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ブリュッセルのグラン・プラス
La Grand-Place, Brussels
ブルー・アンド・ジョン・クロウ山脈
Blue and John Crow Mountains
ブルキナファソの古代製鉄遺跡群
Ancient Ferrous Metallurgy Sites of Burkina Faso
ブルキナファソは、西アフリカに位置し、北はマリ、東はニジェール、南はガーナなどに囲まれた内陸の国です。この世界遺産は、国内にあるティウェガ、ヤマネ、キンディポスカイ、ドッルラの5つの遺跡で構成されています。現在も直立している約15基の自然通風炉、溶鉱炉の土台、鉱山、住居跡などが含まれています。通風炉は高いもので5mを迎えています。最も古いドゥルラの遺跡は紀元前8世紀に歴史を遡り、アフリカにおける製鉄業の発展において最初期の段階を示しています。その他4つの遺跡には、西アフリカの社会が複雑化した2千年紀に鉄の生産が増加したことを伝えています。そして現在も村の鍛冶屋はさまざまな儀式に参加しながら、鉄の道具の供給などを行っています。
ブルゴスの大聖堂
Burgos Cathedral
ブルサとジュマルクズク:オスマン帝国発祥の地
Bursa and Cumalıkızık: the Birth of the Ottoman Empire
オスマン帝国は1299年に誕生し、1922年に滅亡する非常に寿命の長い帝国ですが、その初期の都となったのがこのブルサです。オスマン帝国はブルサ、エディルネ、イスタンブルと都を変えてきました。世界遺産には、トルコ北西部の南マルマラ地方に位置するブルサの8つの遺跡群、その近郊の村であるジュマルクズクからなる遺跡群が登録されています。ブルサはシルク・ロードの西の基点として繁栄し、オスマン帝国はビザンツ帝国からブルサを奪い、1326~1365年まで首都としました。現在でも300万人以上の人口を有し、トルコ第4の都市として栄えています。ブルサには、オスマン帝国による都市部と農村部からなる都市設計が見られ、それが現在でも残っているため非常に高く評価されています。
ブルノのトゥーゲントハート邸
Tugendhat Villa in Brno
ブレーメンのマルクト広場にある市庁舎とローラント像
Town Hall and Roland on the Marketplace of Bremen
ドイツ北西部ブレーメンの市場広場にある市庁舎とローラント像は、ヨーロッパの神聖ローマ帝国において発展した都市の自治権と市場特権を象徴する優れた遺構です。旧市庁舎(ラートハウス)は15世紀初頭にゴシック様式のホール建築として建てられ、17世紀初頭にはいわゆるヴェーザー・ルネサンス様式で改修されました。20世紀初頭には旧市庁舎の隣に新市庁舎が建設され、第二次世界大戦の爆撃を生き延びた建築群の一部となっています。旧市庁舎は、41.5m × 15.8m の長方形平面を持つ二階建てのホール建築で、「横長の矩形ホール構造」と呼ばれています。1階はオーク材の柱を持つ大広間で、商人の取引や演劇の場として使われていました。2階には同じ大きさの祝祭ホールがあります。窓の間には、ゴシック期の皇帝や選帝侯を表す石像が並び、後期ルネサンスの装飾と融合して市民自治を象徴しています。地下には1階と同じ規模の石柱を持つ大きなワインセラーがあり、後に西側へ拡張され、現在はレストランとして利用されています。17世紀の改修では、列柱の11軸のうち中央3軸が大きな矩形窓と高い破風を持つ張り出し部で強調され、これがヴェーザー・ルネサンス様式の好例となっています。さらに、砂岩による精巧な彫刻装飾がファサードに加えられ、寓意的・象徴的な表現が施されました。新市庁舎は建築コンペの結果、ミュンヘンの建築家ガブリエル・フォン・ザイドルによって設計され、1909年から1913年にかけて建設されました。
ブレナム宮殿
Blenheim Palace
文化交差路サマルカンド
Samarkand – Crossroad of Cultures
