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構成資産・みどころ一覧

王妃の谷

Valley of the Queens
王妃の谷
ナイル川西岸、王家の谷の南西に「王妃の谷」があります。歴代の王たちが埋葬されている王家の谷に対して、ここでは王の妻や子どもたちが埋葬されています。主に新王国時代の第18王朝から第20王朝にかけての王妃が埋葬されています。第20王朝以降は、新しい墓は造営されることなく、やがて王妃の谷は放置されました。しかし、ローマ帝国時代に再利用され、またコプト教が流行した時期には修道女の避難所などにも使用されたようです。
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王家の谷

Valley of the Kings
王家の谷
古代エジプトの人々は、ナイル川の東岸を「生者の都」とし、西岸を「死者の都(ネクロポリス)」と考えていました。その西岸に王たちが墓を造るようになったのは紀元前1520年頃のことなのですが、過去にピラミッドで盗掘が目立ったこともあり、その建設は当初、秘密裏で行われていました。トトメス1世の墓の建設に関わった高官の碑文からも、そのことがうかがえるのが興味深いです。また、墓づくりの職人の集落がやがて出来、兵士が墓守をしていたことから、新王国時代(紀元前1550年頃~前1070年頃)の末期までは王墓群は盗掘から守られていたようです。今となっては、トトメス1世からラメセス11世までの約60の王墓が発見されていますが、全ての墓が発見されたというわけではありません。なお、「王家の谷」という名称はフランスの考古学者であるシャンポリオンが名付けました。実際には王以外の王族も埋葬されることがありました。
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ハトシェプスト女王葬祭殿

Hatshepsut Temple
ハトシェプスト女王葬祭殿
ナイル川西岸にあるハトシェプスト女王葬祭殿は、新王国時代第18王朝のハトシェプスト女王(在位:紀元前1473年頃~前1458年頃)が治世7年目から約15年かけてつくった葬祭殿です。ハトシェプスト女王は、王家の谷に初めて墓を築いたトトメス1世の娘であり、トトメス2世の妃でもありました。彼女は夫の死後、トトメス3世の摂政となるのですが、やがて自らをファラオと名乗り、約20年間にわたってエジプトを支配しました。古代エジプトでは、「ファラオは男性がなるもの」という伝統があったので、これは極めて異例の事態でした。そこで、彼女は公の場に出るときは顎髭をつけたりして、男装をしていたと言われています。彼女の死後、トトメス3世は積年の恨みを晴らすため、葬祭殿にあった男装の女王の立像を破壊し、女王にまつわるレリーフを削ったと言われています。キリスト教が伝わると葬祭殿はコプト教の修道院として利用され、現在一帯はアラビア語で「北の修道院」を意味する「デイル・エル・バハリ」と呼ばれています。
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ラメセス2世葬祭殿(ラメセウム)

The Temple of Ramses II(The Ramesseum)
ラメセス2世葬祭殿(ラメセウム)
ナイル川西岸にあるラメセス2世葬祭殿は、新王国時代の第19王朝のファラオ・ラメセス2世が建設した葬祭殿です。ラメセス2世は紀元前1279年頃に即位し、90歳を超えるまで約70年にもわたってエジプトを統治しました。この葬祭殿の建築に必要とした労働者は約3,000人以上と言われており、着工から約20年で完成したと言われています。葬祭殿は、王の葬祭だけでなく生前の儀式にも使われていたと考えられています。ヒエログリフを解読したことでも知られる、フランスの古代エジプト学者シャンポリオンは、ラメセス2世葬祭殿を「ラメセウム」と呼び、「テーベで最も高貴にして典雅な建物」と称えました。今でもその威厳ある葬祭殿を拝むことができます。
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ルクソール神殿

