琉球王国のグスク及び関連遺産群
2019年の火災で焼失し、2026年度中の復元完了を目指して工事が進む首里城正殿(写真は焼失前)。首里城は地下遺構と城壁の一部が世界遺産に登録されている

遺産DATA

地域 : 東・東南アジア 保有国 : 日本国 分類 : 文化遺産 登録年 : 2000年 登録基準 : (ii) (iii) (vi) 遺産の面積 : 0.549㎢ バッファ・ゾーン : 5.597㎢

about

優れた石造技術を示す按司(あじ)が築いたグスク

沖縄や奄美の島々で見られる石造りの城塞のことを「グスク」と呼びます。グスクは、農村集落が営まれるようになった12世紀ごろから、按司と呼ばれる領主的な豪族が、自らの居住や防衛の拠点として築くようになりました。首里城(しゅりじょう)跡は、琉球王国の国王の居城として、政治・文化・経済の中枢となった城の遺構です。今帰仁城(なきじんじょう)跡は、14世紀の三山時代に北山王の拠点となったグスクの遺跡です。座喜味城(ざきみじょう)跡は、有力な按司であった護佐丸(ごさまる)によって15世紀に築かれた城跡です。勝蓮城(かつれんじょう)跡は、12世紀から13世紀にかけて建造された、現存する最古の沖縄のグスクで、有力按司の阿麻和利(あまわり)の居城でした。中城城(なかぐすくじょう)跡は、15世紀半ばに護佐丸が居城とし、阿麻和利との戦いで知られ、城壁には高度な石積み技術が見られます。

勝連城跡
琉球王国の国王に最後まで抵抗した按司の阿麻和利が居城とした勝連城跡(Ⓒmtaira/Adobe Stock)

地域住民の精神的な拠り所であったグスク

グスクは、地域住民にとって先祖への崇拝や祈願を通じて相互のつながりを確かめる、精神的な拠り所でもありました。現在、4つの関連遺産が世界遺産として登録されています。園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)は、1519年に築かれた石造の門で、首里城内に位置します。門の背後に広がる樹林地が、園比屋武御嶽という聖域になっています。同じく首里城内にある玉陵(たまうどぅん)は、1501年頃に築かれた陵墓で、琉球特有の「破風墓」と呼ばれる形式を持ちます。識名園(しきなえん)は、王族の別邸の庭園として1799年に建設されたもので、日本・中国・琉球の庭園様式を折衷した遺構です。斎場御嶽(せいふぁうたき)は、琉球王家の重要な儀式が行われた場所であり、現在でも沖縄で最も重要な聖地のひとつとされています。

斎場御嶽
琉球王国の国家的な祭祀の場であった斎場御嶽(せいふぁうたき)。王国最高位の女神神官である聞得大君の就任の儀式が行われた(Ⓒmakieni/Adobe Stock)

12世紀から17世紀にかけて500年間に及ぶ琉球の歴史

12世紀ごろ、琉球各地の農村集落に按司が現れ、グスクが築かれ始めました。やがて各集落は小国家へと発展していきます。14世紀に入ると、各地の小国家が有力な按司によって統合され、3つの国が誕生しました。それが沖縄本島南部の南山、中部の中山、北部の北山です。この3国が争った時代は「三山時代」と呼ばれています。1429年には、中山を率いた尚巴志(しょうはし)が琉球王朝を樹立し、統一王国が成立しました。これを「第一尚氏王統」といいます。1469年に起きたクーデターにより「第二尚氏王統」が始まり、奄美諸島から先島諸島までを支配下に置いたこの時代が、琉球王国の全盛期となりました。17世紀に入ると、現在の鹿児島県西部に位置する薩摩地方を統治していた島津氏が琉球に侵攻し、琉球王国は薩摩藩および江戸幕府の間接的支配を受けながら、中国の明・清王朝との朝貢貿易を続けました。しかし、1872年に日本政府が琉球王国を「琉球藩」としたことにより、その独立性は大きく損なわれ、1879年には琉球藩が廃止され沖縄県が設置されました。これにより琉球王国は、事実上消滅することとなりました。

 

アクセス

【首里城】那覇空港駅から、ゆいレール(モノレール)で首里駅まで約27分。首里駅で下車後、徒歩で15分ほどで守礼門に到着。また、首里駅からは路線バス(首里城下町線8番)も出ており、首里城前バス停で下車すれば、徒歩3分ほどで守礼門に到着する。那覇空港から車やタクシーを利用した場合は、首里城公園まで約40分~1時間かかる。

執筆協力者PROFILE

アレセイア湘南高等学校教諭/NPO法人世界遺産アカデミー認定講師

國學院大学文学部史学科卒。東海大学大学院文学研究科史学専攻修士課程修了。文学修士。NPO法人世界遺産アカデミー認定講師。世界遺産検定マイスター。歴史能力検定1級。世界史、世界遺産、ビッグヒストリーに関するさまざまな書籍の執筆・翻訳・監修を手掛けてきた。

