Properties & Sights

ヨーロッパ | 構成資産・みどころ一覧

アイア・ピッコラ地区

Aja Piccola Quarter / Rione Aja Piccola
アイア・ピッコラ地区
アルベロベッロの南東の斜面に位置する「アイア・ピッコラ地区」は、「小さな脱穀場」という意味を持つ場所です。その名前は、かつてこの場所に収穫した作物を脱穀するための小さな共同広場があり、そこが「十分の一税」と呼ばれる収穫税を徴収する場所として使われていたことに由来します。現在、590棟のトゥルッリが残るこの地区は、アルベロベッロの中で最も落ち着いた雰囲気を残す場所として知られています。今も多くの人々が暮らしていて、昔ながらの静かな生活を感じることができます。
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アンヴァリッド

The Hôtel des Invalides
アンヴァリッド
アンヴァリッドは4,000人の傷痍軍人のための療養所として、1670年にルイ14世の命で建設されました。アンヴァリッドには、病院や兵舎だけでなく、ホスピスや修道院も含まれ、王のために戦い傷ついた兵士だけでなく、戦地から戻り好き勝手に放蕩生活を送る兵士を収容する意味もありました。1706年に完成したアンヴァリッドを象徴する黄金のドーム(礼拝堂)は、ルイ9世の棺を安置するために築かれました。地下墓所にはナポレオン1世の棺も置かれています。またアンヴァリッドは、現在でも100名ほどの傷痍軍人が生活する現役の施設でもあります。
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アンドラーシ通り

Andrássy Avenue / Andrássy út
アンドラーシ通り
アンドラーシ通りは、エルジェーベト広場から英雄広場に延びる通りで、19世紀後半から行われるようになった計画的な都市開発の象徴です。この通りの敷設は、未整備であった郊外エリアを直線的に貫くことで、都市の構造を根本的に変革した意味において重要な意味を持つ存在です。中心街から郊外に向けて延びる道は区間ごとに幅が変わり、建物の高さは徐々に低くなり、中心部の連続した建物から郊外付近の独立したヴィラへの変化を見せています。道路や建物の連続的な変化によって、人工的な建築環境から自然環境へとスムーズに誘導する仕組みを形成しています。
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ヴェッキオ宮殿

Palazzo Vecchio
ヴェッキオ宮殿
ヴェッキオ宮殿は、アルノルフォ・ディ・カンビオの設計で1298年から建設が始まりました。ローマ教皇を支持するゲルフ(教皇派)に敗れた、神聖ローマ皇帝を支持するギベリン(皇帝派)の貴族の邸宅跡に建てられたプリオーリ宮殿(政務官の宮殿)を増築する形で建設され、権力の象徴として建てられた高くそびえる塔はアルノルフォの塔とも呼ばれます。シニョーリア宮殿(領主の宮殿)と呼ばれていましたが、1540年からコジモ1世の邸宅として使用され、新たにピッティ宮殿が建設されてコジモ1世がそちらに移ってからは、ヴェッキオ宮殿(古い宮殿)と呼ばれるようになりました。
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ヴァイセンホフ・ジードルングの住宅

Maisons de la Weissenhof-Siedlung
ヴァイセンホフ・ジードルングの住宅
ドイツ南西部のシュトゥットガルトにあるヴァイセンホフ・ジードルングの住宅は、大量生産できる現代住宅のモデルとして、1927年に開催されたジードルング住宅建築展に出展されました。この建築展はミース・ファン・デル・ローエが開催したもので、当時ヨーロッパで注目されていた17人の建築家が招集されました。そのなかには、バウハウスを開設したヴァルター・グロピウスや、ベルリンのモダニズム公共住宅を設計したブルーノ・タウトなども含まれていました。ミース・ファン・デル・ローエは、建物の条件として堅牢かつ機能的であることと、労働者のニーズを満たし、平屋根であることなどを求めていました。
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ヴァティカン図書館

Vatican Apostolic Library / Biblioteca Apostolica Vaticana
ヴァティカン図書館
ヴァティカン図書館は15世紀に設立された、世界最古の図書館のひとつです。その起源は4世紀には存在した図書館兼文書館に遡ります。13世紀前半にもともとの図書館兼文書館が失われた後、カトリック・ローマ教皇の座がアヴィニョンへ移された「アヴィニョン捕囚」を経て、ローマ復帰後の教皇たちの手によって再設立されました。15世紀には図書館は4つの部屋に分けられ、それぞれラテン語資料、ギリシャ語資料、閲覧制限のある資料、教皇の書簡などを収蔵していました。書籍や資料はその場で閲覧できるほか、厳格な規則のもとで貸し出しも許されていました。
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ヴァティカン美術館