Luxor Temple
ルクソール神殿
ルクソール神殿は、エジプト最大の神殿であるカルナク神殿に付属する副神殿です。カルナク神殿の南西約3kmに位置しています。副神殿でありながら、重要な祭礼の舞台でもあり、「南の聖域」を意味する「イペト・レスィト」と呼ばれていました。神殿は、新王国時代のアメンホテプ3世(在位:紀元前1390年頃~前1352年頃)により造営され、その後ラメセス2世(在位:紀元前1279年頃~前1213 年頃)により大改築が行われました。第一塔門には、ラメセス2世が築いた高さ25mの巨大なオベリスクが立っています。元々は2本ありましたが、現地に残るのは1本のみです。もう1本は19世紀にフランスに贈られ、現在も遥か遠くのパリのコンコルド広場に存在しています。神殿内にはアメンホテプ3世やラメセス2世の中庭、大列柱廊などがあります。「誕生の間」には、アメンホテプ3世が、トトメス4世(在位:紀元前1400年頃~1390年頃)に変装したアメン・ラー神から誕生したという内容のレリーフが刻まれており、自らの権威を示すものとなっています。神殿は、古代ローマ帝国時代には皇帝崇拝の礼拝堂が築かれ、レリーフの上にフレスコ画が描かれました。また、イスラム教が興ってからはモスクとしても利用されました。
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カルナク神殿

Karnak Temple
カルナク神殿
現在のルクソールは、古代エジプトではテーベと呼ばれており、中王国時代(紀元前2040年頃~前18世紀頃)と新王国時代(紀元前1550年頃~前1070年頃)における都となりました。そのテーベにたたずむエジプト最大の神殿がカルナク神殿です。中王国時代に建設がはじまり、新王国時代には歴代の王が大規模な石像や列柱を神殿に寄進して、拡張していきました。カルナク神殿はテーベの守護神であるアメン神、その妻ムト女神、ハヤブサの神であるメンチュ神を祀った三つの神域と、プタハ神などのその他の神に捧げられた小神殿からなる神殿複合体です。
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シェイフ・ロトフォッラー・モスク

Sheikh Lotfollah Mosque
シェイフ・ロトフォッラー・モスク
広場の東側、アリー・カプー宮殿の対面にあるのがシェイフ・ロトフォッラー・モスクです。完成は1619年(1618年とも)で、広場を囲む他の建物より一足早く建てられました。シェイフ・ロトフォッラーとは、アッバース1世の妃の父である、レバノン出身の説教師(シェイフ)の名に因みます。モスクの規模は小さく、一般的なモスクと異なり、中庭もミナレットもありません。しかし、その精緻な内部装飾により「イランで最も美しいモスク」や「イラン芸術の白眉」と称されています。
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カイセリーヤ門

Qaysariyyeh Gate
カイセリーヤ門
イマーム広場の北辺にある門で、17世紀に建てられたサファヴィー朝時代の歴史的なモニュメントです。かつては3階建てでしたが現在は2階建てとなっており、壁面には美しい壁画が施されています。この門からイスファハーンの経済の中心である大バザールへつながっており、この門によって王の広場と民衆の世界が結ばれていました。大バザールはこの門から約2㎞にわたって延び、もうひとつの世界遺産『イスファハーンのマスジェデ・ジャーメ(金曜モスク)』まで続いています。
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イマームのモスク

Masjed-e Emam (Emam Mosque/Shah Mosque)
イマームのモスク
サファヴィー朝第5代の王アッバース1世が整備した都・イスファハーンの中心である「王の広場」の南辺に立つモスクです。建造は17世紀初頭で、イーワーン(アーチ型天井の窪み)型の門は高さ33m、4本あるミナレットは高さ42m、そして中央のドームは高さ53mという大きさです。その規模もさることながら、外壁やドームの青いタイルがとても印象的で、壁や天井の複雑で美しいアラベスク模様にも圧倒されます。それ故に「イスラム世界で最も美しいモスク」のひとつといわれています。ここはずっと「王のモスク(シャー・モスク)」と呼ばれてきましたが、1979年のイスラム革命で王政が倒されてからは、イスラムの宗教指導者を意味する「イマーム」という名を冠して「イマームのモスク」と改称されました。
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アリー・カプー宮殿

