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ウフィツィ美術館
Galleria degli Uffizi
コジモ1世は、フィレンツェのさまざまな場所に点在していた行政機関を一カ所にまとめることを目的に、ジョルジョ・ヴァザーリに行政庁舎の建設計画を依頼します。1560年に始まった建設は、13の事務所が集められ1580年に完成しました。ウフィッツィというのは、イタリア語のオフィス(ウフィッチオ)の複数形です。コジモ1世はヴェッキオ宮殿とピッティ宮殿を結ぶ回廊の建設も命じ、1565年にはフランソワ1世とジョアンナの結婚を記念してウフィッツィとピッティ宮殿を結ぶヴァザーリの回廊も建設されました。フランチェスコ1世はウフィッツィの最上階を美術品の展示スペースとし、フランチェスコ1世の後を継いだ弟のフェルディナンド1世は、コジモ1世の遺言に従い肖像画コレクションをヴェッキオ宮殿からウフィッツィに移しました。1737年にメディチ家のジャン・ガストーネ大公が後継者を残さずに亡くなると、妹のアンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチは「メディチ家の財産はフィレンツェのもの」として美術品コレクションの全てをフィレンツェ市に遺贈し、ウフィッツィ美術館として公開されています。
ヴェッキオ宮殿
Palazzo Vecchio
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂
Cattedrale di Santa Maria del Fiore
フィレンツェのシンボルでもあるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の名前は、「花の聖母マリア大聖堂」という意味で、地名のフィレンツェ(英語名フローレンス)のラテン語の語源「フロレンス(花が咲いた)」と、都市の紋章に用いられているユリの花に由来しています。世界最大級の聖堂の1つで、大聖堂の全長は153m、高さは92mもあります。1296年から、古い教会堂があった場所の上で新たな大聖堂の建設が始まりました。アルノルフォ・ディ・カンビオの設計に従いゴシック様式で建築が進められ、14世紀中ごろからフランチェスコ・タレンティによって拡張されて現在みられる大聖堂の基本形が完成しました。現在は3つの身廊を持つ三廊式バシリカと八角形のサン・ジョヴァンニ礼拝堂、ジョットの鐘楼で構成されています。
サン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ聖堂
Basilica di San Paolo fuori le mura
カンピドーリオの丘
Campidoglio
パンテオン
Pantheon
フォロ・ロマーノ
Foro Romano
「ローマ市民の広場」という名前のフォロ・ロマーノは、パラティーノの丘とカピトリーノの丘、コロッセウム、フォーリ・インペリアーリ通りに囲まれた広場で、古代ローマからローマ帝国にかけて政治や文化、宗教、経済の中心地でした。古代ローマでは都市の中心にそうした広場が作られるのが普通で、フォロ・ロマーノはローマで最初に作られた広場と考えられています。ローマ市民たちは、フォロ・ロマーノで政治家の演説を聞いたり、凱旋パレードを見たり、集会を開いたりしていました。中心を通る「聖なる道(ヴィア・サクラ)」は、パラティーノの丘とカピトリーノの丘を結ぶ道で、その周囲には多くの神殿が築かれました。またヴィア・サクラの「ティトゥスの凱旋門」から「セプティミウス・セウェルスの凱旋門」までは皇帝たちの凱旋パレードにも使われました。
コロッセウム
Colosseum
暴君として知られたローマ帝国皇帝ネロが68年に帝位を追われた後、ローマは内戦状態にありました。69年に皇帝となったウェスパシアヌスは、ローマ市民の不満のはけ口となる娯楽の場を与える意味もあり、ネロ帝の宮殿「ドムス・アウレア」の庭園跡地に新しい円形闘技場の建設を決めます。70年から始まった円形闘技場の建設は、次の皇帝ティトゥスの時代まで続き、80年に完成しました。当初は、ウェスパシアヌス帝が開いたフラウィウス朝に因んで「フラウィウス円形闘技場」と呼ばれていました。しかし、円形闘技場の近くにネロ帝の巨大なブロンズ像「コロッセオ・ディ・ネローネ(ネロの巨像)」が立っていたことから、いつからか「コロッセウム」と呼ばれるようになりました。ネロ帝は暴君として知られますが、一部の市民からは死後も根強い人気があったそうです。
イエローストーン湖とイエローストーン川
Yellowstone Lake and Yellowstone River