Vatican Museums / Musei Vaticani
ヴァティカン美術館
16世紀初頭に在位した第216代ローマ教皇ユリウス2世は、自身が所蔵する芸術作品を展示するために「ヴァティカン美術館」の基盤となる建物の整備を始めました。1503年、教皇は建築家ドナート・ブラマンテに、ヴァティカン宮殿の修築を依頼しました。この修築には、壮大な「ベルヴェデーレの中庭」とそれに隣接する「彫像の中庭」の建設が含まれていました。彫刻の中庭の壁に設けられたくぼみには、『ラオコーン』や『ベルヴェデーレのアポロン』といった傑作を含む、古代彫像の教皇コレクションが飾られました。こうしてこの場所が、今日のヴァティカン美術館の最初の展示室となったのです。
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ウィーン国立歌劇場

Vienna State Opera / Wiener Staatsoper
ウィーン国立歌劇場
ウィーン国立歌劇場は、1869年にハプスブルク帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の時代に開場した、世界屈指のオペラハウスです。ネオ・ルネサンス様式で建設され、リング通りを代表する建築のひとつとして知られています。しかし、華やかな歴史だけではなく、第二次世界大戦中のナチス政権下では芸術活動への統制が強まり、多くの芸術家が厳しい状況に置かれました。1944年には戦争の影響で劇場も閉鎖され、1945年の空襲では舞台や客席を含む建物の大部分が焼失します。長年使用されてきた舞台装置や大量の衣装も失われました。その後、約10年に及ぶ修復を経て1955年に再開場します。戦争を乗り越え、“ウィーン文化復興の象徴”として再び人々を迎えています。
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ウフィツィ美術館

Galleria degli Uffizi
ウフィツィ美術館
コジモ1世は、フィレンツェのさまざまな場所に点在していた行政機関を一カ所にまとめることを目的に、ジョルジョ・ヴァザーリに行政庁舎の建設計画を依頼します。1560年に始まった建設は、13の事務所が集められ1580年に完成しました。ウフィッツィというのは、イタリア語のオフィス(ウフィッチオ)の複数形です。コジモ1世はヴェッキオ宮殿とピッティ宮殿を結ぶ回廊の建設も命じ、1565年にはフランソワ1世とジョアンナの結婚を記念してウフィッツィとピッティ宮殿を結ぶヴァザーリの回廊も建設されました。フランチェスコ1世はウフィッツィの最上階を美術品の展示スペースとし、フランチェスコ1世の後を継いだ弟のフェルディナンド1世は、コジモ1世の遺言に従い肖像画コレクションをヴェッキオ宮殿からウフィッツィに移しました。1737年にメディチ家のジャン・ガストーネ大公が後継者を残さずに亡くなると、妹のアンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチは「メディチ家の財産はフィレンツェのもの」として美術品コレクションの全てをフィレンツェ市に遺贈し、ウフィッツィ美術館として公開されています。
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エッフェル塔

The Eiffel Tower
エッフェル塔
フランス革命100周年を記念する1889年のパリ万博の目玉に決まったのが、ギュスターヴ・エッフェルが率いるエッフェル社が出した、当時の世界最高の高さを誇る鉄塔案でした。エッフェルは、アメリカ合衆国の世界遺産になっている『自由の女神像』の内部構造や、ポルトガル共和国のポルトにある「マリア・ピア橋」などを設計しており技術力が認められていました。1887年1月26日に建設が開始されると、わずか2年2カ月と5日後の1889年3月31日に記録的な速さで完成しました。5,300枚の図面を基に、150人の工場労働者、約300人の現場労働者が、鉄7,300トン、リベット(ネジ)250万個、塗料60トンを使って完成させました。
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オルセー美術館

The Musée d'Orsay
オルセー美術館
オルセー美術館のある場所には19世紀に建てられたオルセー宮殿がありましたが、19世紀末の激動の時代に焼失し、そのまま放置されていました。その地を活用したのが、1900年のパリ万博です。万博を訪れる人々のための駅舎兼ホテルとして建て直されました。その駅舎が美術館として生まれ変わったのは1986年のことです。現在ではパリの新しい名所として多くの人が訪れています。ジャン・フランソワ・ミレーの「落穂ひろい」やクロード・モネの「日傘の女」、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの「自画像」、オーギュスト・ルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」などの絵画作品のほか、フランソワ・ポンポンの「白熊」など、近代の作品を中心に現代の作品もコレクションに含んでいます。
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カーサ・ダモーレ

