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グルント地区のサン・ジャン教会
Église Saint-Jean-du-Grund
グルント地区にある「サン・ジャン教会」は「聖ヨハネ教会(洗礼者聖ヨハネ教会)」とも呼ばれ、1309年の文書には、「サン・ジャン病院」と「サン・ジャン教会」の名がすでに記されていました。1606年にはノイミュンスター修道院とサン・ジャン教会が同時に再建されますが、1683~1684年にフランス軍に破壊されたため、1688年から1705年にかけて同じ場所に再建されました。現在の姿はこの当時から残るものです。ルネサンス様式の入り口、豪華なバロック様式の調度品、1710年製のパイプオルガンなどを鑑賞することができ、なかでも14世紀にケルンのパルラー派によって制作された「黒い聖母マリア像」は、この教会の最大の見どころとなっています。
聖霊の砦
Holy Ghost Citadel / Citadelle Saint-Esprit
ノートル・ダム大聖堂(ルクセンブルク)
Cathedral Notre-Dame / Cathédrale Notre-Dame
1613年に建設が開始された「ノートル・ダム大聖堂」は、もとはイエズス会の教会として建てられました。主に後期ゴシック様式で建てられているものの、ルネサンス様式に影響を受けた様々な装飾も見られ、高さ40mに達する2つの塔を含む3つの塔が印象的な外観を見せています。正面の入り口に刻まれた日付から、その完成は1621年であったことが分かります。1773年にイエズス会が解散すると、宣教師たちはルクセンブルクを去り、教会の運営は国に移管されました。その後、1778年にオーストリア皇后マリア・テレジアからルクセンブルク市に寄贈されたこの教会には、奇跡を起こし苦しむ人々を慰める聖母として、ルクセンブルク市とルクセンブルク大公国の守護聖人となっていた聖母マリア像が安置されました。1844年からは「ノートル・ダム教会」として知られるようになり、1870年にルクセンブルク司教区が設立されると、教皇ピウス9世によって大聖堂へ昇格しました。その後、増加する信者に対応するため、聖堂は何世紀にもわたって拡張されました。1935年から1937年にかけて、南側に翼廊や新しい聖歌隊席、そして地下聖堂が増築・拡張され、現在の姿となりました。
ルクセンブルク大公宮
Grand Ducal Palace / Groussherzogleche Palais
「ルクセンブルク大公宮」は、ルクセンブルクの象徴的な存在です。現在の宮殿がある場所には、1418年に建てられた、ルクセンブルク市で最初の市庁舎がありました。1554年、フランシスコ会修道院の屋根裏部屋に保管されていた火薬の爆発により市庁舎が全焼したため、再建が行われました。ルネサンス様式の正面外壁(ファサード)は、この時期につくられたものです。18世紀に拡張された市庁舎は、その後、中央行政機関や県庁舎として使用されました。さらに、1815年のウィーン会議によってルクセンブルクがオランダ王家との同君連合による大公国となると、1817年にはこの建物が総督公邸に指定されました。オラニエ=ナッサウ大公ヴィルヘルム1世(オランダ国王ウィレム1世)の治世下では、政府機関として使用されたほか、州議会や、1859年までは下院など、様々な行政機関が使用していました。
サン・ミッシェル教会(ルクセンブルク)
St Michael's Church in Luxembourg / Méchelskierch
ボックの砲台
Bock Casemates / Bockfiels or Um Bock
平城宮跡
Nara Palace Site
奈良でも有数の桜の名所として知られる平城宮跡は、地元の人たちにとっても憩いの場となっている歴史公園です。奈良盆地の北端に平城京が開かれたのは710年のことです。それまでの都であった藤原京から遷都されました。元明天皇の命によって律令国家の政治の中心として築かれた平城京のモデルは、唐の都・長安でした。碁盤の目のように区画された都は、10万を超える人々が暮らしていたと推定されています。平城京の南端には、この都の入口にあたる羅城門がありました。羅城門からは、幅約75m、長さが約3.7kmの朱雀大路が都の中央を南北にまっすぐに延びていました。その規模は、大型旅客機が発着する空港の滑走路に匹敵します。当時の人々も、その壮大さに圧倒されたことでしょう。そして突き当りには、平城宮の正門である巨大な朱雀門が建っていました。
