いきなり揺れた委員会/パリまで世界遺産委員会に来ています【第11回】
この連載は、2025年7月にパリで開催された世界遺産委員会の旅行記です。

目次

イカロスの墜落
ホールに漂う違和感
突然始まった議論

イカロスの墜落

オリエンテーション・セッションが始まる時間になっても、本会議場前の中2階にある会議室で行われている世界遺産ビューロー(議長や書記など)や委員国、世界遺産センターなどによる会議が終わらず、ピカソの壁画などを見上げたりしながらロビーで待つ。

このピカソの壁画は、「イカロスの墜落」の名前で知られる40枚ものパネルに描かれた大作で、本会議場を出てすぐのロビーの一番目立つ壁に飾られている。UNESCO本部の完成時に設置されたのだけど、あまりに大きいこともあり、柱などが邪魔をして全体像が少し見づらい。ピカソはそれを嫌って絵にサインを入れなかったらしい。傲岸なピカソらしいエピソードだ。でもそのキャラクターだからこそ、こんなにも観る人の心を直に手でつかむような力強い作品を生み出せるのだと思う。

イカロスはギリシャ神話に出てくる人物で、蜜蝋で固めた翼で迷宮を脱出し空を自由に飛ぶのだけど、自己を過信して太陽に近づきすぎたために蜜蝋が溶けて落下してしまう。手作りの翼でこんなに気持ちよく空が飛べたら、僕だって調子に乗って落下するだろうな。落下すら気持ちよいかもしれない。ピカソが描くイカロスも、空を泳ぐ人のようにも見える。

空を自由に飛ぶという、神の領域を犯した「人間の傲慢さ」を戒めるモチーフがUNESCO本部に描かれているのは、美術館などに飾られるのとは異なる強いメッセージ性があってよい。芸術はやはり、どこにあるのか、どこで鑑賞するのかが大事だと思う。

フィレンツェにある全裸のダビデ像のレプリカが島根県の公園に飾られた時に、せめてパンツをはかせて欲しいと大論争になったのも、結局はそれが理由だし。公園にいきなり巨大な全裸のダビデが立っていたらびっくりする気持ちもわかるけど、それにしてもパンツをはいたダビデ像というのは、なかなか斬新だ。パンツのデザインもミケランジェロに聞いてみないと。

「イカロスの墜落」の正式なタイトルは「悪にうちかつ生命力と精神力」らしい。このタイトルも意味深で、40年近く連れ添った妻オルガを失ったばかりの晩年のピカソは、どんな悪に打ち克とうとしていたんだろう。

ホールに漂う違和感

強く訴えている姿が印象的だった

ずいぶん時間をオーバーして、ようやく中2階の会議室からぞろぞろと参加者が下りてきた。がやがやと話をしながら降りてくる人もいれば、表情が硬い人もいる。なんだか興奮と疲れが入り混じっているような雰囲気だ。

UNESCOのラザール・エルンドゥ・アソモ世界遺産センター長が、周りの人と何やら話し込みながら階段を下りてきた。彼はすごく背が高いわけではないのだけど、姿勢がよいのでスーツがよく似合う。ようやく顔と名前が一致する人がきたので、ちょっと嬉しくなった。向こうは僕のことを全く知らないのだから、有名人を目にした単なるファンみたいな気分だ。

そのアソモさんを追いかけるようにして、往年の歌舞伎俳優のような目鼻立ちのくっきりしたアジア系の男性が、彼に話しかけ、肩を抱くようにして何か熱心に語りかけた。アソモさんも手振りを交えて何か答えているけど、アジア系の男性はさらに両手でアソモさんの肩を抱えたりして、かなり熱く何かを訴えているようにも見える。スーツをピシッと着こなした彼を、どこかで見たことがある気がするのだけど、思い出せない。

その時は、さすが国際会議だと皆さん熱心だな、くらいにしか思わなかった。しかし、後から階段を下りてきた日本政府特命全権大使の加納さんが硬い表情のまま、スタッフの方と話もしないで足早にオフィス棟へと戻っていき、さらに後ろを降りてきた文化庁のNさんも無言で足早に帰っていくのを見て、少し違和感を覚えた。Nさんに挨拶をしようと一歩踏み出すタイミングもないくらいだったから。

突然始まった議論

投票箱は、手前の扉がガラスになっていて中が見える

それは翌日の、世界遺産委員会初日の午前中に、突然始まった……ように僕には思えた。

世界遺産委員会の委員国である韓国の席で、昨日の男性が「明治日本の産業革命遺産」に関する「世界遺産委員会の決議の実施状況に関する報告」を議題に追加することを求め、同じく委員国である日本政府がその議題の削除を求めて、強く主張し合ったのだ。

日本としては、2023年の世界遺産委員会の決議に基づき、報告書を2024年12月に提出しており、そこで韓国との2国間の協議を進めていくことで承認されていること、そして世界遺産のOUV(顕著な普遍的価値)に関係のない議題を世界遺産委員会の場で行うのは委員会の政治化につながると主張。

一方で韓国は、世界遺産委員会で決議された「明治日本の産業革命遺産」の歴史的な解釈の改善を進める方法や展示内容が適切に実施されていないとして、世界遺産委員会の場で議論をすべきだと強く主張する。

韓国はまた、日本が「再び世界遺産委員会の場にOUVと関係のない議論を持ち込むべきではない」と言ったことに対して、この議論は一度も終わったことがなく、「再び」持ち込むという言い方はおかしいと、ここでも強く反発した。

会場全体が固唾をのんで見守る中、1時間以上もこの議論が続けられ、最終的には投票が行われて日本の提案で進められることになった。

最初しばらく議論の流れについていけず、両親のけんかを見守る子供のような、「何がどうなっているの!?」という困惑しかなかった。この話は前日の会議の時から始まっていて、僕が感じた違和感の理由はこれだったみたい。韓国の男性は、「明治日本の産業革命遺産」に対応する韓国のタスクフォースのトップだったらしく、この議論以降は委員会の場で見かけることはなかった。この問題は、最近の世界遺産の中で重視される遺産のインタープリテーションとも関係していて、なかなか根深い問題だと思う。

そんなことで、午前の部は全く審議予定を消化できなかったのに、お昼休みは予定通り始まるし、午後の部も少し遅れて始まったのに、最終的にはほぼ時間通りに会議が終了する辺り、日本とはずいぶん違う。

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(次回に続く)

写真・イラスト©宮澤光

執筆者PROFILE

NPO法人世界遺産アカデミー主任研究員

北海道大学大学院博士後期課程を満期単位取得退学。仏グルノーブル第Ⅱ大学留学。2008年より現職。世界遺産に関するさまざまな書籍の編集・執筆・監修を手掛けるほか、「チコちゃんに叱られる!」(NHK)などの多くのメディア出演や、全国各地で100本を超す講演・講座を実施している。著書に『13歳からの世界遺産』(マイナビ出版)、『世界遺産のひみつ』(イースト・プレス)など。
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