構成資産DATA
ドイツの最新技術を導入したアジア初の銑鋼一貫製鉄所
欧米を手本に殖産興業政策を進めていた明治政府は、鉄鋼の国産化をめざし、福岡県北部にある筑豊炭田に隣接した八幡村(現在の北九州市)に、「官営八幡製鐵所」を設立しました。日清戦争(1894~1895年)後の軍備拡張に伴う製鋼業振興政策として、1895(明治28)年、政府は鉄鉱石からの製銑から鋼材の生産までを一貫して行う「銑鋼一貫製鉄所」の建設を決定し、1897(明治30)年にその建設に着工します。日清戦争で獲得した多額の賠償金などをもとに、ドイツのグーテホフヌンクスヒュッテ社の技術協力を得て、1901(明治34)年2月5日、八幡製鐵所東田第一高炉への火入れが行われました。こうして当時の最新技術を導入した、アジア初の銑鋼一貫製鉄所として操業を開始しました。
鋼材の大量生産を可能にした立地と熟練工の技術
製鉄所事業調査書類によると、八幡村に製鉄所が設立された条件として、「軍事上防御の完全な区域内」「海陸運搬・原料供給・製品販売が便利」「工場で必要となる水が存在」「職工の募集や工業用品の供給に便利」などが挙げられていました。なかでも原料については、清の大冶鉄山の鉄鉱石や、隣接する筑豊炭田の石炭、さらには後に満州の撫順炭田の石炭が使用されました。操業当初は高炉トラブルが相次ぎましたが、「高炉の神様」と呼ばれた田中熊吉ら熟練工の技術によって操業が改善し、1910(明治43)年までには鋼材の大量生産と増産が軌道に乗り、国内生産の約90%を占めるまでに成長しました。
民営化、戦争、エネルギー革命を乗り越えた歴史
八幡製鐵所は、1934(昭和9)年、民間の製鉄会社と合同して半官半民の「日本製鐵株式会社」となり、官営としての歴史に幕を閉じました。太平洋戦争中の1944(昭和19)年と1945(昭和20)年の数回にわたる八幡空襲では、八幡製鐵所も含む八幡市街地は大きな被害を受けました。しかし戦災を乗り越え、戦後も製鉄所を中心とする北九州工業地帯は、四大工業地帯の1つとして復興と高度経済成長を牽引し続けました。1960~1970年代にエネルギー革命が進み、主原料や燃料が石炭から石油へと移行すると、北九州工業地帯の地位は低下してしまいますが、その間も八幡製鐵所は「新日本製鉄」、「新日鉄住金」を経て、現在は「日本製鉄株式会社」へと受け継がれています。操業から100年以上が経過した現在も、一部の施設や資産は現役の生産拠点として稼働を続けています。

今も現役で使用されている各構成資産
「官営八幡製鐵所」関連施設は、「旧本事務所」「修繕工場」「旧鍛冶工場」で構成されています。「旧本事務所」は、1899(明治22)年に完成した初代本事務所です。中央にドームを持つ左右対称の赤煉瓦2階建て日本瓦葺きの建物で、長官室や技監室、顧問技術室などが置かれた製鉄所の中心的な施設でした。1922(大正11)年まで本事務所として使用された後は、検査部門などに活用されていました。「修繕工場」は、1900(明治33)年に建設された、現存する日本最古の鉄骨建造物です。製鉄所と同様、ドイツのグーテホフヌンクスヒュッテ社の設計と建築用鋼材を用いて建設され、製鉄所内で使用する機械の修繕や部材の製作加工を行っていました。鋼材生産量の増加に伴って3回増築され、現在も現役の工場として使用されています。「旧鍛冶工場」も1900(明治33)年にグーテホフヌンクスヒュッテ社の設計と鋼材を用いて修繕工場の北側に建設されました。製鉄所の建設に必要な鋳造品を製造していましたが、大正時代に現在の場所に移設され、製品試験所として使用されました。現在は製鉄所創業当時の文書や写真、書籍、模型など約4万点に及ぶ貴重な資料を保管する施設となっています。
執筆協力者PROFILE
兵庫県出身。中学3年生の夏休みの台湾ひとり旅をきっかけに、旅行先の歴史・景色・料理など、世界を知る魅力のとりこになる。「世界遺産を学習して見て感動して」をモットーに活動。全国通訳案内士の資格も有し、日本の魅力も発信している。
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兵庫県出身。中学3年生の夏休みの台湾ひとり旅をきっかけに、旅行先の歴史・景色・料理など、世界を知る魅力のとりこになる。「世界遺産を学習して見て感動して」をモットーに活動。全国通訳案内士の資格も有し、日本の魅力も発信している。
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