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ブルー・ナ・ボーニャ:ボイン渓谷の考古遺跡群
Brú na Bóinne - Archaeological Ensemble of the Bend of the Boyne
『ブルー・ナ・ボーニャ:ボイン渓谷の考古遺跡群』は、アイルランドに現存する最大の先史遺跡であり、首都ダブリンの北約40km、ボーニャ川とマトック川に挟まれた尾根に位置しています。現在は主に農地として利用されているこの地域は、100年以上にわたり考古学者や歴史学者によって広範囲に調査され、多くの特徴が発掘調査によって明らかになってきました。遺産は、ニューグレンジ、ノウス、ダウスの3カ所にある大型石室墓と、点在する40以上の古墳で構成されています。これらの古墳群は、古代における重要な儀式の中心地であったと考えられているほか、鉄器時代、初期キリスト教時代、中世といった後の時代にも遺跡が築かれており、極めて重要な歴史的価値を有しています。
ブレナム宮殿
Blenheim Palace
文化交差路サマルカンド
Samarkand – Crossroad of Cultures
紀元前から東西交易の要衝で中央アジア最古の都市で、紀元前7~8世紀にはソグド人の都市が築かれたと言います。サマルは「人々が出会う」、カンドは「街」という意味で、まさに世界の交差点ともいうべきところです。歴史的には3度破壊されています。紀元前4世紀にはアレクサンドロス大王が、8世紀にはアラブ人のイスラム勢力が、そして13世紀にはモンゴルのチンギス・ハンが攻め寄せてきました。特にモンゴル軍の破壊はすさまじく、住民はことごとく殺され、建物はほぼすべて破壊されたと伝わっています。今その場所は「アフラースィヤーブの丘」となり当時のものは何も残されていません。その後14世紀になってティムールがサマルカンドを帝国の都と定め、街の中心はアフラースィヤーブの丘から現在のレギスタン広場へと移りました。
ペルシアの隊商宿
The Persian Caravanserai
隊商宿(キャラバンサライ)とは、古代の街道沿いに存在した、隊商(キャラバン)のための宿泊施設のことです。その起源は、アケメネス朝ペルシア時代に「王の道」として整備された道路網に沿って設けられた中継施設といわれています。その後、シルク・ロードや巡礼路の道沿いにこのような施設が大小さまざま無数につくられ、19世紀末のカージャール朝の時代まで続きました。隊商宿では水や食料が提供され、安全に休むことができたほか、民族や言語が異なる商人たちの交流の場としても機能していました。砂漠や荒野をひたすら歩いて移動していた人々にとって、これらの隊商宿は生きていくために必要な施設でした。世界遺産には、イランに点在する54件の隊商宿が登録されています。
ポルトヴェーネレ、チンクエ・テッレと小島群(パルマリア島、ティーノ島、ティネット島)
Portovenere, Cinque Terre, and the Islands (Palmaria, Tino and Tinetto)
ボロブドゥールの仏教寺院群
Borobudur Temple Compounds
『ボロブドゥールの仏教寺院群』は、ジャワ島中部にある仏教の石造遺跡群です。8〜9世紀にかけてシャイレンドラ朝によって建設されました。インドから伝播した仏教の流れは、主に東南アジア方面で広まった「上座部仏教」と、中国経由で日本にも伝わってきた「大乗仏教」に大別されますが、この遺産は大乗仏教の寺院遺跡です。王朝がわずか100年で滅亡すると、近くにあるムラピ山の火山灰に埋もれ、植物に覆われて忘れ去られていきました。それから約1,000年後の1814年、英国のジャワ総督代理とオランダ人技師により、密林の中から「発見」されました。最大規模のボロブドゥール寺院、ムンドゥー寺院とパウォン寺院から構成され、3つの寺院はほぼ東西一直線に並んでいます。
ポンペイ、エルコラーノ、トッレ・アヌンツィアータの考古地区
Archaeological Areas of Pompei, Herculaneum and Torre Annunziata
西暦79年、ナポリの東にあるヴェスヴィオ山が大噴火しました。その噴火の火砕流・土石流や火山灰で周辺の古代ローマの都市は壊滅しました。ヴェスヴィオ山の南にあったポンペイの街はそれから千年以上にわたり、火山灰と火山礫に埋もれたままでしたが、16世紀に農民が偶然発見し、18世紀半ばから本格的な発掘が始まりました。ヴェスヴィオ山のすぐ西側にあったヘルクラネウム(現エルコラーノ)も高温の火砕流に襲われた後、火山灰に埋もれました。これらの街で発掘された遺跡から、広場や公共の建築物があり、石で舗装された通りの両側に住宅や店舗が並ぶ古代ローマの街並みを知ることができます。ポンペイ近郊の町トッレ・アヌンツィアータには皇帝ネロの妻ポッパエアの別荘「オプロンティスのヴィラ」が発掘されています。
マドリードのエル・エスコリアール修道院と王立施設
Monastery and Site of the Escurial, Madrid
ミケーネとティリンスの考古遺跡