Ali Qapu Palace
アリー・カプー宮殿
アリー・カプー宮殿は、イマーム広場の西辺にある宮殿です。もともとこの場所にはティムール朝時代の宮殿があり、それをサファヴィー朝の第5代王・アッバース1世が現在の6階建て高さ38mの建物に改築しました。外側のテラスからは広場が一望でき、王はここから式典や競技を観覧したといわれています。最上階には「陶磁器の間」と呼ばれる空間があります。天井から壁はムカルナス(鍾乳石に似せた装飾)があしらわれており、壁面は瓶や壺の形にくり抜かれています。かつてはそこに陶磁器が飾られていました。この壁面の穴は単なる装飾だけでなく、部屋の音響調整をもたらす効果があり、陶磁器の間は音楽堂として機能していました。内部装飾も素晴らしく、複雑な細工やモザイク画に加えて、イラン芸術の粋といわれる人や動物をモチーフとした細密画(ミニアチュール)で飾られており、一見の価値ありと言えます。
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二条城

Nijo-jo (castle)
二条城
二条城は、江戸幕府の初代将軍である徳川家康が、天皇の暮らす京都御所の守護と将軍上洛時の宿泊所とするために、1603年に築いたものです。京都市内にはかつて、織田信長や羽柴秀吉(豊臣秀吉)などが築いた二条城と呼ばれる城もありましたが、現在残っているのは徳川家康が築いた城のみです。江戸幕府3代将軍の徳川家光が大改修を行い、障壁画などに彩られた壮麗な城となりました。1867年には第15代将軍の徳川慶喜が二の丸御殿で政権を朝廷に返上する「大政奉還」の意思を示し、250年以上続いた江戸幕府の時代が幕を閉じました。
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嘆きの壁

Western Wall
嘆きの壁
紀元前1000年ごろ、古代イスラエル王国の第2代王ダヴィデは、エルサレムを都としました。続くダヴィデの息子ソロモンは、紀元前965年ごろに現在「神殿の丘(ハラム・アッシャリーフ)」と呼ばれるモリヤの丘に、エルサレム神殿(第一神殿)を建設しました。この神殿には、ユダヤ教の律法の戒律「十戒」を記した石板を収めるための「契約の櫃」が置かれていました。「十戒」は、紀元前13世紀頃にヘブライ人の指導者モーセが神から授けられたとされるものです。元は遊牧民族であったヘブライ人は、『旧約聖書』によると紀元前1500年頃にパレスチナの地に定住し、一部はエジプトへと進出しましたが、エジプトのファラオによって迫害を受けて奴隷とされていました。モーセはヘブライ人を導いてエジプトを脱出(出エジプト)し、シナイ山で十戒の石板を与えられたと言われています。この出来事は、一神教と偶像崇拝の禁止を特徴とするユダヤ教の成立に大きく寄与したと考えられています。十戒を収めた神殿の最奥部は、大祭司が年に一度特別な儀式を行うことでしか入れない場所で、最も神聖な空間でした。
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聖墳墓教会

The Church of the Holy Sepulchre
聖墳墓教会
聖墳墓教会は、イエスの墓とされる場所に立つ教会です。1世紀初頭、イエスは現在のイスラエル北部にあたるガリラヤ地域で伝道を行っていたとされます。ユダヤ教を指導していた伝統的な祭司や、律法を厳格に遵守するパリサイ派を形式主義として批判しました。パリサイ派を含む宗教指導者層の一部などは、イエスがローマ帝国への反逆分子であるとして、当時のユダヤ属州総督ポンテオ・ピラトに訴えました。そして西暦30年ごろ、イエスはエルサレムで死刑判決を受け、当時最も重い刑罰であった十字架刑に処されました。磔刑が執行されたゴルゴタの丘は、ユダヤ戦争やローマ帝国の支配によって場所が分からなくなっていましたが、326年にローマ皇帝のコンスタンティヌス帝の母ヘレナによって特定され、コンスタンティヌス帝の命で335年に最初の聖墳墓教会が建てられました。7世紀にエルサレムがイスラム勢力の支配下に置かれた際、第2代正統カリフのウマルは教会の破壊や転用を禁じましたが、1009年にファーティマ朝のカリフ、アル・ハーキムによって破壊されてしまいます。そこから約100年後となる1099年、エルサレムを占領した第一回十字軍がロマネスク様式の聖堂を建設し、聖墳墓教会を再建しました。1187年、サラディンによってエルサレムが奪還された後も教会は存続し、現在に至るまでイスラム教徒の一族が鍵と扉の管理を担っています。
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コロニア・グエル教会地下礼拝堂

