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アッコの旧市街
Old City of Acre
イスラエル北部の地中海に面するアッコは、フェニキア時代から継続的に居住されてきた、城壁に囲まれた港街です。1104年、第1回十字軍の指導者の1人であるボードゥアン1世がアッコを占領し、パレスチナにおける十字軍活動の拠点として港湾都市が築かれました。1187年、アイユーブ朝のサラディン軍によってエルサレムが征服された後、アッコはエルサレム王国最後の拠点となりましたが、1291年にマムルーク朝の攻撃を受けて陥落しました。その後、200年以上にわたりマムルーク朝によって統治されました。アッコの地下には、十字軍によって築かれた要塞やキリスト教の礼拝堂、要塞と港をつなぐトンネル、商店街など十字軍の遺構がそのまま埋もれており、十字軍によって築かれた街全体が遺跡として残っている唯一の例であるとされています。
アフパットとサナインの修道院
Monasteries of Haghpat and Sanahin
イスタンブルの歴史地区
Historic Areas of Istanbul
トルコ北西部のイスタンブルは、アナトリア半島、バルカン半島、黒海、地中海の間に位置し、ヨーロッパとアジアを隔てるボスフォラス海峡の両岸にまたがる、トルコ最大の都市です。その立地が表すように、ヨーロッパとアジアの文明が交差する十字路であり、ローマ帝国やビザンツ帝国、オスマン帝国といった大帝国の都が置かれてきました。都市の起源は紀元前7世紀頃に遡り、古代ギリシャの都市国家メガラが、王の名にちなみビザンティオンという名の都市を建設したことが始まりとされています。2世紀末に、ローマ帝国に占領されて「ビザンティウム」と改名。330年には帝都がローマからこの地へと遷され、当時のローマ皇帝コンスタンティヌスの名にちなんで都市名は「コンスタンティノポリス」(コンスタンティノープル)と名付けられました。395年にローマ帝国が東西に分裂すると、コンスタンティノープルはビザンツ帝国(東ローマ帝国)の都となりました。西ローマ帝国はわずか80年後の476年に滅亡したのに対し、ビザンツ帝国はその後1,000年以上も続きました。また、1054年キリスト教会が東西に分裂すると、西のローマはカトリック教会、東のコンスタンティノープルはギリシャ正教会の本拠地となりました。
イランのアルメニア教会修道院群
Armenian Monastic Ensembles of Iran
イラン北西部、アルメニアとの国境に近い地域にあるアルメニア正教会の修道院と聖堂です。ここは古代アルメニアの土地でした。古代アルメニアは4世紀初頭に世界で初めてキリスト教を公認した国です(ローマ帝国より30年ほど早いです)。そしてこの地はアルメニア正教の中心地となり、現在でも重要な巡礼地となっています。アルメニア正教の遺構として残っているのが3つの修道院と聖堂です。そのうちの最古のものは7世紀に建てられた「聖タデウス修道院」で、イエスの十二使徒の一人タデイにちなんでいます。「聖ステファノ修道院」と「生神女マリア聖堂」もアルメニアの伝統様式で建てられており、貴重な遺構です。これらの建物は、地震等での倒壊はあったもののその後再建され、この地を支配したイスラム教の王朝からも保護されてきました。
イワノヴォの岩窟教会群
Rock-Hewn Churches of Ivanovo
ウラジーミルとスーズダリの白い建造物群
White Monuments of Vladimir and Suzdal
エチミアジンの大聖堂と教会群、およびズヴァルトノツの考古遺跡
Cathedral and Churches of Echmiatsin and the Archaeological Site of Zvartnots
エルサレムの旧市街とその城壁群
Old City of Jerusalem and its Walls