Archaeological Sites of Mycenae and Tiryns
ホメロスの『イリアス』を史実と信じ、トルコのトロイア遺跡を発掘したシュリーマンは、あまりにも有名な考古学者です。彼はさらに、「黄金に富める国」と謳われたミケーネを求めて発掘を続けました。トロイア遺跡発掘から3年後の1876年、彼はついにミケーネの都市遺跡から円形墳墓や黄金のマスクなどを発見し、歓喜したのです。ミケーネを中心とするミケーネ文明は紀元前1600年から前1100年の間に地中海世界に広がった文明であり、クレタ文明と並ぶエーゲ文明の代表的な文明として知られています。戦士を社会の中枢に据えた武力社会だったとされ、海洋的と評されたクレタ文明とは真逆の社会だったようです。また、ミケーネの支配下にあったティリンスもシュリーマンにより発見され、同じく世界遺産に登録されています。
ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ修道院とレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』
Church and Dominican Convent of Santa Maria delle Grazie with “The Last Supper” by Leonardo da Vinci
ミラノの中心部に位置するサンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ教会は、15世紀の半ばに完成した教会です。敷地内にはドミニコ会の修道院があります。その食堂の壁には、レオナルド・ダ・ヴィンチが1495年から97年にかけて描いた『最後の晩餐』が残ります。縦4.2m×幅9.1mの巨大な壁画で、「遠近法」と「明暗法」を取り入れ、イエスとその弟子たちをリアルに浮き立たせた名画です。壁画は、壁の漆喰が乾ききらないうちに描くフレスコ画ではなく、卵などを絵具に混ぜて固定材として使用するテンペラ画の技法で描かれました。速乾性に優れ、細やかな筆遣いを可能としましたが、壁に描く場合は耐久性に劣るため、「最後の晩餐」も早くに損傷が進み、20世紀後半には修復作業が行われました。
ムザブの谷
M'Zab Valley
ムツヘタの歴史的建造物群
Historical Monuments of Mtskheta
ジョージア中央東部、アラグヴィ川とムトゥクヴァリ川の合流点に位置するムツヘタは、紀元前4世紀から5世紀までイベリア王国(カルトリ)の首都として繁栄しました。4世紀にキリスト教が伝わり、国教となることが宣言されたこの場所には、聖堂や修道院が建てられています。首都がトビリシに移された5世紀以降も、ムツヘタはキリスト教の拠点として主導的な役割を維持し続けました。現在でもジョージア正教会と使徒教会の本部が置かれている重要地点です。自然条件に恵まれ、貿易ルートの交差点でもあるこの場所は、ペルシア、アラブ、ビザンツ帝国などの支配下に置かれたことで文化的な影響を受けます。主にビザンツ帝国の影響を受けて発展し、地元の文化的伝統の融合につながりました。
ムンバイにあるヴィクトリア朝ゴシックとアール・デコの建造物群
Victorian Gothic and Art Deco Ensembles of Mumbai
メテオラの修道院群
Meteora
メテオラとはギリシア語で「中空に浮く」という意味であり、ギリシア中部にあるメテオラでは、奇岩群が数多くあり、その上に修道院が立っているという、世界でも類を見ない景観が見られます。この奇岩群が形成されたのは今から6,000万年前に誕生したとされ、そこから長い年月をかけて川の水が谷を削り、硬い部分だけが残った結果、このような景観が生まれました。この景観を神の地と思ったのか、古くから人々が住み着いていました。9世紀頃から、現実世界から離れて、決して住みやすいとは言えないこの場所に修道院を築き、祈りを捧げるようになるのです。修道院群があたかも空中に浮いているように見えるから、この地はメテオラと言われました。最盛期には24の修道院があり、7つの修道院が世界遺産に登録されています。
メラカとジョージ・タウン:マラッカ海峡の歴史都市
Melaka and George Town, historic cities of the Straits of Malacca
メロエ島の考古遺跡
Archaeological Sites of the Island of Meroe
スーダン中央東部、ナイル川とアトバラ川に挟まれた半砂漠地帯には、紀元前8世紀から後4世紀にかけて栄えたクシュ王国の遺跡が残ります。クシュ王国とは、前10〜9世紀頃にナイル中部地域に興隆した大国でした。王国の文化は、ナパタ文化とメロエ文化の2つの時期に分けられます。前期は紀元前900〜前270年にかけてナパタ地域を中心に栄え、当時の支配者の埋葬地などを含む遺跡は『ゲベル・バルカルとナパタ地域の遺跡群』として世界遺産に登録されています。メロエ文化は、王国がナイル川近くのメロエへと遷都し最盛期を迎えた前270〜後350年の時期を指し、地中海からアフリカの中心部まで版図を広げました。本遺産には、メロエにあるクシュ王の王都や、内陸に位置する宗教遺跡のナカとムサワラット・エス・スフラが含まれています。ピラミッド、寺院、住宅、灌漑システム、工業地帯などがあり、1,000年以上にわたって形成されたメロエ文化の証拠でもあります。
