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アイア・ピッコラ地区
Aja Piccola Quarter / Rione Aja Piccola
アギア・トリアダ修道院
Monastery of the Holy Trinity (Agia Triada)
ギリシャ語で「聖三位一体」を意味するアギア・トリアダ修道院は、標高約565mの奇岩の上に立ちます。メテオラで最も古い修道院のひとつで、1438年に修道士ドゥメティオスによって建造されたと考えられていますが、1362年にはすでに修道院として存在していたという記述もあります。修道院の主聖堂(カトリコン)は1475~76年にかけて建てられました。聖堂にはイコノスタシスやフレスコ画は17~18世紀に描かれたものです。また、17世紀に建設された洗礼者ヨハネに捧げる円形堂形式の礼拝堂もあります。他にも修道院はいくつかありますが、四方が断崖絶壁で囲まれているためか、絵葉書などにもよく使用される修道院であり、メテオラで最も絵になる修道院とも言われています。
アギオス・ステファノス修道院
Monastery of Saint Stephen (Agios Stefanos)
アランフエス王宮
Royal Palace of Aranjuez / Palacio Real de Aranjuez
「アランフエス王宮」は、マドリードの南約30km、タホ川とハラマ川が合流する平野部に位置し、総面積1.1㎢もの広大な庭園に囲まれています。15世紀末に終結したレコンキスタ(国土回復運動)以降、アランフエスはサンティアゴ騎士団の所有地であり、その総長は現在の王宮がある場所に邸宅を構えていました。イサベル1世の時代に、総長の地位が君主の地位に統合されたことで、アランフエスの領地は王室資産の一部となりました。1561年、スペイン国王フェリペ2世は、父である神聖ローマ帝国皇帝カール5世(スペイン国王カルロス1世)の計画を引き継ぎ、アランフエスにあった古い邸宅の建て替えを命じました。建築家フアン・バウティスタ・デ・トレドは、まず庭園や農地を区切る並木道を設計し、アランフエスをイタリア風の邸宅に改築します。これが現在の王宮の前身となり、フェリペ2世と王妃のお気に入りの夏の離宮でした。さらにトレドによって礼拝堂の建設が始まり、マドリードのエル・エスコリアール修道院を手掛けた建築家フアン・デ・エレーラの手によって完成されます。数年後には、建築家フアン・デ・ミンハレスの指揮のもと、王宮本体の建設が始まりました。1598年、フェリペ2世が亡くなる時点では、礼拝堂を持つ南塔と、南側および西側正面(ファサード)の大部分が完成しています。
アンヴァリッド
The Hôtel des Invalides
アンドラーシ通り
Andrássy Avenue / Andrássy út
アンネ・フランクの家
Anne Frank House / Anne Frank Huis
プリンセン運河沿いにある「アンネ・フランクの家」は、1635年に建てられその後増築された家屋で、アンネ・フランクの父親の仕事場でした。フランク一家は、もともとドイツのフランクフルトの裕福なユダヤ人一家でしたが、ナチスによるユダヤ人迫害を恐れ、アムステルダムに移り住みました。しかし、オランダがナチス・ドイツに占領され、ここでも「ユダヤ人狩り」が頻繁に行われるようになると、一家は18世紀に増築されたこの家の屋根裏部分に隠れ住み、潜伏生活を送ることになります。そこでは、同じくドイツからアムステルダムに移住してきたファン・ペルス一家と、フリッツ・プフェファーの計8人でおよそ2年間生活を続けましたが、ついに1944年にナチスの秘密警察(ゲシュタポ)に発見され、アウシュヴィッツ強制収容所に送られました。この潜伏の間(1942年~1944年)の日々を綴ったものが「アンネの日記」です。現在、家の内部は公開されており、隠れ家に通じる入口を隠した回転式本棚や日記を綴った屋根裏部屋なども見ることができます。
イパパンティ修道院
Monastery of the Presentation of Jesus Christ (Ypapanti)
ヴェッキオ宮殿
Palazzo Vecchio
ヴァイセンホフ・ジードルングの住宅
Maisons de la Weissenhof-Siedlung
ヴァティカン図書館
Vatican Apostolic Library / Biblioteca Apostolica Vaticana
ヴァティカン美術館
Vatican Museums / Musei Vaticani