西アジアの地中海東岸地域(レバント地方)に位置するエルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つの宗教にとってきわめて重要な意味を持つ聖地です。エルサレムの歴史は非常に古く、約6,000年前には人類が居住していた可能性があります。紀元前14世紀の古代エジプトの文書に登場する「ウルサリム」という記述は、エルサレムに関する初めての確実な言及とされています。ウルサリムは西セム諸語の「シャリムの都市」を意味する語に由来し、それが転訛してエルサレムとなったと考えられています。現代アラビア語では「神聖」を意味する語に定冠詞(Al)が付いたAl Quds(アル・クドゥス)と呼ばれます。これはエルサレム神殿のヘブライ語名である「聖なる家」をアラビア語に翻訳したバイト・アル・マクディスという名称が短縮したものとされています。現在、エルサレムは西エルサレムと東エルサレムに分かれており、世界遺産に登録されている旧市街は東エルサレムに位置しています。旧市街は約1km四方の範囲に広がり、周囲を囲う城壁の全長は約4kmあります。城壁はオスマン帝国のスレイマン1世によって再建されたもので、8つの門のうち7つが現在も使用されています。
オフリド地方の自然及び文化遺産
Natural and Cultural Heritage of the Ohrid region
上スヴァネチア
Upper Svaneti
コーカサス山脈が広がる見事な景観に『上スヴァネチア』は静かに佇んでいます。この土地には、地理的隔離によって守られてきた中世風の村落や街並みが今も残っています。ウシュグリのチャザシ村には、200を超える中世の塔屋、教会、城などが保存されており、その土地利用や集落構造からは、自然環境と調和して暮らしてきた上スヴァネチアの伝統を感じることができます。塔屋は先史時代に起源を持っており、3〜5階建てで細長い形状をしています。住居は2階建てで、1階には人間と家畜が共に暮らすホールが設けられています。家畜は木製の仕切りで区切られ、時には豪華に装飾されることもありました。2階は夏季の居住空間と倉庫として機能したとされています。このような機能性を持った住居はジョージア伝統村落の特徴として知られています。
キーウ:聖ソフィア聖堂と関連修道院群、キーウ・ペチェルーシク大修道院
Kyiv: Saint-Sophia Cathedral and Related Monastic Buildings, Kyiv-Pechersk Lavra
9~13世紀にキリスト教圏の東端で栄えたキエフ大公国(キーウ・ルーシ)が首都キーウに残したキリスト教関連の建築物群です。キエフ大公国は10世紀末にギリシャ正教を国教として公認し、ビザンツ様式の教会や修道院が数多く建てられました。キーウの中心部にある聖ソフィア聖堂はキーウ・ルーシ全盛期の11世紀にヤロスラフ賢公によって建設されたキーウ最古の聖堂です。後にロシア各地の聖堂建築に影響を及ぼしたことから、「ロシア聖堂の母」と呼ばれます。郊外の高台に立つキーウ・ペチェルーシク大修道院はやはり11世紀に建設され、宗教・学問・教育の広い分野で中世ロシア有数の「知の中心」でした。13世紀にモンゴル軍により破壊されましたが、19世紀になって再興されました。世界遺産には、ペレストヴォ地域にある救世主聖堂も併せて登録されています。
キージ島の木造教会と集落
Kizhi Pogost
ゲガルト修道院とアザート渓谷上流域
Monastery of Geghard and the Upper Azat Valley
ゲラティ修道院
Gelati Monastery
コローメンスコエ:昇天教会(ヴォズネセーニエ教会)
Church of the Ascension, Kolomenskoye
