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北京原人化石出土の周口店遺跡
Peking Man Site at Zhoukoudian
北京の南西に位置する周口店遺跡は、東アジア最大の旧石器時代の遺跡です。1921年にこの地で未知の化石人類の臼歯が発見され、シナントロプス・ ペキネンシスと名付けられました。これは北京原人のことで、現在の学名はホモ・エレクトゥス・ペキネンシスと呼ばれています。化石人類とは現生人類(新人)に進化する前の猿人、原人、旧人を指し、打製石器を使用する旧石器時代に生存していました。1929年には頭蓋骨が発見されました。北京原人は約 70万年から約20万年前の原始人類で、直立歩行をして、道具と火を使用し、河岸や洞窟で集団生活をしていたと考えられています。周口店遺跡からは40体あまりの人骨、約10万点の石器、骨製道具などが発見されました。また、北京原人よりも現代人に近い、1万9,000年ほど前の山頂洞人の遺跡も見つかっています。山頂洞人とは、北京原人が発見された北京郊外の周口店にある竜骨山の頂上付近にある洞窟から発見されたのでこう呼ばれています。ヨーロッパのクロマニョン人などの化石の現生人類と考えられています。
北京と瀋陽の故宮
Imperial Palaces of the Ming and Qing Dynasties in Beijing and Shenyang
ヘブロン:アル・ハリールの旧市街
Hebron/Al-Khalil Old Town
パレスチナ西岸地区の南部に位置するヘブロンは、マムルーク朝時代に築かれた市街地です。しかし、それより以前にも隊商交易の要衝でもあり、紀元前1世紀には最初の預言者とされるアブラハムとその家族の墓も築かれました。『旧約聖書』によると、アブラハムは「マクペラの洞穴」に葬られたとされ、その洞穴がヘブロンにあると信じられたため、ここに墓が築かれました。アブラハムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教徒にとって、「啓典の民」の始祖とされるため、ヘブロンは三つの宗教の巡礼地となっています。都市の構造としては、マムルーク朝からオスマン帝国と、やはりイスラム王朝の支配が続いたので、イスラム都市の要素が多いです。マムルーク朝時代のスークやモスク、ハマムなども現存しています。
ペルガモンとその周辺:様々な時代からなる文化的景観
Pergamon and its Multi-Layered Cultural Landscape
トルコ西部、エーゲ海地域の丘の上に位置するペルガモンのアクロポリス遺跡は、紀元前3~前2世紀に栄えたアッタロス朝(ペルガモン王国)の首都の都市遺跡です。この都市を築いたのはアッタロス朝の創始者であるフィレタイロス。彼は、アレクサンドロス大王の死後、後継者の一人であるリュシマコスに仕えていましたが、リュシマコスが殺されてからはこの地の統治者となりました。ここには記念碑的な聖堂群や劇場、教育機関、図書館などの遺構が、大規模な市壁に囲まれた傾斜地に残ります。紀元前133年になると、ローマに組み込まれますが、それ以降も文化都市として栄えました、やがてビザンツ帝国やオスマン帝国の時代では教会やモスクも建造されたため、この地には様々な時代の遺構が残っています。
ペルシア庭園
The Persian Garden
ペルセポリス
Persepolis
ホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟
Mausoleum of Khoja Ahmed Yasawi
カザフスタン南部、ヤシという町にあるホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟は1389年から1405年にかけてつくられた、現在も重要な巡礼地です。ホージャ・アフマド・ヤサヴィーとは、12世紀に中央アジアの遊牧民にイスラム教を広めたイスラーム神秘主義の指導者のことであり、中央アジアと西アジアを征服し、帝国を築いたティムールが命令を出して、もともとあった小さい廟の後に建築されました。ティムールが廟を造らせた理由として有力なのが、遊牧民に崇拝されているヤサヴィーの廟を造ることで、東方の遊牧民の支持を得るためであったということです。建設にはティムール自身も携わり、腕の立つ職人が数多く集められましたが、1405年にティムールが亡くなったことにより建設は中断され、未完成となっています。
ホープウェルの儀礼的土塁群
Hopewell Ceremonial Earthworks