ヴァルラーム修道院
Monastery of Varlaam
ウィーン国立歌劇場
Vienna State Opera / Wiener Staatsoper
ウィーン国立歌劇場は、1869年にハプスブルク帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の時代に開場した、世界屈指のオペラハウスです。ネオ・ルネサンス様式で建設され、リング通りを代表する建築のひとつとして知られています。しかし、華やかな歴史だけではなく、第二次世界大戦中のナチス政権下では芸術活動への統制が強まり、多くの芸術家が厳しい状況に置かれました。1944年には戦争の影響で劇場も閉鎖され、1945年の空襲では舞台や客席を含む建物の大部分が焼失します。長年使用されてきた舞台装置や大量の衣装も失われました。その後、約10年に及ぶ修復を経て1955年に再開場します。戦争を乗り越え、“ウィーン文化復興の象徴”として再び人々を迎えています。
ヴィエリチカ岩塩坑
Wieliczka Salt Mine / Kopalnia Soli Wieliczka
ポーランドの古都クラクフの南東15㎞に位置するヴィエリチカ岩塩坑は、13世紀頃から本格的な採掘が始まった岩塩採掘所です。2,000万年前は海だったこの場所は、地殻変動により長い年月をかけて広大な岩塩層へと変化しました。新石器時代は、ここから汲み上げられた塩水から塩が得られており、ヴィエリチカの近くにあるバリチ村から、中央ヨーロッパで最も古い製塩道具が発見されています。その後何世紀もの間、製塩技術は代々受け継がれ、製塩に携わる人々は専門的な職業集団を形成していきました。得られた塩は肉や魚の保存料として、さらに周辺地域に住む人々との交易の決済手段としても使われていました。11~12世紀頃、塩水の湧き出る量が減少したため、井戸を掘って塩水の捜索が開始されました。13世紀に入り、掘り進めていた井戸の1つから最初の岩塩の塊が偶然発見され、これにより採掘によって塩を得ることが可能になったのです。地下へと続く最初の坑道は、13世紀の後半から開削が始められています。12世紀末にポーランド王カジミエシュ2世がこの地に城塞を築き、14世紀に「大王」と呼ばれたカジミエシュ3世がヴィエリチカの採掘権を独占しました。岩塩の収益は当時のポーランド王国の財源の3分の1にもなり、その一部はポーランド最初の大学であるクラクフ大学設置に役立てられたとされています。1368年には製塩所条例が発布され、以後数十年にわたる岩塩坑の安定した発展につながりました。しかしながら、中世の岩塩採掘はまだ季節労働で、採掘は農作業が行われない月だけ行われていたため、15世紀の終わりまで、岩塩坑には4つの採掘坑道と1つの地下層しかありませんでした。その一方で、ヴィエリチカは観光地としても有名になっていました。記録に残る当時の観光客の一人は、ニコラウス・コペルニクスです。彼は1493年に岩塩坑を訪れており、この出来事を記念して、その名前が付けられた部屋には彼の塩の像が設置されています。
ヴィエリチカ製塩所博物館
Cracow Saltworks Museum in Wieliczka / Muzeum Żup Krakowskich Wieliczka
ウフィツィ美術館
Galleria degli Uffizi
コジモ1世は、フィレンツェのさまざまな場所に点在していた行政機関を一カ所にまとめることを目的に、ジョルジョ・ヴァザーリに行政庁舎の建設計画を依頼します。1560年に始まった建設は、13の事務所が集められ1580年に完成しました。ウフィッツィというのは、イタリア語のオフィス(ウフィッチオ)の複数形です。コジモ1世はヴェッキオ宮殿とピッティ宮殿を結ぶ回廊の建設も命じ、1565年にはフランソワ1世とジョアンナの結婚を記念してウフィッツィとピッティ宮殿を結ぶヴァザーリの回廊も建設されました。フランチェスコ1世はウフィッツィの最上階を美術品の展示スペースとし、フランチェスコ1世の後を継いだ弟のフェルディナンド1世は、コジモ1世の遺言に従い肖像画コレクションをヴェッキオ宮殿からウフィッツィに移しました。1737年にメディチ家のジャン・ガストーネ大公が後継者を残さずに亡くなると、妹のアンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチは「メディチ家の財産はフィレンツェのもの」として美術品コレクションの全てをフィレンツェ市に遺贈し、ウフィッツィ美術館として公開されています。
エッフェル塔
The Eiffel Tower