唐招提寺
Tôshôdai-ji Temple
松下村塾
Shokasonjuku Academy
金鶏山
Mt Kinkeisan
金鶏山は、平泉中心部の西側に位置する標高98.6mの美しい円錐形の小山です。この山の名前は、山頂に雌雄一対の金の鶏を埋めたという伝説に由来しています。山頂から平泉を一望できることから、一帯を鎮護する聖なる山として信仰されてきました。その山頂には奥州藤原氏により代々経塚が営まれ、少なくとも9基が確認されています。また、毛越寺・観自在王院・無量光院の各寺院は、金鶏山から直線で結ぶことができる位置に造営されており、仏国土(極楽浄土)を現世に表現するうえで重要な要素となっています。江戸時代に平泉を訪れた松尾芭蕉が『奥の細道』の中で「秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す」と記したことからも、荒廃した伽藍跡の向こうに見える金鶏山の美しい姿が想像できます。
無量光院跡
Muryōkō-in Ato
観自在王院跡
Kanjizaiō-in Ato
観自在王院は、奥州藤原氏2代基衡の夫人が造営した寺院です。基衡の死後、その邸宅を寺院に改修したものと考えられています。基衡が建立した毛越寺の東隣に位置し、藤原道長が京都に建てた法成寺を模したと伝えられています。平安時代に著された日本最古の庭園書『作庭記』に基づいて造られた伽藍と浄土庭園は、東西約120m、南北約240mにおよぶ広大なものでした。近世になるまでに堂塔のすべてが荒廃してしまいましたが、発掘調査と修復作業により往時の姿が解明されました。中心となる「舞鶴が池」には、巨石を積み重ねて荒磯を表現した石組みや洲浜、中島などが配置されています。また、池の北側には、西に大阿弥陀堂跡、東に小阿弥陀堂跡が見られ、池の東側には鐘楼跡と普賢堂跡とされる遺構も確認できます。
毛越寺
Mōtsū-ji Temple
毛越寺は、中尊寺と同じく、天台宗第3代座主・慈覚大師円仁が開山したと伝えられています。850(嘉祥3)年、東北を行脚していた円仁が白鹿に導かれてこの地に「嘉祥寺」を創建したことが毛越寺の始まりとされ、その後、奥州藤原氏の2代基衡から3代秀衡の時代にかけて多くの伽藍が造営されました。毛越寺の伽藍配置の東端が、金鶏山の山頂から南への直線上に位置することから、その境内設計は金鶏山の位置と密接な関係があったことが分かります。また毛越寺は、当時都で栄えた文化の影響を強く受けており、白河上皇が建立した法勝寺を模して造営されたとされています。最盛期には堂塔40、僧坊500以上を数え、その規模と華麗さは中尊寺をしのぐほどで「吾朝無双(我が国に並ぶものがない)」と称えられました。しかし奥州藤原氏の滅亡後、相次ぐ火災によって16世紀までにすべての建物が焼失してしまいます。現在は大泉が池を中心とする浄土庭園と、平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な状態で残され、往時の姿を現代に伝えています。1989(平成元)年には、平安様式の新本堂が建立されました。
中尊寺
Chūson-ji Temple
中尊寺は850(嘉祥3)年、比叡山の天台宗第3代座主・慈覚大師円仁によって開山された天台宗の東北大本山です。中尊寺のある平泉は、前九年合戦(1051~62年)や後三年合戦(1083~87年)の戦乱を経て、安倍氏から清原氏へと受け継がれ、奥州藤原氏の初代藤原清衡が支配する地となりました。1105(長治2)年、藤原清衡はかつて衣関と呼ばれた関所があった関山に、中尊寺の造営を開始します。はじめに福島県の白河関から青森県の外浜にいたるまで一町ごとに笠卒都婆と呼ばれる供養塔を建て、その中心にあたる関山に1基の塔を建立しました。その後、寺塔40余り、禅坊300余りに及ぶ大規模な堂塔が造営されていきます。1126(天治3)年、大伽藍の完成にともない捧げられた『供養願文』には、蝦夷征討以来の多くの戦いで命を落とした人々の魂を、敵味方の区別なく浄土へ導くとともに、辺境の地とされた奥州に法華経に基づく現世の仏国土を建設しようとした清衡の願いが記されています。戦乱によって父や妻子を失った藤原清衡にとって、中尊寺の造営は平和への祈りと非戦の決意が込められているのです。現在の中尊寺には、「金色堂」「金色堂覆堂」「経蔵」をはじめ、「願成就院宝塔」「白山神社能舞台」「大池伽藍跡」など19の建造物や史跡が残されています。