紀元前から東西交易の要衝で中央アジア最古の都市で、紀元前7~8世紀にはソグド人の都市が築かれたと言います。サマルは「人々が出会う」、カンドは「街」という意味で、まさに世界の交差点ともいうべきところです。歴史的には3度破壊されています。紀元前4世紀にはアレクサンドロス大王が、8世紀にはアラブ人のイスラム勢力が、そして13世紀にはモンゴルのチンギス・ハンが攻め寄せてきました。特にモンゴル軍の破壊はすさまじく、住民はことごとく殺され、建物はほぼすべて破壊されたと伝わっています。今その場所は「アフラースィヤーブの丘」となり当時のものは何も残されていません。その後14世紀になってティムールがサマルカンドを帝国の都と定め、街の中心はアフラースィヤーブの丘から現在のレギスタン広場へと移りました。
ベート・シェアリムのネクロポリス:ユダヤ人再興の中心地
Necropolis of Bet She’arim: A Landmark of Jewish Renewal
イスラエル北部にあるベート・シェアリムのネクロポリスは、ユダヤ人が132~135年にローマ支配に対して起こした第二次ユダヤ人反乱(バル・コクバの乱)の失敗後、エルサレム以外における主要なユダヤ人墓地となりました。この地下墳墓群は、ラビ・ユダ(族長)の指導の下で西暦2世紀から4世紀にかけて繁栄した、ユダヤ教の復興と存続を示す卓越した証拠となっています。135年以降にユダヤ教復興の担い手となり、ミシュナーを編纂したとされるイェフーダー・ハン・ナーシーが、一説には220年頃にベート・シェアリムに埋葬され、以来多くのユダヤ人がこの地を墓地に選んだとされています。この広大な地下墓所は、粘り強いユダヤ文化がこの地で花開いた歴史を物語っています。
ベームスター干拓地(ドゥローフマーケライ・デ・ベームスター)
Droogmakerij de Beemster (Beemster Polder)
ベームスター干拓地は、17世紀初頭に造られた、オランダにおける干拓地の並外れた事例です。この干拓地は、新しい農地と田舎の住宅地の開発、さらに低地における洪水対策を目的に、1612年にベームスター湖を干拓して完成したものです。それ以前にも干拓は行われていましたが、風車技術の改良によって、ベームスター干拓地は約72㎢という広大な面積を対象とした最初の大規模干拓事業となりました。干拓地は、古典期およびルネサンス期の都市・建築理論に基づいて、合理的かつ幾何学的なパターンによって設計されています。この知的かつ創造的な景観は、古代とルネサンスの理念を干拓景観の設計に応用した計画の傑作であり、のちのヨーロッパおよび世界各地の干拓事業に深く、長期的な影響を与えました。
平遥の古代都市
Ancient City of Ping Yao
中国北部、山西省の平遥は、「平遥古城」とも言われる中国有数の古都です。この地域に人類が住み始めたのは新石器時代とされます。紀元前9~前8世紀、周王朝の宣王の時代に要塞が築かれたことが街の始まりです。明代初期の14世紀、洪武帝は石積みとレンガで強固な防壁を築き、城壁内部のレイアウトも大きく変えて街を拡張しました。明代以降は華北地域の金融を支配した山西商人たちの拠点となり、清代にあたる 19~20世紀にかけては中国全土の金融業の中心となりました。平遥は全周約6.4kmの城壁に囲まれており、6基の門と72の塔を備えています。城壁内は約2.25k㎡の広さで、明代から清代にかけての街並が広がります。街路、役所、商店、民家などが往時の姿を留めていて、4,000軒近い商店や住居や、大小100以上の通りなどが現存しています。特に明・清代の漢民族の都市の特徴が非常に良い状態で残されています。「平遥の古代都市」は、近郊の双林寺と鎮国寺も含めて世界遺産に登録されています。6世紀半ばに創建された双林寺には、明・清代にかけて制作された彩色塑像約 2,000体が保存されていて、「東洋の彩色塑像の美術館」と称されます。鎮国寺は10 世紀創建の寺院で、敷地内の芳仏殿は中国で最も古い木造建築の1つに数えられています。
北京原人化石出土の周口店遺跡
Peking Man Site at Zhoukoudian
