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アイア・ピッコラ地区
Aja Piccola Quarter / Rione Aja Piccola
アンヴァリッド
The Hôtel des Invalides
アンドラーシ通り
Andrássy Avenue / Andrássy út
ヴェッキオ宮殿
Palazzo Vecchio
ヴァイセンホフ・ジードルングの住宅
Maisons de la Weissenhof-Siedlung
ヴァティカン図書館
Vatican Apostolic Library / Biblioteca Apostolica Vaticana
ヴァティカン美術館
Vatican Museums / Musei Vaticani
ウィーン国立歌劇場
Vienna State Opera / Wiener Staatsoper
ウィーン国立歌劇場は、1869年にハプスブルク帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の時代に開場した、世界屈指のオペラハウスです。ネオ・ルネサンス様式で建設され、リング通りを代表する建築のひとつとして知られています。しかし、華やかな歴史だけではなく、第二次世界大戦中のナチス政権下では芸術活動への統制が強まり、多くの芸術家が厳しい状況に置かれました。1944年には戦争の影響で劇場も閉鎖され、1945年の空襲では舞台や客席を含む建物の大部分が焼失します。長年使用されてきた舞台装置や大量の衣装も失われました。その後、約10年に及ぶ修復を経て1955年に再開場します。戦争を乗り越え、“ウィーン文化復興の象徴”として再び人々を迎えています。
ウフィツィ美術館
Galleria degli Uffizi
コジモ1世は、フィレンツェのさまざまな場所に点在していた行政機関を一カ所にまとめることを目的に、ジョルジョ・ヴァザーリに行政庁舎の建設計画を依頼します。1560年に始まった建設は、13の事務所が集められ1580年に完成しました。ウフィッツィというのは、イタリア語のオフィス(ウフィッチオ)の複数形です。コジモ1世はヴェッキオ宮殿とピッティ宮殿を結ぶ回廊の建設も命じ、1565年にはフランソワ1世とジョアンナの結婚を記念してウフィッツィとピッティ宮殿を結ぶヴァザーリの回廊も建設されました。フランチェスコ1世はウフィッツィの最上階を美術品の展示スペースとし、フランチェスコ1世の後を継いだ弟のフェルディナンド1世は、コジモ1世の遺言に従い肖像画コレクションをヴェッキオ宮殿からウフィッツィに移しました。1737年にメディチ家のジャン・ガストーネ大公が後継者を残さずに亡くなると、妹のアンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチは「メディチ家の財産はフィレンツェのもの」として美術品コレクションの全てをフィレンツェ市に遺贈し、ウフィッツィ美術館として公開されています。
エッフェル塔
The Eiffel Tower
フランス革命100周年を記念する1889年のパリ万博の目玉に決まったのが、ギュスターヴ・エッフェルが率いるエッフェル社が出した、当時の世界最高の高さを誇る鉄塔案でした。エッフェルは、アメリカ合衆国の世界遺産になっている『自由の女神像』の内部構造や、ポルトガル共和国のポルトにある「マリア・ピア橋」などを設計しており技術力が認められていました。1887年1月26日に建設が開始されると、わずか2年2カ月と5日後の1889年3月31日に記録的な速さで完成しました。5,300枚の図面を基に、150人の工場労働者、約300人の現場労働者が、鉄7,300トン、リベット(ネジ)250万個、塗料60トンを使って完成させました。
オルセー美術館
The Musée d'Orsay
オルセー美術館のある場所には19世紀に建てられたオルセー宮殿がありましたが、19世紀末の激動の時代に焼失し、そのまま放置されていました。その地を活用したのが、1900年のパリ万博です。万博を訪れる人々のための駅舎兼ホテルとして建て直されました。その駅舎が美術館として生まれ変わったのは1986年のことです。現在ではパリの新しい名所として多くの人が訪れています。ジャン・フランソワ・ミレーの「落穂ひろい」やクロード・モネの「日傘の女」、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの「自画像」、オーギュスト・ルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」などの絵画作品のほか、フランソワ・ポンポンの「白熊」など、近代の作品を中心に現代の作品もコレクションに含んでいます。
