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ダヴィデ王と第一神殿に始まるエルサレムの聖性
紀元前1000年ごろ、古代イスラエル王国の第2代王ダヴィデは、エルサレムを都としました。続くダヴィデの息子ソロモンは、紀元前965年ごろに現在「神殿の丘(ハラム・アッシャリーフ)」と呼ばれるモリヤの丘に、エルサレム神殿(第一神殿)を建設しました。この神殿には、ユダヤ教の律法の戒律「十戒」を記した石板を収めるための「契約の櫃」が置かれていました。「十戒」は、紀元前13世紀頃にヘブライ人の指導者モーセが神から授けられたとされるものです。元は遊牧民族であったヘブライ人は、『旧約聖書』によると紀元前1500年頃にパレスチナの地に定住し、一部はエジプトへと進出しましたが、エジプトのファラオによって迫害を受けて奴隷とされていました。モーセはヘブライ人を導いてエジプトを脱出(出エジプト)し、シナイ山で十戒の石板を与えられたと言われています。この出来事は、一神教と偶像崇拝の禁止を特徴とするユダヤ教の成立に大きく寄与したと考えられています。十戒を収めた神殿の最奥部は、大祭司が年に一度特別な儀式を行うことでしか入れない場所で、最も神聖な空間でした。
バビロン捕囚と神殿の破壊
ソロモン王の死後、紀元前928年ごろに王国は北のイスラエル王国と、エルサレムを首都とする南のユダ王国に分裂しますが、イスラエル王国は紀元前722年にアッシリアによって滅ぼされます。ユダ王国も紀元前586年に新バビロニアのネブカドネザル2世に征服され、住民の多くはバビロニアへと連行されました(バビロン捕囚)。この時、エルサレムの神殿は破壊されました。紀元前538年にアケメネス朝ペルシアのキュロス2世(大王)が新バビロニアを滅ぼしたことで捕囚から解放され、エルサレムへと戻ったヘブライ人は、バビロン捕囚から約70年後の紀元前516年ごろ(紀元前515年とも)、同じ場所に再び神殿を築きました(第二神殿)。エルサレムは紀元前332年にアレクサンドロス大王が征服し、その後プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、ハスモン朝と支配者が移り変わりました。なお、バビロン捕囚から解放後のヘブライ人は、一般にユダヤ人と呼ばれます。
ヘロデ王による大神殿の建設
紀元前63年、エルサレムはローマ帝国の支配下に置かれ、紀元前37年にヘロデ大王(在位:紀元前37~前4年)はローマからユダヤ属州の統治を委任されました。ヘロデは紀元前20年頃に神殿の大改修に着手し、約80年の歳月をかけてほぼ完全改築する形で神殿を建てました。この神殿は「ヘロデ神殿」と呼ばれています。しかし、西暦66~70年にローマ帝国とユダヤ人の間で起きた第一次ユダヤ戦争において、70年にローマ帝国軍によって市街と神殿は破壊されました。神殿を囲む外壁の一部は残り、その西側部分が現在「嘆きの壁」と呼ばれています。第一次ユダヤ戦争後、ユダヤ人は132~135年に再度ローマへの反乱(バル・コクバの乱、第二次ユダヤ戦争)を企てるも失敗し、135年ごろにエルサレムから追放されて世界中に離散していきました。

世界中のユダヤ人が訪れる聖地
嘆きの壁には世界中のユダヤ人が訪れ、祈りを捧げています。石壁に頭や手をついて祈る人や聖書を読み上げる人、広場に置かれた椅子に座り、壁を見つめる人などさまざまです。石材の間には、信徒が願い事を書いた紙切れが無数に挟み込まれています。祈りを終えると壁には背を向けずに離れていきます。ユダヤ教の安息日である金曜の日没後~土曜の日没にかけては、特に多数の人々が集まります。このようにユダヤ教にとって最も神聖な場所である嘆きの壁ですが、信徒以外でも訪れることができます。男女で礼拝空間が分かれており、男性はキッパと呼ばれる帽子のようなものを着用する必要があります(広場付近で貸し出しています)。


執筆協力者PROFILE
東京外国語大学言語文化学部卒。在学中にパレスチナやヨルダンなど中東地域への留学を経験。大手メディア企業勤務を経て、2021年より現職。書籍やテレビ番組等の監修を行う。
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