北京の南西に位置する周口店遺跡は、東アジア最大の旧石器時代の遺跡です。1921年にこの地で未知の化石人類の臼歯が発見され、シナントロプス・ ペキネンシスと名付けられました。これは北京原人のことで、現在の学名はホモ・エレクトゥス・ペキネンシスと呼ばれています。化石人類とは現生人類(新人)に進化する前の猿人、原人、旧人を指し、打製石器を使用する旧石器時代に生存していました。1929年には頭蓋骨が発見されました。北京原人は約 70万年から約20万年前の原始人類で、直立歩行をして、道具と火を使用し、河岸や洞窟で集団生活をしていたと考えられています。周口店遺跡からは40体あまりの人骨、約10万点の石器、骨製道具などが発見されました。また、北京原人よりも現代人に近い、1万9,000年ほど前の山頂洞人の遺跡も見つかっています。山頂洞人とは、北京原人が発見された北京郊外の周口店にある竜骨山の頂上付近にある洞窟から発見されたのでこう呼ばれています。ヨーロッパのクロマニョン人などの化石の現生人類と考えられています。
北京と瀋陽の故宮
Imperial Palaces of the Ming and Qing Dynasties in Beijing and Shenyang
百済の歴史地区
Baekje Historic Areas
ヘブロン:アル・ハリールの旧市街
Hebron/Al-Khalil Old Town
パレスチナ西岸地区の南部に位置するヘブロンは、マムルーク朝時代に築かれた市街地です。しかし、それより以前にも隊商交易の要衝でもあり、紀元前1世紀には最初の預言者とされるアブラハムとその家族の墓も築かれました。『旧約聖書』によると、アブラハムは「マクペラの洞穴」に葬られたとされ、その洞穴がヘブロンにあると信じられたため、ここに墓が築かれました。アブラハムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教徒にとって、「啓典の民」の始祖とされるため、ヘブロンは三つの宗教の巡礼地となっています。都市の構造としては、マムルーク朝からオスマン帝国と、やはりイスラム王朝の支配が続いたので、イスラム都市の要素が多いです。マムルーク朝時代のスークやモスク、ハマムなども現存しています。
ペルガモンとその周辺:様々な時代からなる文化的景観
Pergamon and its Multi-Layered Cultural Landscape
トルコ西部、エーゲ海地域の丘の上に位置するペルガモンのアクロポリス遺跡は、紀元前3~前2世紀に栄えたアッタロス朝(ペルガモン王国)の首都の都市遺跡です。この都市を築いたのはアッタロス朝の創始者であるフィレタイロス。彼は、アレクサンドロス大王の死後、後継者の一人であるリュシマコスに仕えていましたが、リュシマコスが殺されてからはこの地の統治者となりました。ここには記念碑的な聖堂群や劇場、教育機関、図書館などの遺構が、大規模な市壁に囲まれた傾斜地に残ります。紀元前133年になると、ローマに組み込まれますが、それ以降も文化都市として栄えました、やがてビザンツ帝国やオスマン帝国の時代では教会やモスクも建造されたため、この地には様々な時代の遺構が残っています。
ベルギーとフランスの鐘楼群
Belfries of Belgium and France
ペルシア庭園
The Persian Garden
ペルシアの隊商宿
The Persian Caravanserai
隊商宿(キャラバンサライ)とは、古代の街道沿いに存在した、隊商(キャラバン)のための宿泊施設のことです。その起源は、アケメネス朝ペルシア時代に「王の道」として整備された道路網に沿って設けられた中継施設といわれています。その後、シルク・ロードや巡礼路の道沿いにこのような施設が大小さまざま無数につくられ、19世紀末のカージャール朝の時代まで続きました。隊商宿では水や食料が提供され、安全に休むことができたほか、民族や言語が異なる商人たちの交流の場としても機能していました。砂漠や荒野をひたすら歩いて移動していた人々にとって、これらの隊商宿は生きていくために必要な施設でした。世界遺産には、イランに点在する54件の隊商宿が登録されています。
ペルセポリス
Persepolis
ベルリンのムゼウムスインゼル(博物館島)
Museumsinsel (Museum Island), Berlin