カーサ・ダモーレ
Casa d'Amore
カーサ・ダモーレは、アルベロベッロで初めてモルタルを用いて建てられた建造物です。かつてアルベロベッロでは、家屋に応じて税金が課されていたため、領主は恒久的な建物の建設を禁じ、すぐに解体できる建物を建てることで課税から逃れようとしていました。そのため、建物はモルタルを使わず、石を積み上げるだけの「乾式石積み(ドライストーン工法)」で建てられていました。1797年、ブルボン家のナポリ国王フェルディナンド4世によって、アルベロベッロが王立都市として認められると、フランチェスコ・ダモーレという人物が初めてモルタルを用いて家を建てました。カーサ・ダモーレの壁に刻まれたラテン語の碑文には、「王の許可によって最初に建てられた建物」と記されています。これ以降、トゥルッリやその他の建物は、この地域特有の赤土を混ぜて作られた「マルタ」と呼ばれるモルタルを使用して建てられるようになったのです。カーサ・ダモーレは、アルベロベッロにおける封建的な支配からの転換を象徴する建物です。
カーサ・ペッツォッラ領土博物館
Museum of the Territory - Doctor Giacomo Pezzolla's house / Museo del Territorio Casa Dottor Giacomo Giuseppe Pezzolla
カサ・ヴィセンス
Casa Vicens
カサ・バトリョ
Casa Batlló
カサ・バトリョが立つバルセロナのグラシア通り43番地は、スペイン語で「地区」と「リンゴ」が同じ綴りであることから、「不和のリンゴ」と皮肉られる場所でした。当時成長しつつあった富裕層が競い合うように著名な建築家に設計を依頼し、ガウディのライバルとされたリュイス・ドメネク・モンタネールによるカサ・リュオ・モレラや、ジョセップ・プッチ・イ・カダファルクによるカサ・アマトレなど個性豊かな建物が並んでいます。もとの建物は1877年、建築家エミリ・サラ・コルテスによって建てられました。1903年、繊維業者のジョセップ・バトリョ・イ・カサノバスがこの建物を購入し、建築家アントニ・ガウディに色使いや外観も含めた大胆な改築を依頼しました。周囲の建物を意識しながらも独創的に設計されたカサ・バトリョは、「骨の家」「仮面の家」「ドラゴンの家」など、さまざまな愛称で親しまれる建物となりました。
カサ・ミラ
Casa Milà "La Pedrera"
カサ・ミラは建築家アントニ・ガウディが彼独自の手法を確立した円熟期にあたる1906年から1912年にかけて建設され、ガウディにとって最後の個人注文主による建築物となりました。バルセロナのグラシアス通りに、オーナーのペレ・ミラとロサリオ・セギモンの住居を1階に、2階から5階には王侯、外交官、起業家、俳優、芸術家、政治家、ジャーナリストなど多彩な人たちが住む賃貸用共同住宅として完成しました。しかし当初、カサ・ミラの革新性は理解されず、新聞にはカタルーニャ語で「ラ・ペドレーラ(石切り場)」と酷評され、その装飾が気に入らなかったロサリオ・セギモンは、ガウディの死後、自分の階の一部を取り壊すように命じたこともありました。スペイン内戦中に共和国政府に押収されて各部門の本部が置かれた時代もありましたが、現在は賃貸住宅やオフィス、店舗としての入居も行われ、博物館となっている最上階と屋上や住居部分の一部は見学することができます。
カレル大学
Charles University / Univerzita Karlova
カレル橋
Charles Bridge / Karlův most