Cripta de la Colònia Güell
コロニア・グエル教会地下礼拝堂
コロニア・グエル教会地下礼拝堂は、バルセロナ市の郊外サンタ・コロマ・ダ・サルバリョにあります。繊維業で成功を収めていたエウゼビ・グエルは、自身の工場をこの場所に移転し、それに伴って工場労働者のための住居や学校、商店、劇場、教会など、街を丸ごとつくる計画を立てました。フランセスク・ベレンゲーやジョアン・ルビオなど、カタルーニャ出身の建築家が街の設計に参加し、その中で教会を任されたのがアントニ・ガウディでした。ガウディは、1898年の設計依頼から、教会の模型を作るのに10年を費やし、実際の建設工事に着手したのは1908年でした。しかし着工から6年後に依頼主のグエルが亡くなると、その跡を継いだ息子たちは教会の建設には消極的でした。さらに、ガウディ自身もサグラダ・ファミリアの建設に専念し始めていたため、完成したのは地下礼拝堂にとどまり、教会全体は未完成に終わってしまいました。
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グエル邸

Palau Güell
グエル邸
グエル邸は、1886年から1890年にかけて、バルセロナ中心部に実業家エウゼビ・グエル一家の住居と当時の富裕層が集まる社交空間として、建築家アントニ・ガウディによって設計されました。1918年のグエルの死後、邸宅は未亡人や相続人たちに受け継がれたのち、スペイン内戦中は警察署として使われた時期もありました。1944年アメリカの大富豪から邸宅の石材を一つずつ解体して自国に移築したいという申し出がありましたが、1945年グエルの末娘であるメルセ・イ・ロペスは、終身年金と建物を保存して文化的目的で使用する条件で邸宅をバルセロナ州議会に寄贈しました。
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グエル公園

Parc Güell
グエル公園
かつて禿山を意味するムンタニャ・ペラーダとよばれた場所にあるグエル公園は、当初は公園としてではなく、富裕な人々への住宅地を建設する民間プロジェクトとして整備されました。実業家エウゼビ・グエルはイギリスのような公園住宅の設計を建築家アントニ・ガウディに依頼し、地形に合わせて道路、高架橋、階段などが整備され、約60区画の住宅地が設けられました。1900年に工事が開始され、ガウディは敷地内に生えていたオリーブなどの植物をそのまま活かし、住宅には海を臨む眺望を遮らない高さと周囲への日当たりにも配慮するなど、厳しい建築条件を定めました。住宅区画を最初に購入したのは、グエルの友人で弁護士のマルティ・トリアス・イ・ドメネクでした。ガウディ自身も、1906年に父親と姪と一緒に暮らすためにここへ移住しています。しかしバルセロナ中心部から遠く上り坂がある住宅の購入者は集まらず、1914年に工事は中止され、実際に建設された住宅は60戸のうち2戸だけでした。グエルの死後、この場所はバルセロナ市に売却され、1926年に市立公園として開園しました。公園内にあるガウディの家は、1963年にガウディ博物館として一般公開されています。
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カサ・ミラ

Casa Milà "La Pedrera"
カサ・ミラ
カサ・ミラは建築家アントニ・ガウディが彼独自の手法を確立した円熟期にあたる1906年から1912年にかけて建設され、ガウディにとって最後の個人注文主による建築物となりました。バルセロナのグラシアス通りに、オーナーのペレ・ミラとロサリオ・セギモンの住居を1階に、2階から5階には王侯、外交官、起業家、俳優、芸術家、政治家、ジャーナリストなど多彩な人たちが住む賃貸用共同住宅として完成しました。しかし当初、カサ・ミラの革新性は理解されず、新聞にはカタルーニャ語で「ラ・ペドレーラ(石切り場)」と酷評され、その装飾が気に入らなかったロサリオ・セギモンは、ガウディの死後、自分の階の一部を取り壊すように命じたこともありました。スペイン内戦中に共和国政府に押収されて各部門の本部が置かれた時代もありましたが、現在は賃貸住宅やオフィス、店舗としての入居も行われ、博物館となっている最上階と屋上や住居部分の一部は見学することができます。
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カサ・ヴィセンス