モデナ:大聖堂と市民の塔(トッレ・チヴィカ)、グランデ広場
Cathedral, Torre Civica and Piazza Grande, Modena
モヘンジョ・ダーロの遺跡群
Archaeological Ruins at Moenjodaro
モラヴィア教会入植地
Moravian Church Settlements
ヤヴォルとシフィドニツァの平和教会
Churches of Peace in Jawor and Świdnica
ヨーロッパの大温泉都市群
The Great Spa Towns of Europe
イタリア、英国、オーストリア、チェコ、ドイツ、フランス、ベルギーの7ヵ国に点在する11の温泉都市で構成される、国境を越えたひとつの世界遺産です。18世紀初頭から1930年代にかけて、ヨーロッパにおける温泉文化が最も隆盛を極めたことを示しています。これらの都市は、互いに影響しあいながら街づくりをし、絵画のような景観の中で、美しくデザインされたレクリエーション施設や治療・療養環境が整えられていきました。ヨーロッパの温泉文化の発展に貢献した数百の温泉地の中でも、最も洗練された大規模な都市が世界遺産に選ばれました。そのひとつである英国の「バース」は、古代ローマの温泉の遺構が残る現役の温泉施設で、1987年に『バースの市街』として単独でも世界遺産に登録されています。
ラサのポタラ宮歴史地区
Historic Ensemble of the Potala Palace, Lhasa
ラジャスタン州のジャイプール市街
Jaipur City, Rajasthan
ラジャスタンの丘陵城塞群
Hill Forts of Rajasthan
ラ・ショー・ド・フォン/ル・ロクル、時計製造都市の都市計画
La Chaux-de-Fonds / Le Locle, watchmaking town planning
ラス・メドゥラス
Las Médulas
『ラス・メドゥラス』は、スペイン北西部の山岳地帯にあるローマ帝国時代の金の採掘場です。1世紀、ローマ帝国はこの地域で、水力を利用した技術による金鉱脈の開発に着手しました。湧き水、雨、雪解け水を一度大きなダム(貯水池)に集め、そこから長距離にわたって延びる水路が鉱山とつながれていました。ダムの水門を開くと、大量の水が水路に流れ込み、水圧によって鉱山では土砂崩れが発生します。こうすることで露出された大量の金を一気に採取することができました。このような採掘方法は「ルイナ・モンティウム」(山崩し)と呼ばれました。採掘の過程で生じた選鉱屑は数キロにわたって堆積しており、一部では農地として利用されている場所もあります。
ラニ・キ・ヴァヴ:グジャラト州パタンにある王妃の階段井戸
Rani-ki-Vav (the Queen’s Stepwell) at Patan, Gujarat
ラムの旧市街
Lamu Old Town
ケニア南東部インド洋に浮かぶラム島の島内に広がる旧市街は、12世紀から海洋交易の拠点として発展してきた歴史を持っています。かつて東アフリカで最も重要な貿易の中心地で、宗教的、文化的、技術的に重要な影響を与えてきました。また、東アフリカのスワヒリ圏の市街地遺跡としては最も歴史が古く、かつ保存状態も良好であることで知られています。アジアから見るとアフリカ大陸の入り口に相当するこの街は、象牙や奴隷が集まる集散地となり、アラブやペルシャ、インド、ヨーロッパの商人たちによって活発な取引が行われていました。他のスワヒリ圏の古い集落と比べて、ラムの旧市街には700年以上もの長きにわたって人々が住み続け、今もなお街として機能し続けていることが特徴です。
ラリベラの岩の聖堂群
Rock-Hewn Churches, Lalibela
ランスのノートル・ダム大聖堂、サン・レミ旧修道院、トー宮
Cathedral of Notre-Dame, Former Abbey of Saint-Rémi and Palace of Tau, Reims
ランスが大きく発展したのは、496年頃にフランク王国のクローヴィス1世がこの地でキリスト教カトリックの洗礼を受けたことがきっかけです。クローヴィスはゲルマン人のフランク族を統一すると、481年にフランク王国メロヴィング朝をひらきました。彼はゲルマン人のアレマン族との戦いで、イエス・キリストが勝利に導いてくれたら洗礼を受けると天に誓います。そうして見事勝利を収めたため、王妃や約3,000人のフランク族の兵士と一緒に洗礼を受けました。このことは、カトリック教会がフランク王国という強い後ろ盾を得たことを意味しました。この時、クローヴィスに洗礼を与えたのが聖レミギウス(サン・レミ)だと伝わります。その後、1825年のシャルル10世まで32人の王がランスで戴冠式を行い、そのうち25人の王が現在のノートル・ダム大聖堂で戴冠式を行いました。