日光山内
Nikko Sannai
世界遺産「日光の社寺」は、東照宮、二荒山神社、輪王寺の二社一寺にある103の建造物群と、それらを取り囲む空間としての境内地である「日光山内」で構成されています。日光山内は、日光連山を源とする稲荷川と大谷川に囲まれた場所であり、山内一帯の約50ha(0.5㎢)が国の史跡に指定されています。さらに、その周囲の約370ha(3.7㎢)が世界遺産の緩衝地帯(バッファー・ゾーン)となっています。数百年の樹齢を持つ周囲の森林がもたらす自然美と、多彩な建築物の人工美が調和しており、春には弥生祭、秋には東照宮の例大祭・百物揃千人武者行列など、多くの人々が関わる祭りや行事が行われてきました。また、地形に合わせた石段、参道、そして樹齢数百年の杉並木や石灯籠群などは、境内地としての宗教的活動空間をつくりだしています。日光山内は1,200年もの間変わることなく、自然、歴史、人間が織りなす空間となっています。
輪王寺
Rinnouji Temple
東照宮
Tōshō-gū Shrine
東照宮は徳川家康の霊廟として1617年に創建されました。その前年に、家康は駿府城で75歳の生涯を閉じ、久能山に葬られましたが、「死後は日光山に神として祀るように」とした遺言に基づいて、東照宮が造営されました。当初の規模は簡素な社殿で、静岡市に現存する久能山東照宮と同規模であったとされています。20年後の1636年に、家康を敬愛する三代将軍徳川家光により、「寛永の大造替」と呼ばれる全面的な建て替え工事が行われて、豪華絢爛な社殿が建ち並ぶ神社となりました。東照宮の建築により「権現造」の様式が確立されたとされています。そして、建造物には、白、黒、金を基調として漆や極彩色が施され、柱などには数多くの彫刻が見られます。山の地形を生かして造営され、石段や階段の配置で境内を広く見せる、奥行きを出すために参道を屈曲させるなど、さまざまな手法が取り入れられています。東照宮の建造物は、本殿・石の間・拝殿、陽明門など8棟が国宝に、五重塔、神厩舎など34棟が重要文化財に指定されています。
二荒山神社
Futarasan Shrine
遠賀川水源地ポンプ室
Onga river Pumping Station
福岡県中間市に位置し、1910(明治43)年に操業を開始した「遠賀川水源地ポンプ室」は、1901(明治34)年の操業を開始した官営八幡製鉄所の鋼材生産量の倍増を目指すため、11.4㎞離れた遠賀川から製鉄所へ大量の工業用水を供給するための施設として建設されました。遠賀川の東岸に建つポンプ室は、2階建てのイギリス式レンガ積みの建物で、丸窓や半円アーチ窓の一部には灰白色の鉱こう滓さい煉瓦が使用されています。建物は2棟が並ぶ大きな建屋で構成されており、かつて北側の棟には送水用の蒸気ポンプが、南側の棟には動力源となるボイラーが設置されていました。1950年代にポンプの動力源が蒸気から電気へ移り変わりましたが、100年以上が経過した現在もその役割は変わることなく、製鉄のための送水を続けています。
官営八幡製鐵所
The Imperial Steel Works, Japan
欧米を手本に殖産興業政策を進めていた明治政府は、鉄鋼の国産化をめざし、福岡県北部にある筑豊炭田に隣接した八幡村(現在の北九州市)に、「官営八幡製鐵所」を設立しました。日清戦争(1894~1895年)後の軍備拡張に伴う製鋼業振興政策として、1895(明治28)年、政府は鉄鉱石からの製せい銑せんから鋼材の生産までを一貫して行う「銑せん鋼こう一貫製鉄所」の建設を決定し、1897(明治30)年にその建設に着工します。日清戦争で獲得した多額の賠償金などをもとに、ドイツのグーテホフヌンクスヒュッテ社の技術協力を得て、1901(明治34)年2月5日、八幡製鐵所東田第一高炉への火入れが行われました。こうして当時の最新技術を導入した、アジア初の銑鋼一貫製鉄所として操業を開始しました。