Casa Vicens
カサ・ヴィセンス
カサ・ヴィセンスは、バルセロナの郊外グラシア地区にあります。1883年から1888年にかけて、通貨取引業者で株式仲買人のマヌエル・ヴィセンスと妻ドロルス・ヒラルトの夏の別荘として、若きガウディによって設計されました。この場所は当時グラシア村とよばれた農村でしたが、急速に都市化するバルセロナの労働者や中流階級の人々が移り住む地区として発展しました。30歳の若いガウディにとって初めての住宅建築であり、彼の建築家としての出発点ともいえる場所です。
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カサ・バトリョ

Casa Batlló
カサ・バトリョ
カサ・バトリョが立つバルセロナのグラシア通り43番地は、スペイン語で「地区」と「リンゴ」が同じ綴りであることから、「不和のリンゴ」と皮肉られる場所でした。当時成長しつつあった富裕層が競い合うように著名な建築家に設計を依頼し、ガウディのライバルとされたリュイス・ドメネク・モンタネールによるカサ・リュオ・モレラや、ジョセップ・プッチ・イ・カダファルクによるカサ・アマトレなど個性豊かな建物が並んでいます。もとの建物は1877年、建築家エミリ・サラ・コルテスによって建てられました。1903年、繊維業者のジョセップ・バトリョ・イ・カサノバスがこの建物を購入し、建築家アントニ・ガウディに色使いや外観も含めた大胆な改築を依頼しました。周囲の建物を意識しながらも独創的に設計されたカサ・バトリョは、「骨の家」「仮面の家」「ドラゴンの家」など、さまざまな愛称で親しまれる建物となりました。
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サグラダ・ファミリア贖罪聖堂

Temple Expiatori de la Sagrada Família
サグラダ・ファミリア贖罪聖堂
サグラダ・ファミリア(聖家族贖罪教会)は、建築家アントニ・ガウディが世界的に知られるきっかけとなった代表作であり、バルセロナを象徴する建物です。建設は1882年に始まり、当初は建築家フランシスコ・デ・パウラ・ヴィラールが、ネオゴシック様式を取り入れて後陣の地下礼拝堂から建設工事を進めていました。しかし、資金面での意見対立からヴィラールが解任されると、その後をガウディが設計と建設を引き継ぎました。当時、建築家として頭角をあらわしはじめていたガウディは、地下礼拝堂を完成させた後、教会全体の設計を従来のネオゴシック様式から新しく革新的で壮大なものへと大幅に変更しました。
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アヤ・ソフィア(ハギア・ソフィア)

Ayasofya (Hagia Sophia)
アヤ・ソフィア(ハギア・ソフィア)
スルタンアフメト地区に立つアヤ・ソフィアは、ビザンツ建築の最高傑作と評され、オスマン建築に多大な影響を与えた建造物です。建築技術の高さ、壮麗なモザイク装飾など建築・芸術の面だけでなく、キリスト教とイスラム教の宗教的な面においても、きわめて重要な意味をもっています。元来はギリシャ語で「聖なる叡智」を意味する「ハギア・ソフィア」と呼ばれていました。歴史的には、キリスト教を公認したローマ皇帝コンスタンティヌス1世の息子であるコンスタンティウス2世が360年に建てた礼拝堂を前身としています。この礼拝堂は404年に焼失し、415年に再建されましたが、532年にユスティニアヌス1世に対して市民が蜂起したニカの乱によって再び焼失しました。ユスティニアヌス1世は動乱鎮圧後、すぐに再建を開始し、537年にアヤ・ソフィアを完成させました。1204~1261年の第4回十字軍に伴うラテン帝国成立期には、一時カトリック教会として使用された時期もありますが、約1,000年にわたりギリシャ正教会の総本山として信仰を集めました。
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スルタンアフメト・モスク