『ホープウェルの儀礼的土塁群』は、アメリカ合衆国北東部のオハイオ川中流域沿いにおいて、約2,000〜1,600年前に築かれた8つの巨大な土塁群です。これらは、現在「ホープウェル文化」と呼ばれる先住民の伝統を最もよく示す遺構として位置付けられています。多くの土塁群には、広大な空間を囲む土塁と、意図的に配置された記念碑的な門が備えられています。土塁は地形に応じて幾何学的に正確な円形、四角形、八角形などの形状で構築されており、地域全体で共通して用いられた標準寸法や幾何学的原理に基づいて建設されたと考えられています。内部には複数の墳丘(塚)が存在し、土塁群は主に土塁、門、墳丘によって構成されています。これらの構成要素は、太陽および月の動きを考慮して配置されたとされています。
ホイサラ様式の信仰関連遺産群
Sacred Ensembles of the Hoysalas
法隆寺地域の仏教建造物群
Buddhist Monuments in the Horyu-ji Area
『法隆寺地域の仏教建造物群』は、法隆寺に属する47棟と法起寺の三重塔1棟の合計48棟で構成されています。法隆寺西院の金堂、五重塔、中門、回廊、法起寺三重塔など、7世紀後半から8世紀にかけて建立された11棟の建造物は、現存する世界最古級の木造建造物です。中国の優れた政治や文化、仏教を積極的に取り入れていた厩戸王(聖徳太子)は、601年に斑鳩宮を築き、推古天皇と共に移り住みました。そして、その西に607年頃、若草伽藍(斑鳩寺)を建立しました。これが法隆寺の起源とされています。同じ頃に中宮寺や岡本宮(法起寺)も建立され、斑鳩伽藍群が完成したと考えられています。622年に厩戸王が没すると、643年には蘇我入鹿の兵によって斑鳩宮が焼き払われ、斑鳩寺も670年に焼失しました。若草伽藍の遺構は、法隆寺境内の地下に「若草伽藍跡」として残されています。現在の法隆寺は、7世紀後半から8世紀初頭にかけて、現在の法隆寺西院の位置に再建されたものです。
ポツダムとベルリンの宮殿と庭園
Palaces and Parks of Potsdam and Berlin
ポトシの市街
City of Potosí
ポブレの修道院
Poblet Monastery
ボルガルの歴史的考古学的遺産群
Bolgar Historical and Archaeological Complex
ヨーロッパ最長の河川であるヴォルガ川とカマ川が合流する南に、ボルガルの考古遺跡があります。それらからは、7世紀から15世紀に繁栄したヴォルガ・ボルガル文明の記憶をたどることができます。13世紀になるとモンゴル帝国の支配を受け、ジョチ・ウルスの最初の首都になり、カザン・ハン国の時代では交易中心地になりました。構成資産には、モスクやミナレット、霊廟などの宗教建造物や、浴場跡、塁壁などもあります。数世紀におよぶユーラシアの文化交流と変遷の歴史を刻むボルガルの遺産群からは、文化の多様性を汲み取ることができます。この地域では922年にイスラム教が受け入れられており、現在もタタール人のムスリムにとっては巡礼地になっています。
ボロブドゥールの仏教寺院群
Borobudur Temple Compounds
『ボロブドゥールの仏教寺院群』は、ジャワ島中部にある仏教の石造遺跡群です。8〜9世紀にかけてシャイレンドラ朝によって建設されました。インドから伝播した仏教の流れは、主に東南アジア方面で広まった「上座部仏教」と、中国経由で日本にも伝わってきた「大乗仏教」に大別されますが、この遺産は大乗仏教の寺院遺跡です。王朝がわずか100年で滅亡すると、近くにあるムラピ山の火山灰に埋もれ、植物に覆われて忘れ去られていきました。それから約1,000年後の1814年、英国のジャワ総督代理とオランダ人技師により、密林の中から「発見」されました。最大規模のボロブドゥール寺院、ムンドゥー寺院とパウォン寺院から構成され、3つの寺院はほぼ東西一直線に並んでいます。
ポロンナルワの古代都市
Ancient City of Polonnaruwa
スリランカ中部にあるポロンナルワは、『聖地アヌラーダプラ』に次ぐシンハラ王国第二の都市です。シンハラ王国は10世紀末に南インドのチョーラ朝に侵略されたのですが、約80年かけて反撃した結果、1070年にチョーラ朝を撃退しました。しかし、長きにわたる抗争が影響して、都であったアヌラーダプラは荒廃していたので、ポロンナルワに都が遷されました。ポロンナルワが全盛期を迎えるのは12世紀後半であり、時の王はパラークラマ・バーフ1世でした。彼は灌漑施設を充実させ、さらに王宮の西側にあった貯水池を南北約9㎞にまで拡張したため人々を驚かせました。この貯水池は「パラークラマ・サムードラ(パラークラマの海)」と称され、王は人々から崇拝され、彼の後を継いだニッサンカ・マッラの時代でも繁栄は続きました。
ポン・デュ・ガール(ローマの水道橋)
Pont du Gard (Roman Aqueduct)
