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エルサレムの名称と都市の起源
西アジアの地中海東岸地域(レバント地方)に位置するエルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つの宗教にとってきわめて重要な意味を持つ聖地です。エルサレムの歴史は非常に古く、約6,000年前には人類が居住していた可能性があります。紀元前14世紀の古代エジプトの文書に登場する「ウルサリム」という記述は、エルサレムに関する初めての確実な言及とされています。ウルサリムは西セム諸語の「シャリムの都市」を意味する語に由来し、それが転訛してエルサレムとなったと考えられています。現代アラビア語では「神聖」を意味する語に定冠詞(Al)が付いたAl Quds(アル・クドゥス)と呼ばれます。これはエルサレム神殿のヘブライ語名である「聖なる家」をアラビア語に翻訳したバイト・アル・マクディスという名称が短縮したものとされています。現在、エルサレムは西エルサレムと東エルサレムに分かれており、世界遺産に登録されている旧市街は東エルサレムに位置しています。旧市街は約1km四方の範囲に広がり、周囲を囲う城壁の全長は約4kmあります。城壁はオスマン帝国のスレイマン1世によって再建されたもので、8つの門のうち7つが現在も使用されています。
3つの宗教の聖地となるまで
エルサレムは、宗教的・政治的な重要性から、領有をめぐって幾度も紛争の舞台となってきました。紀元前1000年頃、ダヴィデ王によってエルサレムは古代イスラエル王国の首都となりました。ダヴィデ王の後を継いだ息子のソロモンは、街の中心部にあるモリヤの丘(現:神殿の丘、ハラム・アッシャリーフ)にエルサレム神殿を建設しました。この神殿には、ユダヤ教において神がモーセに与えたとされる「十戒(じっかい)」の石板が納められていましたが、新バビロニアによって神殿は破壊され、住民は連れ去られてしまいます(バビロン捕囚)。解放されたユダヤ人は再び同じ場所に神殿を築きました。紀元前1世紀にエルサレムはローマ帝国の支配下に置かれ、この地の統治を担ったヘロデ王は神殿を大改修しました。しかし、西暦70年前後にユダヤ人がローマの圧政に反乱を起こすと、ローマ軍によって神殿と市街が破壊されました。この時残った神殿の壁の一部が「嘆きの壁」です。ユダヤ人はエルサレムから追放され、世界各地に離散(ディアスポラ)しましたが、この地は引き続き信仰の中心であり続けました。西暦30年にイエス・キリストが磔刑に処されたのもエルサレムでした。313年にローマ皇帝のコンスタンティヌス帝がキリスト教を初めて公認すると、キリスト教の聖地として教会が数多く建てられ、324年には聖墳墓教会が建立されました。7世紀に入るとイスラム勢力がエルサレムへと進出し、638年に第2代正統カリフのウマルは神殿の跡地に木造のモスクを建設しました。691年には岩のドームが建てられ、エルサレムはイスラム教の第三の聖地となりました。11世紀にはエルサレムの奪還を目指すヨーロッパのカトリック諸国によって十字軍が組織され、およそ200年にわたりこの地をめぐって抗争が続きました。一時はエルサレムを占領するなどの成果もありましたが、サラディンによって奪還され、1291年には十字軍勢力は完全に撤退しました。1516年以降、エルサレムはオスマン帝国の地方行政区となり、20世紀初めまでイスラム勢力の支配下に置かれました。

パレスチナ問題の端緒となった近代以降の国際政治
19世紀末にヨーロッパでユダヤ人の民族的国家建設を目指すシオニズム運動が隆盛すると、ユダヤ人のパレスチナ地域への移住が進みました。第一次世界大戦中、英国は戦争を有利に進めるため、英国への協力の見返りに、戦後にアラブ人国家の独立を支援するという「フセイン・マクマホン協定」を1915年に結びました。一方、1916年に英国とフランス、ロシアは、オスマン帝国分割に関する秘密協定「サイクス・ピコ協定」を締結し、帝国領のうちパレスチナ地域を英国が治めることを決めました。さらに1917年には、ユダヤ人の戦争協力を求めて、パレスチナにおけるユダヤ人の国家建設を約束する「バルフォア宣言」が出されました。英国による3つの矛盾した約束は、アラブ人とユダヤ人の民族主義を刺激し、両者の対立を深める要因となりました。1922~1947年の英国の委任統治時代に、ユダヤ人移民の数は急増しました。特に1930年代にドイツでナチスの迫害が激化すると、パレスチナへの移住はさらに加速しました。1947年、国際連合はパレスチナ地域を分割してアラブ人とユダヤ人の2つの国家をつくり、エルサレムは国際管理下に置くという「パレスチナ分割決議案」を採択しました。しかし、この案では多数派のアラブ人に土地の約40%しか割り当てられず、アラブ側の強い反発を招きました。1948年5月14日、イスラエルは英国のパレスチナ委任統治終了に伴って国家の樹立を宣言しますが、これを認めないアラブ諸国との間で、翌15日から第一次中東戦争が勃発しました。その結果、エルサレムは東西に分割されて、旧市街の東エルサレムはヨルダン領、新市街の西エルサレムはイスラエル領とされました。1967年の第三次中東戦争以降は東エルサレムもイスラエルが占領しています。世界遺産は本来であれば遺産の保有国が推薦することが条件となっていますが、エルサレムはこうした情勢を鑑みて、例外的に隣国のヨルダンが世界遺産に推薦しました。1981年に世界遺産となった本遺産の保有国は実在しない「エルサレム」となっています。