Sultan Ahmet Camii
スルタンアフメト・モスク
イスタンブルの歴史地区として登録されている4つのエリアのうち、もっとも海側に位置するのが、スルタンアフメト・モスク地区です。その中心となるスルタンアフメト・モスクは、1609~1616年(1617年とも)に建設されました。建設を命じたのは、当時19歳だったオスマン帝国第14代スルタンのアフメト1世です。一説には、他のスルタンのように軍事的な勝利を収めることのできなかったアフメト1世が、自身の権威を誇示するために建設を始めたとも言われています。流れるように連なる大小のドームと、6つのミナレットを備えるこのモスクは、イスタンブルのスカイラインでひときわ大きな存在感を放っていますが、最も特筆すべきは壮麗な内部空間です。内部は青いタイルで装飾されており、その美しさから「ブルー・モスク」とも呼ばれています。
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スレイマニエ・モスク

Süleymaniye Camii
スレイマニエ・モスク
スレイマニエ・モスクは、オスマン帝国の最盛期を築いたスレイマン1世(大帝)の命により、1551~1558年(1557年とも)にかけて建設されました。設計を担当したのは、帝国史上最も高名な建築家ミマール・スィナンです。スレイマン1世はモスクの建設に強い情熱を注ぎ、自ら石材を運ぶなどの作業に従事したと言われています。約7年の歳月をかけて完成した壮大なモスクは、金閣湾を一望する丘の上に佇み、現在もイスタンブルの街でひときわ存在感を放っています。
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ゼイレク・モスク

Molla Zeyrek Camii
ゼイレク・モスク
ゼイレク・モスクは、ビザンツ皇帝のヨハネス2世コムネノス(在位:1118~1143年)と、その最初の皇后であるエイレーネーによって、1118~1136年にかけて建設されたパントクラトール(全能者ハリストス)修道院の一部を前身としています。南側のパントクラトール教会と、北側の生神女教会、両者を結ぶ礼拝堂で構成されていました。修道院には図書館や病院が含まれ、礼拝堂にはヨハネス2世コムネノスをはじめとするコムネノス朝やパレオロゴス朝の皇帝が埋葬されるなど、宗教儀礼、医療、教育の場を兼ね備えていたようです。しかし、1204~1261年のラテン帝国期には、パントクラトール修道院が所蔵していた多くの聖遺物や聖具がヴェネツィアへと持ち去られ、建物も大きな損傷を受けました。
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テオドシウスの城壁

Theodosian Walls
テオドシウスの城壁
北の金閣湾と南のマルマラ海を結ぶように、全長約6kmにわたって延びる「テオドシウスの城壁」は、ローマ皇帝テオドシウス2世の治世下の413年に築かれた城壁です。イスタンブル旧市街は三方を海に面していますが、街の西側は陸続きのため攻め入れられる可能性がありました。この弱点を克服するために建設されたのが城壁で、古くは4世紀のコンスタンティヌス1世の時代に遡り、「テオドシウスの城壁」はさらにその西側にあります。テオドシウス2世の父アルカディウスの治世下にあたる404年頃から始まったようです。413年に完成しますが、447年の大地震で深刻な被害を受けました。ちょうどそのころ、アッティラ率いるフン族がイスタンブルまで迫っており、わずか60日で城壁の修復作業が行われたと伝わっています。
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トプカプ宮殿

Topkapı Palace
トプカプ宮殿
コンスタンティノープル征服からわずか6年後の1459年、メフメト2世によってマルマラ海とボスフォラス海峡を臨む岬に建設が開始されたのがトプカプ宮殿です。1856年に宮廷がドルマバフチェ宮殿に移されるまで、トプカプ宮殿は歴代スルタンの宮廷生活と政務の場となりました。「トプカプ」の名は18世紀以降、宮殿近くにあった「大砲の門」にちなむもので、それまでは「新宮殿」と呼ばれていました。宮殿の面積はおよそ70万㎡あり、外廷、内廷、後宮(ハーレム)の3つに大きく分かれています。アヤ・ソフィアの南東にある「帝王門」と呼ばれる正門から入ることができます。
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地下宮殿