ヴォズネセーニエ教会(昇天教会)は1532年、のちに「雷帝」と呼ばれたイワン4世の誕生を祝うため、モスクワ市近郊のコローメンスコエの皇帝領地に建てられました。ここはモスクワ川の氾濫原へと続く急斜面の上、モスクワ中心部近くに位置し、現在、一帯は自然保護公園になっていて、16~17世紀の聖堂や礼拝堂、木造建築物がロシア各地から移築されています。この教会は、ギリシャ十字形プランを持つ白い石造りの教会です。ロシア建築における新たな段階を示すものとして、石造としては初めて天幕の形に似た多角錐の屋根を採用しました。特徴的な多角錐の屋根は、小さなココシュニクに縁取られた八角形の基壇から立ち上がり、その基壇自体も段状の大きなココシュニクの基部からせり上がっています。教会の周囲には階段でアクセスできる回廊が巡り、東側の祭壇部には白い石のキボリウムに覆われた「王の席」があります。壁の厚さは2.5〜3メートルと非常に厚く、内部は小さいものの、高さ41メートルの天井が開放感を生み出しています。
スヴィヤジツクの集落島にある生神女就寝大聖堂と修道院
Assumption Cathedral and Monastery of the town-island of Sviyazhsk
生神女就寝大聖堂(アサンプション大聖堂)は、スヴィヤジスクという町全体が島となった地域に位置し、同名の修道院の一部を成しています。ロシアのヴォルガ川、スヴィヤガ川、シュチュカ川が合流する地点にあり、シルクロードとヴォルガ交易路が交差する要衝にあたります。スヴィヤジスクは、1551年にイワン雷帝によって、カザン・ハン国征服を開始するための前線基地として築かれました。就寝修道院は、征服された地域における宣教と行政の中心として機能することが期待されていました。大聖堂は、比較的短期間で完成した広範な壁画群を備えており、イスラーム王国であったカザン・ハン国を征服した直後のロシア国家が掲げた文化的・政治的な野心を反映しています。また、当時のロシアおよびヨーロッパにおける正教会美術の新しい潮流を示すものでもあります。
聖カトリーナ修道院地域
Saint Catherine Area
聖カトリーナ修道院は、エジプト北東部のシナイ半島南部、シナイ山(標高2285m)北麓にあるギリシア正教の修道院です。この山のふもとは、『旧約聖書』でモーセが神から「十戒」を授けられた場所とされ、古くからユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒にとって宗教的に重要な意味を持つ聖地とされてきました。険しい山岳地帯の続く過酷な環境にもかかわらず、一帯には数多くの考古学的・宗教的遺跡やモニュメントがあり、巡礼者らにインスピレーションや心の平穏をもたらす景観を形成しています。初期キリスト教会では、辺境地に修道院共同体を設立して禁欲的な修道生活を送ることが広く行われましたが、聖カトリーナ修道院は、そうした修道院の中でも最も初期のものの一つです。今も修道士たちが静かな祈りの生活を続ける、世界最古のキリスト教修道院となっています。
聖山アトス
Mount Athos
エーゲ海に突き出たアクティ半島は、全体がギリシャ正教の聖地です。その東南端にそびえる標高2,000mを越える山がアトス山であり、「聖山アトス」と呼ばれています。この世界遺産は同じくギリシャ正教徒の聖地である『メテオラの修道院群』と同じ1988年に、どちらも複合遺産として登録されました。このあたりの海岸線は非常に複雑であり、その結果、ギリシャでもっとも多くの種類の植物が育っているのです。なお、陸のルートは封鎖されており、巡礼者や観光客は船からしか聖山アトスに行けなくなっています。ダフニ港が入山するための唯一の入り口なのです。修道士がこの地に最初に修道院を築いたのは10世紀半ばと言われていて、以降、次々と修道院が建てられていきます。現在活動する修道院の数は約20です。
セルギエフ・ポサドのトロイツェ・セルギエフ大修道院
Architectural Ensemble of the Trinity Sergius Lavra in Sergiev Posad
ロシア教会建築の「真珠」とも称されるトロイツェ・セルギエフ大修道院は、モスクワの北東70kmの地点にあるセルギエフ・ポサド市にあります。1337年、ロシアの偉大な修道院長であり、ロシア正教会の聖人の中でも最も崇敬される人物の一人である、セルギー・ラドネシスキーによって建立されました。トロイツェとは正教会の用語で他の教派でいう「三位一体」を示します。セルギーはモスクワ大公であったドミトリー・ドンスコイの精神的な助言者として高い名声を博し、1380年のクリコヴォの戦いではドンスコイに祝福を授けました。彼はまた、共住制修道生活の理念をロシアに広めたことでも有名です。この修道院はマコヴェツ丘陵の小さな木造教会として始まり、時代とともに発展し、強固なものとなっていきました。
