国民劇場(プラハ)
チェコの演劇・オペラ・バレエ文化を象徴する劇場。現在もチェコの中心的な劇場として公演が行われる

見どころDATA

チェコ国民のための壮麗な劇場建設構想

「国民劇場」は、チェコ国民によって建設資金が集められた、民族のアイデンティティと独立の意志を象徴する建物です。1844年、国民の手によってプラハに壮麗な劇場を建設するという構想が提起されました。実際に募金活動が開始されたのは1851年のことです。その1年後、最初の募金により小さな製塩所跡地を購入します。これにより、プラハ城を望むヴルタヴァ川のほとりで劇場建設が始まったのです。しかし、その狭い敷地と台形の形状は、建築家たちにとって大きな課題となりました。その後、ボヘミアがオーストリアの専制支配を受けた時代には、国民劇場建設が中断され、当初の構想からより簡素な建物への設計変更が行われました。1862年、建築家イグナーツ・ウルマンの設計によって、敷地の南側に建てられた「仮劇場」が開場します。この仮劇場の建物は、後に現在の国民劇場の一部となり、その外壁は劇場の後方に今も見ることができます。

民族運動家を中心に始まった国民劇場の建設

仮劇場の開場後も、当初計画された壮麗な劇場建設への情熱は失われていませんでした。1865年、スラドコフスキーやティルシュ、ネルダ、ハーレクら若く進歩的な民族運動家たちは、プラハ工科大学の土木工学教授であった33歳の若い建築家ヨゼフ・ジーテクに国民劇場の設計を依頼しました。その後、ジーテクはコンペを勝ち抜き、1867年に、彼の設計案に基づいた国民劇場の建設が始まったのです。1868年5月16日に定礎石が置かれ、11月までには基礎が完成し、1875年に建物は最上階の高さに達し、1877年に屋根が架けられ、1873年からは内部装飾が行われました。装飾の意匠にはスラドコフスキーら活動家の思想が反映され、ネオ・ルネサンス様式の精神による古典的なものを、また当時のスラヴ神話に影響を受けたものが取り入れられています。そしてオーストリア皇太子ルドルフの訪問に合わせて、1881年6月11日に開場しました。

大火災からの再建を祝うスメタナのオペラ

ところが、開場から間もない同年8月12日に大火災が発生し、劇場の銅製ドームや客席、舞台が焼失してしまいます。この火災は国家的な大惨事とみなされ、新たな募金活動が始められました。わずか47日間で100万グルデンもの寄付が集まったと言われています。劇場の再建を担ったのは、最初の建築家ヨゼフ・ジーテクの弟子であるヨゼフ・シュルツです。彼は、焼失した劇場の敷地を広げるために、隣接する仮劇場やその裏にあったポラーク博士所有の集合住宅を買い取って国民劇場の一部に統合し、客席のレイアウトを変更しました。ジーテクの建築を最大限に配慮しながらも、異なる新たな建物を融合させ、統一感を生み出すことに成功しています。こうして、1883年11月18日、この日のために特別に作曲されたスメタナの祝祭オペラ『リブシェ』の上演によって、国民劇場は再び開場しました。最新の照明や舞台装置を備えたこの劇場は、その後、1977年から1993年にかけて大規模改修が行われるまで、約100年にわたりチェコの芸術を支え続けたのです。

執筆協力者PROFILE

高等学校教諭/NPO法人世界遺産アカデミー認定講師/世界遺産検定マイスター

兵庫県出身。中学3年生の夏休みの台湾ひとり旅をきっかけに、旅行先の歴史・景色・料理など、世界を知る魅力のとりこになる。「世界遺産を学習して見て感動して」をモットーに活動。全国通訳案内士の資格も有し、日本の魅力も発信している。
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兵庫県出身。中学3年生の夏休みの台湾ひとり旅をきっかけに、旅行先の歴史・景色・料理など、世界を知る魅力のとりこになる。「世界遺産を学習して見て感動して」をモットーに活動。全国通訳案内士の資格も有し、日本の魅力も発信している。
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