三角西港
Misumi West Port
三池炭鉱・三池港
Miike Coal Mine and Miike Port
福岡県大牟田市と熊本県荒尾市にまたがる「三池炭鉱」は、かつて日本最大級の出炭量を誇った石炭鉱山です。主な遺構は、「宮原坑」「万田坑」「専用鉄道敷跡」「三池港」で構成されています。盆踊りの『炭坑節』でも知られる三池炭鉱は、江戸時代から採掘が始まり、1997(平成9)年に閉山されるまで、日本の近代工業化を支えました。1889(明治22)年に明治政府の官営事業から三井組へと払い下げられた際、炭鉱とともに三井組に招聘されたのが鉱山技師の團琢磨です。1893(明治26)年に三井鉱山合名会社が設立されると、團は専務理事に就任し、最新設備の導入や三池港の整備などでその手腕を発揮しました。有明海に近い三池炭鉱は出水が多いことで知られ、採炭にあたっては排水が最大の課題でした。そのため、良質な石炭の大量生産に向け機械化が進められ、当時最新の排水用大型ポンプであったイギリス製デービーポンプが導入されました。
旧グラバー住宅
Glover House and Office
端島炭坑
Hashima Coal Mine
端島炭坑は、長崎港の沖合18.5kmに位置する端島にある西彼杵海底炭田の一部です。高い護岸に囲まれ、煙突から煙を吐くその外観が、海に浮かぶ軍艦「土佐」に似ていたことから、「軍艦島」と呼ばれるようになりました。南北に約480m、東西に約160mの小さな端島では江戸時代に良質な石炭が発見されていましたが、当時は漁民が露出している石炭を採掘する程度でした。明治に入り、端島から約3㎞離れた高島炭鉱の経営を成功させた三菱社は、1890(明治23)年に同じ鉱床を持つ端島を買収し、海底炭鉱開発を本格化させました。翌年から出炭が始まり、1897(明治30)年には高島炭鉱を超える出炭量となりました。端島炭鉱の石炭は非常に良質であったため、その多くが官営八幡製鉄所へ製鉄用原料炭として供給されました。
高島炭坑
Takashima Coal Mine
高島炭坑は、長崎港の沖合14.5㎞に位置する高島にある西彼杵海底炭田の一部です。1695(元禄8)年、平戸出身の五平太によって石炭が発見されたと言われています。その後、幕末の開港にともない来航する蒸気船の燃料として石炭の需要が高まったため、1868(慶応4・明治元)年、佐賀藩とイギリス人貿易商トーマス・ブレーク・グラバーのグラバー商会との共同出資のもと、高島での海底炭鉱開発が本格的に始まりました。イギリス人技師モーリスを招き、1869(明治2)年、海岸に近い低地に、日本で初めて蒸気機関による巻揚機やポンプを導入した洋式竪坑「北渓井坑」を建設しました。竪坑の深さは43m、1日300トンの石炭を産出したとされています。北渓井坑は海水の流入により1876(明治9)年に廃坑となりましたが、現在も当時の竪坑跡や蒸気機関に関連する貴重な遺構が残されており、明治初期の石炭採掘技術を知ることができます。
三菱長崎造船所 占勝閣
Mitsubishi Senshokaku Guest House
「占勝閣」は、長崎造船所第三船渠を見下ろす丘の上に位置する、ベランダや尖塔が特徴的な木造2階建ての洋館です。三菱合資会社時代の1903(明治36)年、長崎造船所長の荘田平五郎の邸宅として着工され、翌年完成しました。占勝閣を設計した建築家の曾禰達蔵(は、工部大学校で鹿鳴館の設計者として知られるイギリス人建築家ジョサイア・コンドルに師事した人物です。1905(明治38)年、ここに宿泊した軍艦千代田艦長の東伏見宮依仁親王が、この洋館を「風光景勝を占める」という意味を持つ「占勝閣」と命名しました。以後、占勝閣は長崎造船所の迎賓館として使用されるようになりました。現在も建てられた当時の姿をそのまま留め、迎賓館として船舶の命名式などの祝賀会や貴賓の接待に使用されています。一般には非公開の施設です。
三菱長崎造船所 旧木型場
Mitsubishi Former Pattern Shop