Casa d'Amore
カーサ・ダモーレ
カーサ・ダモーレは、アルベロベッロで初めてモルタルを用いて建てられた建造物です。かつてアルベロベッロでは、家屋に応じて税金が課されていたため、領主は恒久的な建物の建設を禁じ、すぐに解体できる建物を建てることで課税から逃れようとしていました。そのため、建物はモルタルを使わず、石を積み上げるだけの「乾式石積み(ドライストーン工法)」で建てられていました。1797年、ブルボン家のナポリ国王フェルディナンド4世によって、アルベロベッロが王立都市として認められると、フランチェスコ・ダモーレという人物が初めてモルタルを用いて家を建てました。カーサ・ダモーレの壁に刻まれたラテン語の碑文には、「王の許可によって最初に建てられた建物」と記されています。これ以降、トゥルッリやその他の建物は、この地域特有の赤土を混ぜて作られた「マルタ」と呼ばれるモルタルを使用して建てられるようになったのです。カーサ・ダモーレは、アルベロベッロにおける封建的な支配からの転換を象徴する建物です。
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カーサ・ペッツォッラ領土博物館

Museum of the Territory - Doctor Giacomo Pezzolla's house / Museo del Territorio Casa Dottor Giacomo Giuseppe Pezzolla
カーサ・ペッツォッラ領土博物館
「カーサ・ペッツォッラ領土博物館」の名前は、18世紀後半にアラゴン家のアクアヴィーヴァ伯爵の主治医を務めた、医師ジャコモ・ペッツォッラに由来しています。かつてペッツォッラの邸宅だったこの建物は、2つの部分で構成されています。ひとつは、正面部分が縦に細長く、上部に四角い飾り屋根を持つ、2階建ての比較的新しい建物です。もうひとつは、15棟の伝統的なトゥルッリが連なる最も古い部分です。博物館の展示からは、アルベロベッロの歴史をはじめ、主な農業生産活動、建築技術、そして住民の日常生活について学ぶことができます。
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カサ・ヴィセンス

Casa Vicens
カサ・ヴィセンス
カサ・ヴィセンスは、バルセロナの郊外グラシア地区にあります。1883年から1888年にかけて、通貨取引業者で株式仲買人のマヌエル・ヴィセンスと妻ドロルス・ヒラルトの夏の別荘として、若きガウディによって設計されました。この場所は当時グラシア村とよばれた農村でしたが、急速に都市化するバルセロナの労働者や中流階級の人々が移り住む地区として発展しました。30歳の若いガウディにとって初めての住宅建築であり、彼の建築家としての出発点ともいえる場所です。
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カサ・バトリョ

Casa Batlló
カサ・バトリョ
カサ・バトリョが立つバルセロナのグラシア通り43番地は、スペイン語で「地区」と「リンゴ」が同じ綴りであることから、「不和のリンゴ」と皮肉られる場所でした。当時成長しつつあった富裕層が競い合うように著名な建築家に設計を依頼し、ガウディのライバルとされたリュイス・ドメネク・モンタネールによるカサ・リュオ・モレラや、ジョセップ・プッチ・イ・カダファルクによるカサ・アマトレなど個性豊かな建物が並んでいます。もとの建物は1877年、建築家エミリ・サラ・コルテスによって建てられました。1903年、繊維業者のジョセップ・バトリョ・イ・カサノバスがこの建物を購入し、建築家アントニ・ガウディに色使いや外観も含めた大胆な改築を依頼しました。周囲の建物を意識しながらも独創的に設計されたカサ・バトリョは、「骨の家」「仮面の家」「ドラゴンの家」など、さまざまな愛称で親しまれる建物となりました。
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カサ・ミラ

Casa Milà "La Pedrera"
カサ・ミラ
カサ・ミラは建築家アントニ・ガウディが彼独自の手法を確立した円熟期にあたる1906年から1912年にかけて建設され、ガウディにとって最後の個人注文主による建築物となりました。バルセロナのグラシアス通りに、オーナーのペレ・ミラとロサリオ・セギモンの住居を1階に、2階から5階には王侯、外交官、起業家、俳優、芸術家、政治家、ジャーナリストなど多彩な人たちが住む賃貸用共同住宅として完成しました。しかし当初、カサ・ミラの革新性は理解されず、新聞にはカタルーニャ語で「ラ・ペドレーラ(石切り場)」と酷評され、その装飾が気に入らなかったロサリオ・セギモンは、ガウディの死後、自分の階の一部を取り壊すように命じたこともありました。スペイン内戦中に共和国政府に押収されて各部門の本部が置かれた時代もありましたが、現在は賃貸住宅やオフィス、店舗としての入居も行われ、博物館となっている最上階と屋上や住居部分の一部は見学することができます。
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カレル大学

