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サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路:カミノ・フランセスとスペイン北部の道
Routes of Santiago de Compostela: Camino Franc?s and Routes of Northern Spain
「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」は、ガリシア州のサンティアゴ・デ・コンポステーラにある聖ヤコブの棺を目指す、キリスト教の巡礼路です。1993年に、ピレネー山脈からスペイン北部を東西に貫く巡礼路が、世界遺産に登録されました。「サンティアゴ」とは、スペイン語で、キリスト教の使徒のひとりである聖ヤコブのこと。聖ヤコブがスペインにおいて福音を説いたという伝説は、7世紀初頭には存在していました。「使徒の休む場所は、福音を説いた場所にあるべきである」という聖ヒエロニムスの教えがあることから、聖ヤコブの遺体は、殉教地のエルサレムからスペインに移送されたと信じられていました。9世紀に聖ヤコブの墓が発見されると、この報せが西ヨーロッパの各地に広がり、サンティアゴ・デ・コンポステーラはエルサレム、ヴァティカンに次ぐ聖地としてカトリック世界に定着していきました。
サンボー・プレイ・クックの寺院地区:古代イシャナプラの考古遺跡
Temple Zone of Sambor Prei Kuk, Archaeological Site of Ancient Ishanapura
サンボー・プレイ・クックの寺院地区は、カンボジア中央部コンポントム州 に6世紀後半から7世紀前半にかけて栄えた真臘国(チャンラ王国)の都イシャナプラと呼ばれた場所にあります。イシャナプラはスタン・セン川やオー・クル・ケー川が流れる平野にあり、インドと中国とを結ぶ海上交易路の要所であったため、商業だけでなく宗教の中心地としても発展しました。サンボー・プレイ・クックという名前は、クメール語で「豊かな森の寺院」という意味で、7世紀初めに即位したイシャナヴァルマン1世は、この地に多くのヒンドゥー教の寺院が建てました。これらの寺院はアンコール・ワットよりも古く、プレ・アンコール期とされるクメール建築が生まれた初期の特徴がみられます。「空中宮殿(フライング・パレス)」や「怪魚マカラ」など遺跡に残る砂岩の彫刻は、サンボー・プレイ・クック様式と呼ばれています。100以上ある寺院遺跡の多くはレンガ造りで、そのうち10の寺院は東南アジアでは珍しい八角形の祠堂を持っています。約2㎞四方の環濠に囲まれた都城の中には、寺院だけでなく、水路や溜池などの水利施設、古い道などが残されています。しかし、これら遺跡の多くは熱帯の植物に覆われて倒壊の危機に瀕しており、修復・保存への取り組みが国際的協力のもとで進んでいます。
サン・ミゲルの要塞都市とアトトニルコにあるナザレのイエスの聖地
Protective town of San Miguel and the Sanctuary of Jesús Nazareno de Atotonilco
サン・ミリャン・ユソとスソの修道院群
San Millán Yuso and Suso Monasteries
サン・ルイ島
Island of Saint-Louis
シーギリヤの古代都市
Ancient City of Sigiriya
スリランカ中部にそびえる『シーギリヤの古代都市』は、高さ約200mもある巨大な岩山の宮殿跡です。5世紀後半、シンハラ王国のカッサパ1世という王によって、岩山の頂上に都が築かれました。彼は王である父ダートゥセナを殺し、正当な継承者だった弟モッガラーナを追放して王に即位しました。その後罪の意識に苛まれ、復讐を恐れたカッサパ1世は、父を供養し、かつ弟の報復から身を守るために、父が構想していた城砦の建設に着手しました。カッサパ1世は人が簡単には登れない岩山の上に、宮殿や庭園、貯水池などを含んだ要塞都市をつくり、自らの安全を確保しました。わずか十数年この場所で暮らしましたが、最後は弟に敗れて命を絶ちます。短い歴史を持つ都ながら、その劇的な背景と大胆な建造物は、現代の私たちにも強い印象を残しています。
シエナの歴史地区
Historic Centre of Siena