イエローストーン湖は、標高2,357mにある北米大陸最大で最高地にある淡水湖です。ウィスコンシン大学の研究によると、イエローストーン湖の水をすべて抜くと、イエローストーン国立公園の地上で見られるのと同じような間欠泉や温泉(ホット・スプリングス)、深い渓谷などが現れるそうです。イエローストーン湖には141を超える支流が流れ込んでいますが、流れ出る出口はイエローストーン川のみです。イエローストーン川は湖から出るとアッパー・フォールズとローワー・フォールズの2つの滝を通って大地を削り、深い渓谷を作り上げています。またイエローストーン川は、アメリカ合衆国本土48州の中で、ダムのない川としては最長の長さを誇ります。
マンモス・ホット・スプリングス
Mammoth Hot Springs
オールド・フェイスフル・ガイザー
The Old Faithful Geyser
グランド・プリズマティック・スプリング
Grand Prismatic Spring
シャイヨー宮
The Palais de Chaillot
エッフェル塔からイエナ橋を挟んでちょうど反対側の丘の上にあるシャイヨー宮のある場所には、かつてフランス王妃カトリーヌ・ド・メディシスが建てたシャイヨー城がありましたが、フランス革命の際に大きな被害を受けました。現在のトロカデロ庭園を囲むようなU字型の宮殿となったのは、1937年のパリ万博の時です。シャイヨー宮の建物の間にある人権広場からはエッフェル塔が美しく見えることもあり、ヒトラーがパリを征服した時には広場で記念写真を撮ったり、NATO本部がシャイヨー宮に置かれたほか、世界人権宣言を採択した国連総会が開催されるなど、フランスを代表しパリを象徴する場所としても使われてきました。現在も人気の観光スポットとなっています。
オルセー美術館
The Musée d'Orsay
オルセー美術館のある場所には19世紀に建てられたオルセー宮殿がありましたが、19世紀末の激動の時代に焼失し、そのまま放置されていました。その地を活用したのが、1900年のパリ万博です。万博を訪れる人々のための駅舎兼ホテルとして建て直されました。その駅舎が美術館として生まれ変わったのは1986年のことです。現在ではパリの新しい名所として多くの人が訪れています。ジャン・フランソワ・ミレーの「落穂ひろい」やクロード・モネの「日傘の女」、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの「自画像」、オーギュスト・ルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」などの絵画作品のほか、フランソワ・ポンポンの「白熊」など、近代の作品を中心に現代の作品もコレクションに含んでいます。
アンヴァリッド
The Hôtel des Invalides
ルーヴル宮(ルーヴル美術館)
The Louvre Place
セーヌ右岸に位置するルーヴル美術館は、フランス国王フィリップ2世が12世紀に築いた要塞を起源としています。16世紀半ばに国王フランソワ1世が改築し、現在のような城館となりました。その後も歴代の王が王宮として改築や増築を続け、17世紀のルイ14世の時代には、ルイ・ル・ヴォーやシャルル・ル・ブランなど、後に豪華なヴェルサイユ宮殿を築く芸術家の手でアポロンのギャラリーなどがつくられました。アポロンのギャラリーはヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」のモデルにもなっています。しかし、ルイ14世はアポロンのギャラリーが完成する前に王宮をヴェルサイユに遷したため、アポロンのギャラリーは長い間、未完成のまま残されました。ルーヴル宮が本格的に美術品を展示する美術館になったのは、フランス革命の後のことでした。
サント・シャペル
The Sainte Chapelle
エッフェル塔
The Eiffel Tower
フランス革命100周年を記念する1889年のパリ万博の目玉に決まったのが、ギュスターヴ・エッフェルが率いるエッフェル社が出した、当時の世界最高の高さを誇る鉄塔案でした。エッフェルは、アメリカ合衆国の世界遺産になっている『自由の女神像』の内部構造や、ポルトガル共和国のポルトにある「マリア・ピア橋」などを設計しており技術力が認められていました。1887年1月26日に建設が開始されると、わずか2年2カ月と5日後の1889年3月31日に記録的な速さで完成しました。5,300枚の図面を基に、150人の工場労働者、約300人の現場労働者が、鉄7,300トン、リベット(ネジ)250万個、塗料60トンを使って完成させました。
ノートル・ダム大聖堂
The Cathedral of Notre-Dame