Charles University / Univerzita Karlova
カレル大学
カレル大学は、1348年にボヘミア王であり神聖ローマ皇帝でもあったカレル4世によって創設された大学です。ボローニャ大学やパリ大学を手本として設立され、アルプス以北・パリ以東で最初の「ストゥディウム・ゲネラーレ(国際的な大学)」となりました。創設当初は神学・法学・医学・教養学の4学部で構成され、ヨーロッパ各地から学生や学者が集まる学術拠点となりました。カレル大学は、黄金時代を築いたカレル4世の時代を象徴する存在のひとつとして知られています。
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カレル橋

Charles Bridge / Karlův most
カレル橋
カレル橋は、チェコの首都プラハを流れるヴルタヴァ川に架かる、中世ヨーロッパを代表する石橋のひとつです。もともとこの場所には12世紀に建設された別の橋が架かっていましたが、1342年の洪水で被害を受けてしまいます。1357年、神聖ローマ皇帝カレル4世の命により新たな橋としてカレル橋の建設が始まり、15世紀初頭に完成しました。その後、橋は旧市街とプラハ城を結ぶ重要な役割を担い、商人や王族、巡礼者など多くの人々が行き交いました。全長およそ516mの橋には、17~18世紀を中心に設置された30体の聖人像が並んでいます。特に、14世紀のボヘミア司祭の聖ヤン・ネポムツキー像は有名で、像の台座に触れると幸運が訪れると言われていることから、観光客が多く訪れています。また、アジアで宣教を行ったフランシスコ・ザビエルの像があり、ザビエルを支える東洋人と思われる人物の姿も彫られています。カレル橋は中世に築かれた歴史的景観を今に伝える存在として、現在も多くの人々に親しまれています。
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カンピドーリオの丘

Campidoglio
カンピドーリオの丘
ローマの七丘のひとつであるカンピドーリオの丘には、イタリアを代表する広場のひとつであるカンピドーリオ広場があります。世界で最も美しい広場とも称されるこの広場は、16世紀前半にミケランジェロ・ブオナローティによって設計されたものです。ローマの都市再開発の一環として設計され、広場の正面の石段の延長線上に、ヴァティカン市国のサン・ピエトロ大聖堂が来るように配置が工夫されています。広場はヌオーヴォ宮殿(現在のカピトリーノ美術館)とセナトリオ宮殿(現在の市庁舎)、コンセルヴァトーリ宮殿に囲まれており、ミケランジェロがデザインした特徴的な舗装は、通貨ユーロの50セントコインのデザインにも採用されています。
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ギエット邸

Maison Guiette
ギエット邸
ベルギーのアントワープにあるギエット邸は、1926年に設計された画家ルネ・ギエットの住宅兼アトリエで、「レ・ププリエ(ポプラの家)」と呼ばれています。建築家ル・コルビュジエが海外で初めて受注した建築作品で、彼が提唱した住宅モデル「メゾン・シトロアン」を実際の住宅に表現した数少ない例のひとつです。「メゾン・シトロアン」は、建築部材の規格化と、「住宅は住むための機械である」という考えにもとづき、生活に必要な機能を建築に取り入れることを目指した住宅モデルです。一方、敷地が細長い形状だったこと、都市計画の規制があったこと、ギエット自身が1階で生活し庭へ直接出られる住まいを希望したことから、ル・コルビュジエ建築の特徴であるピロティは採用されませんでした。そのため、道路側にキッチンやトイレを配置した、独特の3階建て住宅になっています。
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グエル公園

