見どころDATA
様々な用途や改築を経た初期の歴史
「ルクセンブルク大公宮」は、ルクセンブルクの象徴的な存在です。現在の宮殿がある場所には、1418年に建てられた、ルクセンブルク市で最初の市庁舎がありました。1554年、フランシスコ会修道院の屋根裏部屋に保管されていた火薬の爆発により市庁舎が全焼したため、再建が行われました。ルネサンス様式の正面外壁(ファサード)は、この時期につくられたものです。18世紀に拡張された市庁舎は、その後、中央行政機関や県庁舎として使用されました。さらに、1815年のウィーン会議によってルクセンブルクがオランダ王家との同君連合による大公国となると、1817年にはこの建物が総督公邸に指定されました。オラニエ=ナッサウ大公ヴィルヘルム1世(オランダ国王ウィレム1世)の治世下では、政府機関として使用されたほか、州議会や、1859年までは下院など、様々な行政機関が使用していました。
大公宮に居を構えたドイツ出身のアドルフ大公
1890年11月にヴィルヘルム3世大公が崩御すると、オランダとの同君連合が解消されました。これに伴い、ナッサウ=ヴァイルブルク家がルクセンブルク大公位を継承し、アドルフ大公はこの建物を公邸としました。しかし、もともと行政庁舎として設計された旧市庁舎は、宮殿としての要件を満たしておらず、一方のワルフェルダンジュ城も湿気が多く手狭だったことから、アドルフ大公はすぐにはルクセンブルクに居住しませんでした。アドルフ大公とアーデルハイト・マリー大公妃は、海辺のリゾート地や保養地など、主にルクセンブルク国外で暮らしました。その一方で、アドルフ大公はオランダ摂政女王からベルク城を買い取り、後のヴィルヘルム4世となる皇太子をそこに住まわせました。1891年、アドルフ大公は旧市庁舎を正式な宮殿とするための改築に着手します。大公は、かつてケーニヒシュタイン城の改修に携わったベルギーの建築家ジェデオン・ボルディアウに設計を依頼し、ルクセンブルクの建築家シャルル・アーレントとの共同で工事が進められました。1895年に完成した改築工事では、後に「バーデン翼」と呼ばれることになる新棟が建設され、大公宮としてふさわしい宮殿が完成したのです。宮殿内には、フランクフルトやウィーンなど、ヨーロッパ各地に散逸していたナッサウ家ゆかりの洗練された調度品や美術品が集められました。そして1895年12月2日、大公夫妻はこの大公宮に正式に居を構えたのです。歴史家ニコラス・ヴァン・ヴェルヴェケと芸術家ミシェル・エンゲルスの助言により、宮殿の石碑にはルクセンブルクの歴史における重要な日付に加え、王朝の継続性と正統性の象徴とされるメリュジーヌやエルメジンド伯爵夫人、ヘンリー7世、盲目公ヨハネといった歴史的英雄の姿が刻まれました。また、15世紀のブルゴーニュ公フィリップによる王朝断絶・交代の歴史も記されました。ドイツ出身であったアドルフ大公は、これら歴史的事象を刻むことで、ルクセンブルクへの愛着と国家統合への決意を示そうとしたのです。
ナチス・ドイツの侵攻と戦後の修復
1940年5月10日、ルクセンブルクがナチス・ドイツの侵攻を受けると、大公一家は宮殿を離れ、国外へ亡命しました。市に譲渡されたルクセンブルク大公宮の正面には、鉤十字の旗が掲げられ、コンサートホールに改装されたほか、館内には居酒屋も併設されるなど大きな損害を受けました。しかし第二次世界大戦後、大規模な修復工事が行われたことで、宮殿はかつての輝きを取り戻しました。外壁(ファサード)には精巧な彫刻やアーチ窓、装飾的な塔がそびえ、内部には壮大な階段や装飾天井、各時代の調度品が備えられ、ルネサンス様式やバロック様式、19世紀の建築様式が見事な調和を見せています。現在、大公宮はルクセンブルク大公の公邸および執務の拠点となり、国家儀式や外交晩餐会、法律の署名などが行われる場となっています。
執筆協力者PROFILE
兵庫県出身。中学3年生の夏休みの台湾ひとり旅をきっかけに、旅行先の歴史・景色・料理など、世界を知る魅力のとりこになる。「世界遺産を学習して見て感動して」をモットーに活動。全国通訳案内士の資格も有し、日本の魅力も発信している。
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兵庫県出身。中学3年生の夏休みの台湾ひとり旅をきっかけに、旅行先の歴史・景色・料理など、世界を知る魅力のとりこになる。「世界遺産を学習して見て感動して」をモットーに活動。全国通訳案内士の資格も有し、日本の魅力も発信している。
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