長崎造船所内にある史料館は、1898(明治31)年、三菱合資会社長崎造船所の鋳物工場に併設された「木型場」として建設されました。イギリス積みで積まれた赤煉瓦造り2階建ての建物の内部は、屋根を支える柱や梁に木材が使用されており、長崎造船所に現存する最古の工場建屋です。当時は動力が蒸気機関から電力へと移り変わる時期であり、1897(明治30)年の中央発電所建設にともなう造船所の電化にあわせて、機械部品やプロペラなどの鋳物製造のための木型を製作するための場所でした。その後、1985(昭和60)年に史料館として開館し、長崎造船所の歴史や日本最古のオランダ製工作機械の竪削盤などの貴重な資料を展示しています。(※資料館は2026年9月現在休館中)
三菱長崎造船所 ジャイアント・カンチレバークレーン
Mitsubishi Giant Cantilever Crane
三菱長崎造船所内に建設され、100年以上経った現在も稼働している「ジャイアント・カンチレバークレーン」は、同型機として世界最古のものです。1909(明治42)年、三菱合資会社時代に日本で初めて導入されたスコットランドのアップルビー社製の電動クレーンで、大型船舶の部品を吊り上げるための最新造船設備でした。このクレーンの完成により、日本の造船技術は世界レベルへと成長したのです。同型の現存クレーンは世界で11基、日本国内には3基と数少なく、スコットランドが海外に輸出した同型機としても大変貴重な設備です。1960年代に現在の場所へと解体・移設されました。施設は一般非公開ですが、その姿は対岸の水辺の森公園やグラバー園、軍艦島クルーズ船などから見ることができます。老朽化の進行具合を調査するため、2026年12月にはクレーンの上部構造が地上に降ろされる予定です。
三菱長崎造船所 第三船渠
Mitsubishi No.3 Dry Dock
三菱長崎造船所内にある「第三船渠」は、1901(明治34)~1905(明治38)年にかけて建設されました。船渠とは、船の建造・修理・点検などを行うための大型施設のことで、英語では「ドック」と呼ばれます。陸地を掘り込んで作ったプール状の施設に船を入れた後、水門を閉めて排水し、船体を完全に露出させて作業を行う施設をドライドックと呼びます。入り江の地形を生かして建設された第三船渠は、当時動力として一般的だった蒸気機関ではなく、電気で駆動するイギリス製の排水ポンプを備えていました。当時東洋最大のドライドックとして開渠した後も、船の大型化にともない、1943(昭和18)年、1957(昭和32)年、1963(昭和38)年の3度にわたり施設が拡張されています。竣工から100年以上が経過した現在も第三船渠は船の修理に使用されており、建設当時の電気モーターと排水ポンプは今なお現役で稼働しています。施設は一般非公開です。
アランフエス王宮
Royal Palace of Aranjuez / Palacio Real de Aranjuez
「アランフエス王宮」は、マドリードの南約30km、タホ川とハラマ川が合流する平野部に位置し、総面積1.1㎢もの広大な庭園に囲まれています。15世紀末に終結したレコンキスタ(国土回復運動)以降、アランフエスはサンティアゴ騎士団の所有地であり、その総長は現在の王宮がある場所に邸宅を構えていました。イサベル1世の時代に、総長の地位が君主の地位に統合されたことで、アランフエスの領地は王室資産の一部となりました。1561年、スペイン国王フェリペ2世は、父である神聖ローマ帝国皇帝カール5世(スペイン国王カルロス1世)の計画を引き継ぎ、アランフエスにあった古い邸宅の建て替えを命じました。建築家フアン・バウティスタ・デ・トレドは、まず庭園や農地を区切る並木道を設計し、アランフエスをイタリア風の邸宅に改築します。これが現在の王宮の前身となり、フェリペ2世と王妃のお気に入りの夏の離宮でした。さらにトレドによって礼拝堂の建設が始まり、マドリードのエル・エスコリアール修道院を手掛けた建築家フアン・デ・エレーラの手によって完成されます。数年後には、建築家フアン・デ・ミンハレスの指揮のもと、王宮本体の建設が始まりました。1598年、フェリペ2世が亡くなる時点では、礼拝堂を持つ南塔と、南側および西側正面(ファサード)の大部分が完成しています。