Basilica Cistern
地下宮殿
スルタンアフメト地区アヤ・ソフィアのすぐ近くに、ビザンツ帝国時代の貯水池としては現存最大規模を誇る地下貯水池があります。ビザンツ皇帝ユスティニアヌス1世(在位:527~567年)が築いたもので、長さ約140 m、幅約70mの長方形の空間に、多数の柱がそびえる様子が宮殿のように見えることから、トルコ語では「イェレバタン・サラユ」(地下宮殿)とも呼ばれています。高さ9mの大理石の柱は合計336本、28本ずつ12列にわたり均等な間隔で立ち並んでいます。メドゥーサの頭が彫られた土台が据えられた柱や、コリント様式の柱頭をもつものなどさまざまです。この貯水池は面積1万㎡、貯水量はおよそ8万tもあり、ビザンツ帝国時代は宮殿とその周辺の建物に水を供給していたと考えられています。1950年代以降に修復工事が複数回を行われ、1987年に一般公開されるようになりました。
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ウフィツィ美術館

Galleria degli Uffizi
ウフィツィ美術館
コジモ1世は、フィレンツェのさまざまな場所に点在していた行政機関を一カ所にまとめることを目的に、ジョルジョ・ヴァザーリに行政庁舎の建設計画を依頼します。1560年に始まった建設は、13の事務所が集められ1580年に完成しました。ウフィッツィというのは、イタリア語のオフィス(ウフィッチオ)の複数形です。コジモ1世はヴェッキオ宮殿とピッティ宮殿を結ぶ回廊の建設も命じ、1565年にはフランソワ1世とジョアンナの結婚を記念してウフィッツィとピッティ宮殿を結ぶヴァザーリの回廊も建設されました。フランチェスコ1世はウフィッツィの最上階を美術品の展示スペースとし、フランチェスコ1世の後を継いだ弟のフェルディナンド1世は、コジモ1世の遺言に従い肖像画コレクションをヴェッキオ宮殿からウフィッツィに移しました。1737年にメディチ家のジャン・ガストーネ大公が後継者を残さずに亡くなると、妹のアンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチは「メディチ家の財産はフィレンツェのもの」として美術品コレクションの全てをフィレンツェ市に遺贈し、ウフィッツィ美術館として公開されています。
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ヴェッキオ宮殿

Palazzo Vecchio
ヴェッキオ宮殿
ヴェッキオ宮殿は、アルノルフォ・ディ・カンビオの設計で1298年から建設が始まりました。ローマ教皇を支持するゲルフ(教皇派)に敗れた、神聖ローマ皇帝を支持するギベリン(皇帝派)の貴族の邸宅跡に建てられたプリオーリ宮殿(政務官の宮殿)を増築する形で建設され、権力の象徴として建てられた高くそびえる塔はアルノルフォの塔とも呼ばれます。シニョーリア宮殿(領主の宮殿)と呼ばれていましたが、1540年からコジモ1世の邸宅として使用され、新たにピッティ宮殿が建設されてコジモ1世がそちらに移ってからは、ヴェッキオ宮殿(古い宮殿)と呼ばれるようになりました。
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サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂

Cattedrale di Santa Maria del Fiore
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂
フィレンツェのシンボルでもあるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の名前は、「花の聖母マリア大聖堂」という意味で、地名のフィレンツェ(英語名フローレンス)のラテン語の語源「フロレンス(花が咲いた)」と、都市の紋章に用いられているユリの花に由来しています。世界最大級の聖堂のひとつで、大聖堂の全長は153m、高さは92mもあります。1296年から、古い教会堂があった場所の上で新たな大聖堂の建設が始まりました。アルノルフォ・ディ・カンビオの設計に従いゴシック様式で建築が進められ、14世紀中ごろからフランチェスコ・タレンティによって拡張されて現在みられる大聖堂の基本形が完成しました。現在は3つの身廊を持つ三廊式バシリカと八角形のサン・ジョヴァンニ礼拝堂、ジョットの鐘楼で構成されています。
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