Park Güell / Parc Güell
グエル公園
かつて禿山を意味するムンタニャ・ペラーダとよばれた場所にあるグエル公園は、当初は公園としてではなく、富裕な人々への住宅地を建設する民間プロジェクトとして整備されました。実業家エウゼビ・グエルはイギリスのような公園住宅の設計を建築家アントニ・ガウディに依頼し、地形に合わせて道路、高架橋、階段などが整備され、約60区画の住宅地が設けられました。1900年に工事が開始され、ガウディは敷地内に生えていたオリーブなどの植物をそのまま活かし、住宅には海を臨む眺望を遮らない高さと周囲への日当たりにも配慮するなど、厳しい建築条件を定めました。住宅区画を最初に購入したのは、グエルの友人で弁護士のマルティ・トリアス・イ・ドメネクでした。ガウディ自身も、1906年に父親と姪と一緒に暮らすためにここへ移住しています。しかしバルセロナ中心部から遠く上り坂がある住宅の購入者は集まらず、1914年に工事は中止され、実際に建設された住宅は60戸のうち2戸だけでした。グエルの死後、この場所はバルセロナ市に売却され、1926年に市立公園として開園しました。公園内にあるガウディの家は、1963年にガウディ博物館として一般公開されています。
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グエル邸

Güell Palace / Palau Güell
グエル邸
グエル邸は、1886年から1890年にかけて、バルセロナ中心部に実業家エウゼビ・グエル一家の住居と当時の富裕層が集まる社交空間として、建築家アントニ・ガウディによって設計されました。1918年のグエルの死後、邸宅は未亡人や相続人たちに受け継がれたのち、スペイン内戦中は警察署として使われた時期もありました。1944年アメリカの大富豪から邸宅の石材を一つずつ解体して自国に移築したいという申し出がありましたが、1945年グエルの末娘であるメルセ・イ・ロペスは、終身年金と建物を保存して文化的目的で使用する条件で邸宅をバルセロナ州議会に寄贈しました。
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コロッセウム

Colosseum
コロッセウム
暴君として知られたローマ帝国皇帝ネロが68年に帝位を追われた後、ローマは内戦状態にありました。69年に皇帝となったウェスパシアヌスは、ローマ市民の不満のはけ口となる娯楽の場を与える意味もあり、ネロ帝の宮殿「ドムス・アウレア」の庭園跡地に新しい円形闘技場の建設を決めます。70年から始まった円形闘技場の建設は、次の皇帝ティトゥスの時代まで続き、80年に完成しました。当初は、ウェスパシアヌス帝が開いたフラウィウス朝に因んで「フラウィウス円形闘技場」と呼ばれていました。しかし、円形闘技場の近くにネロ帝の巨大なブロンズ像「コロッセオ・ディ・ネローネ(ネロの巨像)」が立っていたことから、いつからか「コロッセウム」と呼ばれるようになりました。ネロ帝は暴君として知られますが、一部の市民からは死後も根強い人気があったそうです。
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コロニア・グエル教会地下礼拝堂

Church Colònia Güell / Cripta de la Colònia Güell
コロニア・グエル教会地下礼拝堂
コロニア・グエル教会地下礼拝堂は、バルセロナ市の郊外サンタ・コロマ・ダ・サルバリョにあります。繊維業で成功を収めていたエウゼビ・グエルは、自身の工場をこの場所に移転し、それに伴って工場労働者のための住居や学校、商店、劇場、教会など、街を丸ごとつくる計画を立てました。フランセスク・ベレンゲーやジョアン・ルビオなど、カタルーニャ出身の建築家が街の設計に参加し、その中で教会を任されたのがアントニ・ガウディでした。ガウディは、1898年の設計依頼から、教会の模型を作るのに10年を費やし、実際の建設工事に着手したのは1908年でした。しかし着工から6年後に依頼主のグエルが亡くなると、その跡を継いだ息子たちは教会の建設には消極的でした。さらに、ガウディ自身もサグラダ・ファミリアの建設に専念し始めていたため、完成したのは地下礼拝堂にとどまり、教会全体は未完成に終わってしまいました。
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サヴォワ邸と庭師小屋

Villa Savoye et loge du jardinier
サヴォワ邸と庭師小屋
1928年、ピエール・サヴォワとウジェニー・サヴォワ夫妻は、パリ郊外のポワシーに週末を過ごすための別荘を建てることを決めました。彼らは、当時すでに前衛的な作品で知られていた建築家ル・コルビュジエに別荘の建築を依頼しました。その依頼はサヴォワ夫人からル・コルビュジエに宛てた手紙によって行われ、そこには温水設備、電気やガスの設備、照明の雰囲気や床材の指定など細かな要望が具体的に記されていました。この建築には、ル・コルビュジエの従兄弟であるピエール・ジャンヌレも協力しました。当時のポワシーはのどかな田園地帯で、別荘の敷地はセーヌ川を望む木々に囲まれた広大な草地でした。ル・コルビュジエはこの自然環境をできるだけ損なわないように、「家は草地の上に、何も乱すことなく置かれた物体のように存在するべきだ」と考え建築に取り組んだのです。
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サグラダ・ファミリア贖罪聖堂