フランス革命100周年を記念する1889年のパリ万博の目玉に決まったのが、ギュスターヴ・エッフェルが率いるエッフェル社が出した、当時の世界最高の高さを誇る鉄塔案でした。エッフェルは、アメリカ合衆国の世界遺産になっている『自由の女神像』の内部構造や、ポルトガル共和国のポルトにある「マリア・ピア橋」などを設計しており技術力が認められていました。1887年1月26日に建設が開始されると、わずか2年2カ月と5日後の1889年3月31日に記録的な速さで完成しました。5,300枚の図面を基に、150人の工場労働者、約300人の現場労働者が、鉄7,300トン、リベット(ネジ)250万個、塗料60トンを使って完成させました。
オルセー美術館
The Musée d'Orsay
オルセー美術館のある場所には19世紀に建てられたオルセー宮殿がありましたが、19世紀末の激動の時代に焼失し、そのまま放置されていました。その地を活用したのが、1900年のパリ万博です。万博を訪れる人々のための駅舎兼ホテルとして建て直されました。その駅舎が美術館として生まれ変わったのは1986年のことです。現在ではパリの新しい名所として多くの人が訪れています。ジャン・フランソワ・ミレーの「落穂ひろい」やクロード・モネの「日傘の女」、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの「自画像」、オーギュスト・ルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」などの絵画作品のほか、フランソワ・ポンポンの「白熊」など、近代の作品を中心に現代の作品もコレクションに含んでいます。
カーサ・ダモーレ
Casa d'Amore
カーサ・ダモーレは、アルベロベッロで初めてモルタルを用いて建てられた建造物です。かつてアルベロベッロでは、家屋に応じて税金が課されていたため、領主は恒久的な建物の建設を禁じ、すぐに解体できる建物を建てることで課税から逃れようとしていました。そのため、建物はモルタルを使わず、石を積み上げるだけの「乾式石積み(ドライストーン工法)」で建てられていました。1797年、ブルボン家のナポリ国王フェルディナンド4世によって、アルベロベッロが王立都市として認められると、フランチェスコ・ダモーレという人物が初めてモルタルを用いて家を建てました。カーサ・ダモーレの壁に刻まれたラテン語の碑文には、「王の許可によって最初に建てられた建物」と記されています。これ以降、トゥルッリやその他の建物は、この地域特有の赤土を混ぜて作られた「マルタ」と呼ばれるモルタルを使用して建てられるようになったのです。カーサ・ダモーレは、アルベロベッロにおける封建的な支配からの転換を象徴する建物です。
カーサ・ペッツォッラ領土博物館
Museum of the Territory - Doctor Giacomo Pezzolla's house / Museo del Territorio Casa Dottor Giacomo Giuseppe Pezzolla
カサ・ヴィセンス
Casa Vicens
カサ・バトリョ
Casa Batlló
カサ・バトリョが立つバルセロナのグラシア通り43番地は、スペイン語で「地区」と「リンゴ」が同じ綴りであることから、「不和のリンゴ」と皮肉られる場所でした。当時成長しつつあった富裕層が競い合うように著名な建築家に設計を依頼し、ガウディのライバルとされたリュイス・ドメネク・モンタネールによるカサ・リュオ・モレラや、ジョセップ・プッチ・イ・カダファルクによるカサ・アマトレなど個性豊かな建物が並んでいます。もとの建物は1877年、建築家エミリ・サラ・コルテスによって建てられました。1903年、繊維業者のジョセップ・バトリョ・イ・カサノバスがこの建物を購入し、建築家アントニ・ガウディに色使いや外観も含めた大胆な改築を依頼しました。周囲の建物を意識しながらも独創的に設計されたカサ・バトリョは、「骨の家」「仮面の家」「ドラゴンの家」など、さまざまな愛称で親しまれる建物となりました。
カサ・ミラ
Casa Milà "La Pedrera"
カサ・ミラは建築家アントニ・ガウディが彼独自の手法を確立した円熟期にあたる1906年から1912年にかけて建設され、ガウディにとって最後の個人注文主による建築物となりました。バルセロナのグラシアス通りに、オーナーのペレ・ミラとロサリオ・セギモンの住居を1階に、2階から5階には王侯、外交官、起業家、俳優、芸術家、政治家、ジャーナリストなど多彩な人たちが住む賃貸用共同住宅として完成しました。しかし当初、カサ・ミラの革新性は理解されず、新聞にはカタルーニャ語で「ラ・ペドレーラ(石切り場)」と酷評され、その装飾が気に入らなかったロサリオ・セギモンは、ガウディの死後、自分の階の一部を取り壊すように命じたこともありました。スペイン内戦中に共和国政府に押収されて各部門の本部が置かれた時代もありましたが、現在は賃貸住宅やオフィス、店舗としての入居も行われ、博物館となっている最上階と屋上や住居部分の一部は見学することができます。