カレル橋は、チェコの首都プラハを流れるヴルタヴァ川に架かる、中世ヨーロッパを代表する石橋のひとつです。もともとこの場所には12世紀に建設された別の橋が架かっていましたが、1342年の洪水で被害を受けてしまいます。1357年、神聖ローマ皇帝カレル4世の命により新たな橋としてカレル橋の建設が始まり、15世紀初頭に完成しました。その後、橋は旧市街とプラハ城を結ぶ重要な役割を担い、商人や王族、巡礼者など多くの人々が行き交いました。全長およそ516mの橋には、17~18世紀を中心に設置された30体の聖人像が並んでいます。特に、14世紀のボヘミア司祭の聖ヤン・ネポムツキー像は有名で、像の台座に触れると幸運が訪れると言われていることから、観光客が多く訪れています。また、アジアで宣教を行ったフランシスコ・ザビエルの像があり、ザビエルを支える東洋人と思われる人物の姿も彫られています。カレル橋は中世に築かれた歴史的景観を今に伝える存在として、現在も多くの人々に親しまれています。
カンピドーリオの丘
Campidoglio
ローマの七丘のひとつであるカンピドーリオの丘には、イタリアを代表する広場のひとつであるカンピドーリオ広場があります。世界で最も美しい広場とも称されるこの広場は、16世紀前半にミケランジェロ・ブオナローティによって設計されたものです。ローマの都市再開発の一環として設計され、広場の正面の石段の延長線上に、ヴァティカン市国のサン・ピエトロ大聖堂が来るように配置が工夫されています。広場はヌオーヴォ宮殿(現在のカピトリーノ美術館)とセナトリオ宮殿(現在の市庁舎)、コンセルヴァトーリ宮殿に囲まれており、ミケランジェロがデザインした特徴的な舗装は、通貨ユーロの50セントコインのデザインにも採用されています。
ギエット邸
Maison Guiette
ベルギーのアントワープにあるギエット邸は、1926年に設計された画家ルネ・ギエットの住宅兼アトリエで、「レ・ププリエ(ポプラの家)」と呼ばれています。建築家ル・コルビュジエが海外で初めて受注した建築作品で、彼が提唱した住宅モデル「メゾン・シトロアン」を実際の住宅に表現した数少ない例のひとつです。「メゾン・シトロアン」は、建築部材の規格化と、「住宅は住むための機械である」という考えにもとづき、生活に必要な機能を建築に取り入れることを目指した住宅モデルです。一方、敷地が細長い形状だったこと、都市計画の規制があったこと、ギエット自身が1階で生活し庭へ直接出られる住まいを希望したことから、ル・コルビュジエ建築の特徴であるピロティは採用されませんでした。そのため、道路側にキッチンやトイレを配置した、独特の3階建て住宅になっています。
グエル公園
Park Güell / Parc Güell
かつて禿山を意味するムンタニャ・ペラーダとよばれた場所にあるグエル公園は、当初は公園としてではなく、富裕な人々への住宅地を建設する民間プロジェクトとして整備されました。実業家エウゼビ・グエルはイギリスのような公園住宅の設計を建築家アントニ・ガウディに依頼し、地形に合わせて道路、高架橋、階段などが整備され、約60区画の住宅地が設けられました。1900年に工事が開始され、ガウディは敷地内に生えていたオリーブなどの植物をそのまま活かし、住宅には海を臨む眺望を遮らない高さと周囲への日当たりにも配慮するなど、厳しい建築条件を定めました。住宅区画を最初に購入したのは、グエルの友人で弁護士のマルティ・トリアス・イ・ドメネクでした。ガウディ自身も、1906年に父親と姪と一緒に暮らすためにここへ移住しています。しかしバルセロナ中心部から遠く上り坂がある住宅の購入者は集まらず、1914年に工事は中止され、実際に建設された住宅は60戸のうち2戸だけでした。グエルの死後、この場所はバルセロナ市に売却され、1926年に市立公園として開園しました。公園内にあるガウディの家は、1963年にガウディ博物館として一般公開されています。
グエル邸
Güell Palace / Palau Güell
コロッセウム
Colosseum
暴君として知られたローマ帝国皇帝ネロが68年に帝位を追われた後、ローマは内戦状態にありました。69年に皇帝となったウェスパシアヌスは、ローマ市民の不満のはけ口となる娯楽の場を与える意味もあり、ネロ帝の宮殿「ドムス・アウレア」の庭園跡地に新しい円形闘技場の建設を決めます。70年から始まった円形闘技場の建設は、次の皇帝ティトゥスの時代まで続き、80年に完成しました。当初は、ウェスパシアヌス帝が開いたフラウィウス朝に因んで「フラウィウス円形闘技場」と呼ばれていました。しかし、円形闘技場の近くにネロ帝の巨大なブロンズ像「コロッセオ・ディ・ネローネ(ネロの巨像)」が立っていたことから、いつからか「コロッセウム」と呼ばれるようになりました。ネロ帝は暴君として知られますが、一部の市民からは死後も根強い人気があったそうです。
コロニア・グエル教会地下礼拝堂