Expiatory Temple of the Sagrada Família / Temple Expiatori de la Sagrada Família
サグラダ・ファミリア贖罪聖堂
サグラダ・ファミリア(聖家族贖罪教会)は、建築家アントニ・ガウディが世界的に知られるきっかけとなった代表作であり、バルセロナを象徴する建物です。建設は1882年に始まり、当初は建築家フランシスコ・デ・パウラ・ヴィラールが、ネオゴシック様式を取り入れて後陣の地下礼拝堂から建設工事を進めていました。しかし、資金面での意見対立からヴィラールが解任されると、その後をガウディが設計と建設を引き継ぎました。当時、建築家として頭角をあらわしはじめていたガウディは、地下礼拝堂を完成させた後、教会全体の設計を従来のネオゴシック様式から新しく革新的で壮大なものへと大幅に変更しました。
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ザルツブルク大司教宮殿(レジデンツ)

Salzburg Residenz / Residenz zu Salzburg
ザルツブルク大司教宮殿(レジデンツ)
ザルツブルクは798年に大司教座が置かれて以来、カトリック文化の一大拠点として繁栄を極めました。ザルツァハ川の左岸、旧市街の中心に建つザルツブルク大司教宮殿(レジデンツ)は、まさにその権力の象徴であり、何世紀にもわたり歴代大司教たちの政治の拠点、そして住居として機能してきました。ここを現在見られるような豪奢な姿へと生まれ変わらせる礎を築いたのが、1587年に大司教に選ばれたヴォルフ・ディートリヒ・フォン・ライテナウです。彼は25年間にわたる在位期間中、古い建物を次々と取り壊し、イタリア・ローマに比肩するような宮殿や教会、修道院を築くことに心血を注ぎました。この都市改造を支えた巨額の建造費は、かつて「白い黄金」と呼ばれた岩塩の交易でまかなわれていたのです。
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サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂

Cattedrale di Santa Maria del Fiore
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂
フィレンツェのシンボルでもあるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の名前は、「花の聖母マリア大聖堂」という意味で、地名のフィレンツェ(英語名フローレンス)のラテン語の語源「フロレンス(花が咲いた)」と、都市の紋章に用いられているユリの花に由来しています。世界最大級の聖堂のひとつで、大聖堂の全長は153m、高さは92mもあります。1296年から、古い教会堂があった場所の上で新たな大聖堂の建設が始まりました。アルノルフォ・ディ・カンビオの設計に従いゴシック様式で建築が進められ、14世紀中ごろからフランチェスコ・タレンティによって拡張されて現在みられる大聖堂の基本形が完成しました。現在は3つの身廊を持つ三廊式バシリカと八角形のサン・ジョヴァンニ礼拝堂、ジョットの鐘楼で構成されています。
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サント・シャペル

The Sainte Chapelle
サント・シャペル
13世紀にフランス国王ルイ9世がビザンツ帝国皇帝から聖遺物であるキリストの「茨の冠」など22点を購入し、それらを納めるために建設されました。その時の購入金額は王国の収入の約半分もしたと伝わります。サント・シャペルを設計したのが誰なのかはわかっていませんが、シテ島にある王の邸宅の中に位置する礼拝堂として使われ、2階部分の豪華な礼拝堂は王の居室と直接つながっていました。フランス革命の混乱の中で多くの聖遺物は失われましたが、「茨の冠」は難を逃れ、現在はノートル・ダム大聖堂に納められています。
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サン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ聖堂

Basilica di San Paolo fuori le mura
サン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ聖堂
「アウレリアヌスの城壁」の外側、約2kmに位置する「城壁の外の聖パウロ聖堂」という名の聖堂で、ヴァティカン市国に属します。もともとの聖堂はコンスタンティヌス帝によって330年頃に建てられましたが、多くの巡礼者が訪れるには小さすぎたため、テオドシウス1世とウァレンティニアヌス2世、アルカディウスの3人の皇帝によって380年頃に再建されました。聖パウロが埋葬された場所に建てられており、墓は教皇の祭壇の下にあります。聖パウロは、聖ペテロと共に、ローマの大火の後のネロ帝の迫害によって殉教しました。
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