に3つの要素で構成されています。敷地の南側にある螺旋状のメインギャラリー「ロタンダ」、北側にある小ぶりな円形の管理棟「モニター」、そしてこれら2つの棟を繋ぐ水平な片持ち梁(かたもちばり)構造の橋です。この橋は建物の南側、西側、北側の2階部分を囲むように伸びています。なかでもロタンダは、カタツムリの殻のような螺旋状の外観で広く知られています。
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タリアセン・ウエスト

Taliesin West
タリアセン・ウエスト
1938年に設計・建造されたタリアセン・ウエストは、アリゾナ州スコッツデールに位置しています。ここはフランク・ロイド・ライトが晩年の20年間を過ごした冬の住居であり、同時に弟子たちのスタジオでもありました。砂漠の中に佇む半透明の屋根を持った恒久的な建造物群は、建物と周囲の景観が新たな形で融合した姿を示しています。アリゾナ州をはじめとするアメリカ南西部の砂漠地帯において、タリアセン・ウエストは、その土地の風土に根差した革新的かつ新たな建築形態を確立しました。
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ハーバート・キャサリン・ジェイコブス邸

Herbert and Katherine Jacobs House
ハーバート・キャサリン・ジェイコブス邸
ハーバート・キャサリン・ジェイコブス邸は、1936年に設計され、1936年から1937年にかけてウィスコンシン州マディソンに建設された邸宅です。この邸宅は、ライトが提唱した「ユーソニアン住宅」の最初の作品として知られています。「ユーソニア」とは、フランク・ロイド・ライトが平均的なアメリカ人のための建築ビジョンを表現するために用いた言葉です。ユーソニアン住宅は、使用人を雇わない一般的な家族向けに、コンパクトかつ質素に設計された平屋建ての住宅で、庭を囲むようなL字型の配置が特徴です。これにより、室内の空間と野外の庭が視覚的に強く結びつけられており、これこそがユーソニアン住宅の大きな魅力となっています。
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落水荘

Fallingwater
落水荘
落水荘はペンシルベニア州南西部、アレゲーニー山脈のミルラン村から南へ約6.5㎞の地点に位置しています。標高が高く、深い渓谷と数多くの滝が点在しており、多様な植物や野生動物が生息しています。エドガー・カウフマンとリリアン・カウフマン夫妻の週末の別荘として1935年に設計され、1936年から1939年にかけて建設されました。1937年に完成した本館は3階建てで、敷地内を流れるベアラン川の上流の滝の上に建てられています。各階には広々としたテラスが設けられ、地元の砂岩でできた巨大な煙突が、建物全体の印象を支えています。そのため、敷地内はもちろんのこと、建物内部にまで水の音が心地よく響き渡ります。
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ホリーホック邸

Hollyhock House
ホリーホック邸
1918年に設計され、1918~1921年にかけて建造されたホリーホック邸は、カリフォルニア州ロサンゼルスのハリウッド地区東端、オリーブ・ヒルの頂上に位置しています。中庭を中心に建てられたこの邸宅は、野外と屋内の生活空間がシームレスに融合しているのが特徴です。地上階と屋上階の両方にテラスが設けられており、それぞれの部屋から野外空間へとつながる造りになっています。建物自体は立方体の形状をしており、漆喰で覆われた壁は中央アメリカの先住民建築を彷彿とさせ、まるで一枚岩のような圧倒的な存在感を放っています。また、様式化された立葵(ホリーホック)をかたどった鋳造コンクリートの装飾が、帯状の装飾の上に美しく配されています。このホリーホック邸は、地元にあるスペイン風パティオハウスの伝統を独自に取り入れながら、古代アメリカ先住民マヤ族の様式や、周囲の景観の象徴的な表現を見事に融合させた建築となっています。
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