トロオドス地方の壁画教会群
Painted Churches in the Troodos Region
キプロス島西部のトロオドス山脈南麓の丘陵地帯に残る11世紀から16世紀にかけて建造された10の教会が世界遺産に登録されています。キプロス島は7世紀から10世紀まではイスラム勢力に支配されていましたが、11世紀以降は西欧からの聖地回復の動きとともに十字軍の前線基地となりました。11世紀以降に建造されたこれらの教会は、石造りの土台の上に木造で建てられており、外見はとても素朴に見えます。しかし、内部は華麗なフレスコ画のイコンが壁一面に描かれており、これらは当時のビザンティン美術の傑作群と言えます。加えて、これらは約500年間に亘り描かれ続けてきましたので、各時代の多様な様式が見られ、ポストビザンツの宗教画の歴史を示す貴重な例ともなっています。
ノヴォデーヴィチー修道院関連遺産群
Ensemble of the Novodevichy Convent
ノヴゴロドと周辺の歴史的建造物群
Historic Monuments of Novgorod and Surroundings
ビリニュスの歴史地区
Vilnius Historic Centre
フェラポントフ修道院関連遺産群
Ensemble of the Ferapontov Monastery
ブコビナとダルマチアの府主教の邸宅
Residence of Bukovinian and Dalmatian Metropolitans
プスコフ建築派の教会群
Churches of the Pskov School of Architecture
ボヤナの教会
Boyana Church
ホレズの修道院
Monastery of Horezu
ルーマニア中部ワラキア地方西部のホレズ近郊に1690年に建てられた修道院です。当時の領主であったコンスタンティン・ブルンコヴァヌ公によって建造されたもので、彼とその家族はワラキアの多くの修道院や教会の建設に尽力し、それらは彼の名を取ったブルンコヴァヌ様式と呼ばれています。ホレズの修道院はこの様式を代表する建造物として知られ、ギリシャ十字型の土台の中央に主聖堂のカトリコン聖堂が置かれ、東西南北の四端に付属聖堂としての使徒聖堂、聖母聖堂、聖ステファヌス聖堂、天使聖堂が配置されています。主聖堂のカトリコン聖堂は1690年から1692年にかけて建設され、内装を含めてさらに2年後に完成しました。3つの側廊を持ち、非常に大きなナルテクス(拝廊)を持っており、これは16世紀初頭に建造されたクルテア・デ・アルジェシュ修道院の大聖堂に倣ったものです。内部下層の壁面は、コンスタンティン・ブルンコヴァヌとその妻、11人の子供達の奉納画で埋め尽くされており、エクソナルテクスの東壁には「最後の審判」が描かれています。これらの内部装飾や外観はワラキア独自の文化とギリシャから伝わった様式の融合が見られます。
マラムレシュの木造教会群
Wooden Churches of Maramureş
ムツヘタの歴史的建造物群
Historical Monuments of Mtskheta
ジョージア中央東部、アラグヴィ川とムトゥクヴァリ川の合流点に位置するムツヘタは、紀元前4世紀から5世紀までイベリア王国(カルトリ)の首都として繁栄しました。4世紀にキリスト教が伝わり、国教となることが宣言されたこの場所には、聖堂や修道院が建てられています。首都がトビリシに移された5世紀以降も、ムツヘタはキリスト教の拠点として主導的な役割を維持し続けました。現在でもジョージア正教会と使徒教会の本部が置かれている重要地点です。自然条件に恵まれ、貿易ルートの交差点でもあるこの場所は、ペルシア、アラブ、ビザンツ帝国などの支配下に置かれたことで文化的な影響を受けます。主にビザンツ帝国の影響を受けて発展し、地元の文化的伝統の融合につながりました。