カレル大学
Charles University / Univerzita Karlova
カレル橋
Charles Bridge / Karlův most
カレル橋は、チェコの首都プラハを流れるヴルタヴァ川に架かる、中世ヨーロッパを代表する石橋のひとつです。もともとこの場所には12世紀に建設された別の橋が架かっていましたが、1342年の洪水で被害を受けてしまいます。1357年、神聖ローマ皇帝カレル4世の命により新たな橋としてカレル橋の建設が始まり、15世紀初頭に完成しました。その後、橋は旧市街とプラハ城を結ぶ重要な役割を担い、商人や王族、巡礼者など多くの人々が行き交いました。全長およそ516mの橋には、17~18世紀を中心に設置された30体の聖人像が並んでいます。特に、14世紀のボヘミア司祭の聖ヤン・ネポムツキー像は有名で、像の台座に触れると幸運が訪れると言われていることから、観光客が多く訪れています。また、アジアで宣教を行ったフランシスコ・ザビエルの像があり、ザビエルを支える東洋人と思われる人物の姿も彫られています。カレル橋は中世に築かれた歴史的景観を今に伝える存在として、現在も多くの人々に親しまれています。
カンピドーリオの丘
Campidoglio
ローマの七丘のひとつであるカンピドーリオの丘には、イタリアを代表する広場のひとつであるカンピドーリオ広場があります。世界で最も美しい広場とも称されるこの広場は、16世紀前半にミケランジェロ・ブオナローティによって設計されたものです。ローマの都市再開発の一環として設計され、広場の正面の石段の延長線上に、ヴァティカン市国のサン・ピエトロ大聖堂が来るように配置が工夫されています。広場はヌオーヴォ宮殿(現在のカピトリーノ美術館)とセナトリオ宮殿(現在の市庁舎)、コンセルヴァトーリ宮殿に囲まれており、ミケランジェロがデザインした特徴的な舗装は、通貨ユーロの50セントコインのデザインにも採用されています。
ギエット邸
Maison Guiette
ベルギーのアントワープにあるギエット邸は、1926年に設計された画家ルネ・ギエットの住宅兼アトリエで、「レ・ププリエ(ポプラの家)」と呼ばれています。建築家ル・コルビュジエが海外で初めて受注した建築作品で、彼が提唱した住宅モデル「メゾン・シトロアン」を実際の住宅に表現した数少ない例のひとつです。「メゾン・シトロアン」は、建築部材の規格化と、「住宅は住むための機械である」という考えにもとづき、生活に必要な機能を建築に取り入れることを目指した住宅モデルです。一方、敷地が細長い形状だったこと、都市計画の規制があったこと、ギエット自身が1階で生活し庭へ直接出られる住まいを希望したことから、ル・コルビュジエ建築の特徴であるピロティは採用されませんでした。そのため、道路側にキッチンやトイレを配置した、独特の3階建て住宅になっています。
グエル公園
Park Güell / Parc Güell
かつて禿山を意味するムンタニャ・ペラーダとよばれた場所にあるグエル公園は、当初は公園としてではなく、富裕な人々への住宅地を建設する民間プロジェクトとして整備されました。実業家エウゼビ・グエルはイギリスのような公園住宅の設計を建築家アントニ・ガウディに依頼し、地形に合わせて道路、高架橋、階段などが整備され、約60区画の住宅地が設けられました。1900年に工事が開始され、ガウディは敷地内に生えていたオリーブなどの植物をそのまま活かし、住宅には海を臨む眺望を遮らない高さと周囲への日当たりにも配慮するなど、厳しい建築条件を定めました。住宅区画を最初に購入したのは、グエルの友人で弁護士のマルティ・トリアス・イ・ドメネクでした。ガウディ自身も、1906年に父親と姪と一緒に暮らすためにここへ移住しています。しかしバルセロナ中心部から遠く上り坂がある住宅の購入者は集まらず、1914年に工事は中止され、実際に建設された住宅は60戸のうち2戸だけでした。グエルの死後、この場所はバルセロナ市に売却され、1926年に市立公園として開園しました。公園内にあるガウディの家は、1963年にガウディ博物館として一般公開されています。
グエル邸
Güell Palace / Palau Güell