Properties

Nakijin-jô site
今帰仁城跡(なきじんじょうあと)は、沖縄本島北部、本部(もとぶ)半島にあるグスク(城)です。沖縄県の県庁所在地である那覇市からは、車で1時間30分ほどの距離に位置しています。ここはかつて、三山時代に北山(ほくざん)を治めた国王の居城だった場所です。敷地内からは大量の中国陶磁器類が発掘されており、当時の北山王が盛んに海外交易を行なっていたことが分かっています。東側は川、西側は谷、そして南側は急斜面の崖に囲まれた独立丘の上という、防衛上たいへん優れた場所に築かれており、まさにやんばるの地を守る要の城でした。城壁の外周は1,500mに及び、その平面プランは自然の地形に沿って、美しい曲線を描くように造られています。1416年に中山(ちゅうざん)軍に滅ぼされた後は、この地を管理する監守(かんしゅ)が派遣されるようになりました。そして1665年に最後の監守が引き上げてからは、祭りを取り仕切る神聖な場所として大切に残されてきました。
Zakimi-jô site
座喜味(ざきみ)城は、1420年頃に有力な按司である護佐丸によって築かれました。護佐丸は当初、座喜味の北東約4㎞にある山田グスク(現在の恩納村)を居城としていました。しかし、今帰仁(なきじん)城の攻略に参戦した頃、敵からの防御や長浜港を控えた地の利を考慮し、高台にある座喜味の地に築城したとされています。また、国王の居城である首里城と迅速な連絡を図るという国防上の理由から、首里城がよく見渡せる丘の上が選ばれました。二つの廓を囲む城壁には、地元で採れる琉球石灰岩が使われています。その積み方は、「野面積み」や「布積み」が進化したとされる「あいかた積み」という手法が多く用いられているのが特徴です。さらに、中央にくさび石をはめて2つの石をかみ合わせることで造られたアーチ石門も大きな見どころですが、このくさび石を用いる方法は他のグスクには見られません。これらの高度な特徴からは、護佐丸が極めて優れた築城技術を持っていたことがうかがえます。
Katsuren-jô site
勝連城(かつれんじょう)は、琉球王国が安定していく過程において、国王に最後まで抵抗した有力な按司である阿麻和利(あまわり)が暮らしていた城です。自然の断崖を利用して築城された、まさに難攻不落の城と言えます。阿麻和利は1458年、国王の重臣であった護佐丸(ごさまる)を滅ぼしました。その後、王権の奪取を目指して首里城を攻め立てましたが、大敗を喫して滅びることとなりました。現在の勝連城からは、中国製や日本製の陶磁器類が大量に出土しています。このことからも、阿麻和利をはじめとする歴代の城主たちが、海外と活発に交易を行っていた様子がうかがえます。
Nakagusuku-jô site
中城城跡は、沖縄本島東海岸の中城湾に沿った標高160mの高台上に、北東から南西にかけてほぼ一直線に築かれた城です。第二次世界大戦の戦禍をまぬがれたため、沖縄県内で最も原型をとどめており、完全に近い形で残された貴重な遺跡となっています。また、景勝地としても広く知られており、城壁に立つと東に中城湾(太平洋)、西に東シナ海を望むことができます。さらに、勝連半島や知念半島、周辺の洋上に浮かぶ島々までも見渡せる素晴らしい眺望が魅力です。城郭部の面積は12万2,339㎡に及び、古くから観光の名所として親しまれています。
Shuri-jô site
首里城は、三山時代には中山(ちゅうざん)王国の居城でした。その後、1429年に琉球王国が統一されてから1879年に至るまで、長きにわたり王国の居城として政治や外交、文化の中心であり続けました。城は、王国にとって重要な拠点である那覇港や首里の街を見下ろす丘の上に、その地形を巧みに活かして築かれています。構造は内郭(内側城郭)と外郭(外側城郭)に大きく分けられ、内郭は15世紀初頭に、外郭は16世紀中期に完成しました。正殿をはじめとする城内の各施設は東西の軸線に沿って配置されており、西側を正面としているのが大きな特徴です。
Sonohyan-utaki Ishimon
1519年に造られた石造りの門であり、門の背後に広がる樹林地は園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)と呼ばれる聖域になっています。ここはかつて、国王が城外へ外出する際に、道中の安全を祈願した格式高い礼拝所です。一見すると人が通り抜けるための門のような形をしていますが、実際には人が通る場所ではなく、神へ祈りを捧げるための「礼拝の門」というべき宗教的な施設です。そのため、人々は石門そのものではなく、その奥にある御嶽(聖域)に向かって祈りを捧げます。この石門は琉球を代表する石造建造物であり、扉を除いたすべての部分が石でできています。特に、最上部にある棟石(むねいし)の部分に施された細やかな彫刻は実に見事です。1933年には国宝に指定されましたが、沖縄戦によって一部が破壊されてしまいました。その後、1957年に復元され、現在は国の重要文化財に指定されています。