ベルリンを流れるシュプレー川の中州にあるベルリンの博物館島(ムゼウムスインゼル)は、都市の中心に位置する歴史的および芸術的に重要な個別の博物館群で構成された建築群です。これらの5つの博物館は、1824年から1930年にかけて著名なプロイセンの建築家によって建設されました。ベルリンの博物館島は、都市公共フォーラムの都市および建築的実現の驚くべき例であり、都市にとってアクロポリスのような象徴的価値を持っています。その希少な計画と建築の連続性、および1世紀以上にわたるコンセプトの一貫性が高く評価されています。建築的価値は、5つの博物館が所蔵する重要なコレクションと切り離せないものであり、それらは文明の進化を証明しています。展示されるコレクションとの有機的関係を設計した博物館内の建築空間は、内装の一部として組み込まれるか、枠組みとして解釈されるなど直接的なつながりを持っています。
ベルリンのモダニズム公共住宅
Berlin Modernism Housing Estates
ドイツの首都ベルリンのモダニズム住宅団地は、1910年から1933年にかけて建設された6つの建物で構成されており、特にヴァイマール共和国時代には社会的、政治的、文化的に進歩的だったベルリンの革新的な住宅供給政策を証明するものです。この集合住宅は、低所得者層の住宅と生活環境を改善するための都市計画、建築、庭園設計の新しいアプローチを通じて建築改良運動の模範的な例となっています。集団住宅は新しい都市と建築の典型例を提供しており、斬新な設計ソリューションや技術的、そして美的な革新を備えています。ブルーノ・タウト、マルティン・ワグナー、そしてヴァルター・グロピウスなどの著名な建築家たちがこれらのプロジェクトに携わり、世界の住宅開発に多大な影響を与えました。
ボイ渓谷のカタルーニャ風ロマネスク様式教会群
Catalan Romanesque Churches of the Vall de Boí
ホイサラ様式の信仰関連遺産群
Sacred Ensembles of the Hoysalas
法隆寺地域の仏教建造物群
Buddhist Monuments in the Horyu-ji Area
『法隆寺地域の仏教建造物群』は、法隆寺に属する47棟と法起寺の三重塔1棟の合計48棟で構成されています。法隆寺西院の金堂、五重塔、中門、回廊、法起寺三重塔など、7世紀後半から8世紀にかけて建立された11棟の建造物は、現存する世界最古級の木造建造物です。中国の優れた政治や文化、仏教を積極的に取り入れていた厩戸王(聖徳太子)は、601年に斑鳩宮を築き、推古天皇と共に移り住みました。そして、その西に607年頃、若草伽藍(斑鳩寺)を建立しました。これが法隆寺の起源とされています。同じ頃に中宮寺や岡本宮(法起寺)も建立され、斑鳩伽藍群が完成したと考えられています。622年に厩戸王が没すると、643年には蘇我入鹿の兵によって斑鳩宮が焼き払われ、斑鳩寺も670年に焼失しました。若草伽藍の遺構は、法隆寺境内の地下に「若草伽藍跡」として残されています。現在の法隆寺は、7世紀後半から8世紀初頭にかけて、現在の法隆寺西院の位置に再建されたものです。
ポツダムとベルリンの宮殿と庭園
Palaces and Parks of Potsdam and Berlin
ポトシの市街
City of Potosí
ホベルト・ブールリ・マルクスによる庭園
Sítio Roberto Burle Marx
ポポカテペトル山麓の16世紀初期の修道院群
Earliest 16th-Century Monasteries on the Slopes of Popocatepetl
『ポポカテペトル山麓の16世紀初期の修道院群』は、メキシコ北部領土における福音伝道と植民地化の一環として建築されました。メキシコのモレロス州、プエブラ州、トラスカラ州に位置する15の構成資産で成り立っています。それらは16世紀前半にメキシコへ最初に辿り着いたフランシスコ会(1524年着)、ドミニコ会(1526年着)、アウグスチノ会(1533年着)の修道士たちが築いた修道院でした。いずれもスペイン本国やヨーロッパなどにおける従来の建築プランとは異なる、この地域で急速に広まった新たな建築様式が採用されました。またすでに先住民が密集して暮らしていた場所に修道院を設立し、都市集落の中心となることを目指していました。