フランス南部オクシタニー地域に位置する「ポン・デュ・ガール」は、紀元前19年頃に古代ローマの政治家アグリッパが建設を命じた水道橋です。古代ローマの植民都市ネマウスス(現在のニーム)に水を供給するために1世紀中頃に建設された全長約50kmの水道の一部で、ユゼス近郊のウールの泉から水を運ぶ役割を果たしていました。水道橋は三層構造となっており、最上部までの高さは49m、水路部分の長さは下層から142.35m、242.55m、275mと上層になるほど長くなっています。岩盤の上に築かれた水道橋は、地形と調和しながら力強いラインを描いており、ローマ建築技術の偉業であると同時に、風景を一変させる芸術作品でもあります。
ポントカサステ水路橋と運河
Pontcysyllte Aqueduct and Canal
マカオの歴史地区
Historic Centre of Macao
中国大陸の南岸、珠江デルタに位置するマカオ(澳門)は、ポルトガルのアジア貿易の拠点となった港街です。元は漁村であり、福建省から中国沿岸を航海する船乗りが立ち寄る中継地でした。ポルトガル人が最初に中国へたどり着いたのは明代の1513年のこと。1557年に明王朝から居住権が与えられ、東アジアで最初のヨーロッパ入植地となると、数多くのカトリック教会や礼拝堂が築かれていきました。 17世紀になると、ポルトガルはオランダをはじめとする他のヨーロッパ列強諸国を 遠ざけるため、マカオに要塞を築きました。1849年、ポルトガルはマカオを自由貿易港と宣言し、1889年にはポルトガル領植民地となりました。イギリス領の香港が発展していくと、次第に貿易の中心は香港へと移り、マカオは外国人の別荘地となりました。1999年に中国へ返還され、現在は特別行政区です。
マサダ国立公園
Masada
マダラの騎馬像
Madara Rider
ブルガリア北東部のマダラ高原には、8世紀から9世紀の前半頃に彫られたとされる、 巨大な騎士のレリーフがあります。レリーフは、高低差が100mある断崖にあり、高さ23mの位置に、縦2.5m、横3mにわたって彫られた巨大なもので、犬を従えた馬上の騎士が、馬にライオンを踏みつけさせている姿が描かれています。制作方法等は未解明です。周囲に残るギリシャ語の碑文から、ブルガリアの英雄であるテルヴェル・ハーンを描いたものと推測されていますが、聖ゲオルギオスという説もあり、定かではありません。この独特なレリーフは、ブルガリアで最初に登録された世界遺産のひとつで、また、ブルガリアのコインにも描かれています。テルヴェル・ハーンは中世ブルガリアの英雄で、ビザンツ帝国皇帝ユスティニアヌス2世を助け、皇帝からカエサルの称号を授かったと伝えられています。
マチュ・ピチュ
Historic Sanctuary of Machu Picchu
マトボの丘群
Matobo Hills
マドリードのエル・エスコリアール修道院と王立施設
Monastery and Site of the Escurial, Madrid
マハーバリプラムの建築と彫刻群
Group of Monuments at Mahabalipuram
マラケシュの旧市街
Medina of Marrakesh
マロティ-ドラーケンスベルグ公園
Maloti-Drakensberg Park
ミケーネとティリンスの考古遺跡
Archaeological Sites of Mycenae and Tiryns
ホメロスの『イリアス』を史実と信じ、トルコのトロイア遺跡を発掘したシュリーマンは、あまりにも有名な考古学者です。彼はさらに、「黄金に富める国」と謳われたミケーネを求めて発掘を続けました。トロイア遺跡発掘から3年後の1876年、彼はついにミケーネの都市遺跡から円形墳墓や黄金のマスクなどを発見し、歓喜したのです。ミケーネを中心とするミケーネ文明は紀元前1600年から前1100年の間に地中海世界に広がった文明であり、クレタ文明と並ぶエーゲ文明の代表的な文明として知られています。戦士を社会の中枢に据えた武力社会だったとされ、海洋的と評されたクレタ文明とは真逆の社会だったようです。また、ミケーネの支配下にあったティリンスもシュリーマンにより発見され、同じく世界遺産に登録されています。
ミジケンダ諸族のカヤ聖域森林
Sacred Mijikenda Kaya Forests
ミディ運河
Canal du Midi
フランス南部のトゥールーズから地中海に隣接したトー湖までを結ぶミディ運河は、ブルボン朝絶頂期の太陽王、ルイ14世の治世時である1694年に完成した、世界最古級の運河です。総延長は360kmで、東京から三重あたりまでの距離に相当します。当時フランスはスペインに対抗するために、地中海と大西洋を結ぶ国際通路を必要としていました。実はローマ帝国の時代から、地中海と大西洋を結ぶ運河の建設計画があったのですが、技術的にも予算的にも非常に困難なものでした。そこで立ち上がったのが当時、塩税徴収人として財をなしたピエール・ポール・リケでした。彼は1667年に運河の着工をし、約30年かけて完成させました。運河はトゥールーズで大西洋に注ぐカロンヌ川と繋がり、この事業は新しい時代を象徴するものとなりました。