Tamaudun
玉陵(たまうどぅん)は1501年、尚真王(しょうしんおう)が父である尚円王(しょうえんおう)の遺骨を改葬するために築いたもので、その後、第二尚氏王統の陵墓となりました。墓室は自然の岩壁を利用した平瓦葺きの屋根を持つ切妻造りで、琉球特有の「破風墓(はふばか)」と呼ばれる形式です。墓室や前面の墓庭を囲む石垣、そして墓庭を内庭と外庭に区分けする石垣は、それぞれ珊瑚質石灰岩の切石を積み上げて築かれています。墓室は中室、東室、西室の三つに分かれており。それぞれ異なる役割を持っています。中室は洗骨(せんこつ)前の遺骸を安置する部屋、東室は洗骨後の王と王妃を納骨する部屋、そして西室は墓前の庭にある玉陵碑に記された限られた王族を納骨する部屋です。墓域は2,442㎡に及び、沖縄戦で大きな被害を受けましたが、1974年から3年余りの歳月をかけて修復工事が行われました。その結果、往時の姿を取り戻して今日に至っています。玉陵は2018年12月25日に正式に国宝へ指定され、沖縄県内の建造物としては初の国宝指定となりました。
Shikinaen
識名園は、1799年に造営された琉球王家最大の別邸の庭です。当時は国王一家の保養だけでなく、中国皇帝の使者である冊封使を接待する場としても使用されていました。識名園の造園形式は、池のまわりを歩きながら景色の移り変わりを楽しむ「回遊式庭園(かいゆうしきていえん)」が採用されています。回遊式庭園は、日本の近世に大名たちが競って造るようになった形式ですが、識名園には琉球独特の工夫が随所に見られるのが特徴です。「心」の字をくずした池(心字池)を中心に、池に浮かぶ島には中国風あずまやの六角堂や大小のアーチ橋が配され、池の周囲には琉球石灰岩が積みまわされています。1941年(昭和16年)12月13日には国の「名勝」に指定されましたが、1945年(昭和20年)4月の第二次世界大戦の沖縄戦によって破壊されてしまいました。その後、1975年から1996年(昭和50年~平成8年)にかけて、総事業費7億8千万円を投じた復元整備が行われます。その結果、1976年(昭和51年)1月30日に再び国の「名勝」となり、2000年(平成12年)3月30日には「特別名勝」に指定されました。敷地の指定面積は4万1,997㎡に及び、そのうち御殿をはじめとするすべての建物の面積は、合計で643㎡(約195坪)となっています。
Sêfa-utaki
斎場御嶽(せーふぁうたき)は、琉球開闢(かいびゃく)伝説にも登場する琉球王国最高の聖地です。最高位の神職である聞得大君(きこえおおきみ)との関係が深く、格式高い御嶽として知られており、中央集権的な王権を信仰面と精神面から支える国家的な祭祀の場でもありました。琉球王国の正史である『中山世鑑(ちゅうざんせいかん)』には、琉球の開闢神アマミクが創設した御嶽のひとつとして記されています。御嶽の中にはイビと呼ばれる神域が6カ所あります。琉球国王はこれらの場所を参拝しながら、国家の繁栄や安寧、五穀豊穣、航海安全などを神に祈願していました。琉球王国時代、国家的な催事の際には「神の島」と呼ばれる久高島から聖なる白砂を特別に運び入れ、御嶽に敷きつめていました。こうした祭事の中でも最大の行事が、聞得大君の就任式である「御新下り(おあらうり)」でした。

遺産DATA

保有国 : 日本国
分類 : 文化遺産
登録年 : 2000年
登録基準 : (ii) (iii) (vi)
遺産の面積 : 0.549㎢
バッファ・ゾーン : 5.597㎢

アクセス

【首里城】那覇空港駅から、ゆいレール(モノレール)で首里駅まで約27分。首里駅で下車後、徒歩で15分ほどで守礼門に到着。また、首里駅からは路線バス(首里城下町線8番)も出ており、首里城前バス停で下車すれば、徒歩3分ほどで守礼門に到着する。那覇空港から車やタクシーを利用した場合は、首里城公園まで約40分~1時間かかる。

執筆協力者PROFILE

アレセイア湘南高等学校教諭/NPO法人世界遺産アカデミー認定講師

國學院大学文学部史学科卒。東海大学大学院文学研究科史学専攻修士課程修了。文学修士。NPO法人世界遺産アカデミー認定講師。世界遺産検定マイスター。歴史能力検定1級。世界史、世界遺産、ビッグヒストリーに関するさまざまな書籍の執筆・翻訳・監修を手掛けてきた。