ジェノヴァ:レ・ストラーデ・ヌオーヴェとパラッツィ・デイ・ロッリ制度
Genoa: Le Strade Nuove and the system of the Palazzi dei Rolli
シェラン島北部の王室狩猟場の景観
The par force hunting landscape in North Zealand
デンマーク王国の東部、バルト海に位置するシェラン島にあるこの文化的景観は、ストア・デュアヘーヴェとグリブスコウという2つの狩猟林、およびイェーヤスボー・ヘン/イェーヤスボー・デュアヘーヴという狩猟公園を含んでいます。これは意図的に設計された景観で、17〜18世紀の宮廷狩猟のために作られたものであり、フランスとドイツの設計モデルを融合させた中央星型の格子システムと直交格子により分割され、狩猟林、狩猟道、建物、象徴的な標識、番号付がふられたの石柱や柵などで構成されています。狩猟の機能を最適化するとともに、絶対君主の社会的役割や自然を支配する力を象徴するものとなっています。この地では、歴代のデンマーク王と王室によって猟犬を使った「パルフォース・ハンティング(par force hunting)」を行われました。この狩猟は17世紀から18世紀後半にかけて最盛期を迎え、絶対君主たちはこの地を権力の象徴としての景観へと変貌させました。
シエンフエゴスの歴史地区
Urban Historic Centre of Cienfuegos
始皇帝陵と兵馬俑坑
Mausoleum of the First Qin Emperor
慈善のための居住地群
Colonies of Benevolence
『慈善のための居住地群』は、啓蒙主義思想に基づいて行われた、19世紀の社会改革の実験にまつわる遺産です。ナポレオン戦争後に成立したネーデルラント連合王国(現在のオランダとベルギー)は、経済的に疲弊し、都市部の貧困問題に頭を悩ませていました。この状況に対応するため、人里離れた荒れ地に農業を基盤とした居住地を設立するという取り組みが進められました。貧しい人々が農業を通じて生計を立てると同時に、人々が勤勉で自立した市民となり、国の富を増やす存在になることが期待されていました。最盛期の19世紀半ばには、オランダ国内の居住地だけで1万1,000人以上、ベルギーでは1910年に約6,000人が居住地で生活をしていました。
シダーデ・ヴェーリャ、リベイラ・グランデの歴史地区
Cidade Velha, Historic Centre of Ribeira Grande
アフリカ西部セネガルの西方沖合の大西洋に浮かぶ島国カーボ・ヴェルデには、15世紀半ばにポルトガルが建設した植民都市リベイラ・グランデがあります。1494年のスペインとのトルデシリャス条約により、アフリカにおける交易の独占権を得ていたポルトガルはここに交易の拠点として、ヨーロッパ諸国としては初の熱帯地域における植民都市を建設しました。しかし、その交易による富を狙って、他のヨーロッパ諸国から度々攻撃を受けることになり、要塞(サン・フェリペ要塞)も造られました。一方で文化の面では、植民政策や奴隷貿易の拠点であったことから、各地の文化が混ざり合い「クレオール文化」といわれる文化が花開きました。18世紀以降、都市は荒廃し「古い町」という意味のシターデ・ヴェーリャと呼ばれることになります。
ジッダの歴史地区:メッカの入口
Historic Jeddah, the Gate to Makkah
シ・テープの古代都市と関連するドヴァラヴァティ王国の遺跡群
The Ancient Town of Si Thep and its Associated Dvaravati Monuments
シベニクの聖ヤコブ大聖堂
The Cathedral of St James in Šibenik
ジャームのミナレットと考古遺跡群
Minaret and Archaeological Remains of Jam
ジャームのミナレットは、アフガニスタンのヘラートの東約215km、ハリルド川とその支流ジャーム川の合流地点のほとり、そびえ立つ山々に挟まれた深い渓谷に位置しています。焼成レンガによって築かれた高さ65mの塔であり、基壇は八角形で直径9m、塔身は円筒形で4層構造となっています。ミナレットは幾何学模様のレリーフで全面を覆われており、トルコ石タイルで刻まれたクーフィー体アラビア文字の装飾が施されています。1194年、ゴール朝のスルタン、ギヤス・ウッディーン(1153〜1203)によって建立されたこのミナレットは、ゴール朝の夏の首都であった古代都市フィルーズクーの跡地を示すものと考えられています。建造の目的については不明であり、モスクが失われてミナレットのみが残ったという説など、諸説が存在しています。