Church Colònia Güell / Cripta de la Colònia Güell
コロニア・グエル教会地下礼拝堂は、バルセロナ市の郊外サンタ・コロマ・ダ・サルバリョにあります。繊維業で成功を収めていたエウゼビ・グエルは、自身の工場をこの場所に移転し、それに伴って工場労働者のための住居や学校、商店、劇場、教会など、街を丸ごとつくる計画を立てました。フランセスク・ベレンゲーやジョアン・ルビオなど、カタルーニャ出身の建築家が街の設計に参加し、その中で教会を任されたのがアントニ・ガウディでした。ガウディは、1898年の設計依頼から、教会の模型を作るのに10年を費やし、実際の建設工事に着手したのは1908年でした。しかし着工から6年後に依頼主のグエルが亡くなると、その跡を継いだ息子たちは教会の建設には消極的でした。さらに、ガウディ自身もサグラダ・ファミリアの建設に専念し始めていたため、完成したのは地下礼拝堂にとどまり、教会全体は未完成に終わってしまいました。
サヴォワ邸と庭師小屋
Villa Savoye et loge du jardinier
1928年、ピエール・サヴォワとウジェニー・サヴォワ夫妻は、パリ郊外のポワシーに週末を過ごすための別荘を建てることを決めました。彼らは、当時すでに前衛的な作品で知られていた建築家ル・コルビュジエに別荘の建築を依頼しました。その依頼はサヴォワ夫人からル・コルビュジエに宛てた手紙によって行われ、そこには温水設備、電気やガスの設備、照明の雰囲気や床材の指定など細かな要望が具体的に記されていました。この建築には、ル・コルビュジエの従兄弟であるピエール・ジャンヌレも協力しました。当時のポワシーはのどかな田園地帯で、別荘の敷地はセーヌ川を望む木々に囲まれた広大な草地でした。ル・コルビュジエはこの自然環境をできるだけ損なわないように、「家は草地の上に、何も乱すことなく置かれた物体のように存在するべきだ」と考え建築に取り組んだのです。
サグラダ・ファミリア贖罪聖堂
Expiatory Temple of the Sagrada Família / Temple Expiatori de la Sagrada Família
ザルツブルク大司教宮殿(レジデンツ)
Salzburg Residenz / Residenz zu Salzburg
ザルツブルクは798年に大司教座が置かれて以来、カトリック文化の一大拠点として繁栄を極めました。ザルツァハ川の左岸、旧市街の中心に建つザルツブルク大司教宮殿(レジデンツ)は、まさにその権力の象徴であり、何世紀にもわたり歴代大司教たちの政治の拠点、そして住居として機能してきました。ここを現在見られるような豪奢な姿へと生まれ変わらせる礎を築いたのが、1587年に大司教に選ばれたヴォルフ・ディートリヒ・フォン・ライテナウです。彼は25年間にわたる在位期間中、古い建物を次々と取り壊し、イタリア・ローマに比肩するような宮殿や教会、修道院を築くことに心血を注ぎました。この都市改造を支えた巨額の建造費は、かつて「白い黄金」と呼ばれた岩塩の交易でまかなわれていたのです。
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂
Cattedrale di Santa Maria del Fiore
フィレンツェのシンボルでもあるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の名前は、「花の聖母マリア大聖堂」という意味で、地名のフィレンツェ(英語名フローレンス)のラテン語の語源「フロレンス(花が咲いた)」と、都市の紋章に用いられているユリの花に由来しています。世界最大級の聖堂のひとつで、大聖堂の全長は153m、高さは92mもあります。1296年から、古い教会堂があった場所の上で新たな大聖堂の建設が始まりました。アルノルフォ・ディ・カンビオの設計に従いゴシック様式で建築が進められ、14世紀中ごろからフランチェスコ・タレンティによって拡張されて現在みられる大聖堂の基本形が完成しました。現在は3つの身廊を持つ三廊式バシリカと八角形のサン・ジョヴァンニ礼拝堂、ジョットの鐘楼で構成されています。
サント・シャペル
The Sainte Chapelle
サン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ聖堂
Basilica di San Paolo fuori le mura