高島炭坑
北渓井坑の坑口。ここから地下約43mまで竪坑が掘り下げられ、蒸気機関式の巻揚機を使って採掘した石炭の搬出が行われた(©出島商人/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0)

外国人資本と西洋技術の導入による開発

高島炭坑は、長崎港の沖合14.5㎞に位置する高島にある西彼杵海底炭田の一部です。1695(元禄8)年、平戸出身の五平太によって石炭が発見されたと言われています。その後、幕末の開港にともない来航する蒸気船の燃料として石炭の需要が高まったため、1868(慶応4・明治元)年、佐賀藩とイギリス人貿易商トーマス・ブレーク・グラバーのグラバー商会との共同出資のもと、高島での海底炭鉱開発が本格的に始まりました。イギリス人技師モーリスを招き、1869(明治2)年、海岸に近い低地に、日本で初めて蒸気機関による巻揚機やポンプを導入した洋式竪坑「北ほっ渓けい井せい坑こう」を建設しました。竪坑の深さは43m、1日300トンの石炭を産出したとされています。北渓井坑は海水の流入により1876(明治9)年に廃坑となりましたが、現在も当時の竪坑跡や蒸気機関に関連する貴重な遺構が残されており、明治初期の石炭採掘技術を知ることができます。

石炭産業の繁栄とエネルギー革命による閉山

1874(明治7)年に官営となった高島炭坑は、1876(明治9)年に後藤象二郎へ払い下げられ、1881(明治14)年には福沢諭吉の仲介により、岩崎弥太郎が経営する三菱社の所有となりました。日本の近代工業化にともない石炭の需要が急速に高まるなか、高島炭坑の産出量は増大していきました。高島炭坑で産出される良質の石炭は「黒いダイヤ」と呼ばれ、日本の近代工業化を支えました。最盛期にあたる1968(昭和43)年には、高島の人口は18,019人を数えたと記録されています。しかし1960年代から本格化した石油へのエネルギー転換と、それにともなう日本の石炭政策の変更により、高島炭坑は1986(昭和61)年11月27日に閉山しました。

執筆協力者PROFILE

高等学校教諭/NPO法人世界遺産アカデミー認定講師/世界遺産検定マイスター

兵庫県出身。中学3年生の夏休みの台湾ひとり旅をきっかけに、旅行先の歴史・景色・料理など、世界を知る魅力のとりこになる。「世界遺産を学習して見て感動して」をモットーに活動。全国通訳案内士の資格も有し、日本の魅力も発信している。
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