4つの街区に分かれた旧市街
旧市街では主にユダヤ教、キリスト教、イスラム教、アルメニア正教の4つの宗教を信仰する人々がそれぞれの街区に分かれて生活しています。最も広いのは、旧市街の北東部に位置するイスラム教徒地区です。街区にはモスク以外にも、キリスト教の教会や、死刑判決を受けたイエス・キリストが十字架を背負い、刑場のゴルゴタの丘まで歩いたとされる「ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)」の一部区間が存在しています。イスラム教徒地区の西隣、旧市街の北西部には、キリスト教徒が暮らす街区があります。聖墳墓教会をはじめ、ヴィア・ドロローサの一部などがあり、世界中からさまざまな教派のキリスト教徒が集まります。旧市街の南部にはユダヤ人街区が広がります。神殿の丘の南西に隣接し、「嘆きの壁」やシナゴーグなどがあります。4つの街区では最も面積が小さいのは、旧市街の南西部にあるアルメニア正教徒の街区です。アルメニアは世界で初めてキリスト教を国教とした国であり、エルサレムには4世紀頃からアルメニア人が暮らしてきました。12世紀創建の聖ヤコブ主教座聖堂は、十二使徒の1人である大ヤコブが殉教した地に建てられたと伝わります。旧市街には宗教施設以外に市場や商店、レストラン、学校、ホテル、土産物屋が多数あり、人々の生活の場となっています。特にダマスカス門から神殿の丘や聖墳墓教会へと向かう道は、土産物と衣服の店がずらりと軒を連ね、活気のある通りとなっています。
アクセス
【イスラエルから】ベン・グリオン国際空港から、西エルサレムの「イツハク・ナヴォン駅」まで電車で20~30分。さらにトラム(ライトレール)1号線を利用し、「セントラル・ステーション駅」から、旧市街の入口となる「ダマスカス門」まで10~15分。または、ベン・グリオン国際空港から乗り合いタクシー(シェルート)を利用して、ダマスカス門まで約1時間。
【ヨルダンから】アンマン市内のアブダリにあるJETTバスターミナルから、キング・フセイン(アレンビー)橋までバスで1時間~1時間半(早朝のみ、要予約)。ヨルダン出国後、国境間バスに乗り、イスラエル入国手続きをした後、乗り合いタクシー(シェルート)を利用して、ダマスカス門まで約1時間。出入国手続きに時間がかかる可能性がある。
執筆協力者PROFILE
東京外国語大学言語文化学部卒。在学中にパレスチナやヨルダンなど中東地域への留学を経験。大手メディア企業勤務を経て、2021年より現職。書籍やテレビ番組等の監修を行う。
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Trivia
聖墳墓教会の入口の上部にある窓には、梯子が立てかけられています。実はこの梯子は190年前から置いてあるものです。オスマン帝国の支配下にあった当時、聖職者は教会を出入りする度に課税されていたため、教会に閉じこもって生活を送っていました。梯子は聖職者が外の空気を吸ったり、野菜を育てたりする際に窓から出入りするために、立てかけていたと考えられています。その後、教会の各宗派の争いを防ぐため、オスマン帝国が現状維持法を出したことで、教会内の一切の改変が禁止されました。その結果、梯子も動かすことができなくなり、以来ずっと窓に立てかけられたままだそうです。正確な時期は分かっていませんが、1834年に英国の版画家エドワード・フィンデンが描いた聖墳墓教会にも梯子が登場します。この梯子は「不動の梯子」とも呼ばれています。
アクセス
【イスラエルから】ベン・グリオン国際空港から、西エルサレムの「イツハク・ナヴォン駅」まで電車で20~30分。さらにトラム(ライトレール)1号線を利用し、「セントラル・ステーション駅」から、旧市街の入口となる「ダマスカス門」まで10~15分。または、ベン・グリオン国際空港から乗り合いタクシー(シェルート)を利用して、ダマスカス門まで約1時間。
【ヨルダンから】アンマン市内のアブダリにあるJETTバスターミナルから、キング・フセイン(アレンビー)橋までバスで1時間~1時間半(早朝のみ、要予約)。ヨルダン出国後、国境間バスに乗り、イスラエル入国手続きをした後、乗り合いタクシー(シェルート)を利用して、ダマスカス門まで約1時間。出入国手続きに時間がかかる可能性がある。
執筆協力者PROFILE
東京外国語大学言語文化学部卒。在学中にパレスチナやヨルダンなど中東地域への留学を経験。大手メディア企業勤務を経て、2021年より現職。書籍やテレビ番組等の監修を行う。
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