シャーロットヴィルのモンティチェロとヴァージニア大学
Monticello and the University of Virginia in Charlottesville
アメリカ独立宣言の起草者であり、合衆国第3代大統領であるトマス・ジェファソン(1743〜1826)は、新古典主義建築に秀でた才能を有する建築家でもありました。彼は、自身のプランテーションであるモンティチェロと、その約8km北西に位置するシャーロットヴィルにヴァージニア大学を設計しました。ヴァージニア大学は、ジェファソンが理想とした教育理念を実現するために創設されたもので、独特のU字型平面プランを特徴としています。中心にはロタンダが据えられ、南側にはパビリオン、ホテル、学生用の居室、庭園などが整然と配置されています。これらの建築群は、自然環境との調和、機能主義と象徴主義の融合を通じて、新古典主義建築の優れたかつ個性的な例といえます。古典および当時の建築様式を綿密に研究した成果が随所に表れており、ジェファソンが描いた新しいアメリカ合衆国の理想像を色濃く反映しています。
シャフリ・ソフタ
Shahr-i Sokhta
シャルトルの大聖堂
Chartres Cathedral
シャルトル大聖堂は、13世紀初頭の宗教建築の中でも最も完全で、中世西ヨーロッパで最も人気のあった聖母マリアへの巡礼地として知られています。その建築と装飾の統一性、フランスを代表するゴシック建築であること、中世キリスト教美術に及ぼした巨大な影響により、シャルトル大聖堂は中世建築史における重要なランドマークとして位置づけられています。特に、12世紀と13世紀の際立ったステンドグラス群、記念碑的な彫刻は、シャルトル大聖堂をゴシック美術の中でも最も素晴らしく、最も保存状態の良い例の一つとしています。シャルトル大聖堂は1210年から1250年にかけて製作されたステンドグラスの窓の統一された装飾をほぼ完全に保存しています。これに加えて、王室の玄関の上に12世紀の3つのステンドグラスの窓、そして13世紀の3つのファサードに施された大きなバラ窓があります。これら3つのファサードの大きなバラ窓はそれぞれ西側が「最後の審判」、北側が「聖母の栄光」、そして南側が「キリストの栄光」と呼ばれています。
シャンティニケタン
Santiniketan
インド東部西ベンガル州の農村部に、詩人で哲学者のラビンドラナート・タゴールが1901年に設立した寄宿制の学校兼芸術センターがあります。1921年にはヴィシュヴァ・バーラディ大学(世界大学)となり、タゴールの「人類の一体化」という理念を象徴する存在となっています。タゴールはアジア人として最初のノーベル文学賞を受賞し、さらにインド国歌の作詞作曲をするなど、インドの国民的偉人です。彼は「世界が一つのカゴとなる」という宗教的文化的境界を超えた人類の統一・一体化という思想をここに具現化しようとしました。この学校では、屋外授業・農村での労働と生活・芸術制作などを通じ、すべてが調和した環境下で教育・自然・芸術を組み合わせた「総合芸術」を指向しました。
シャンパーニュの丘陵、醸造所と貯蔵庫
Champagne Hillsides, Houses and Cellars
シューシュタルの歴史的水利システム
Shushtar Historical Hydraulic System
修道院の島ライヒェナウ
Monastic Island of Reichenau
スイスとの国境に位置するボーデン湖にあるライヒェナウには、724年に創立されたベネディクト会の修道院の痕跡が今も残されています。ライヒェナウ修道院の主聖堂である中修道院には、カロリング期に由来する十字型のバシリカがあり、これはヨーロッパの十字型聖堂の貴重な例となっています。聖マリア・マルコ聖堂はその身廊とつながっており、ヨーロッパにおける文化史の重要な証拠の一つです。下修道院の聖ペテロ・パウロ聖堂の壁画「キリストの栄光」は、ドイツの初期ロマネスク美術の傑作とされています。また、上修道院の聖ゲオルク聖堂では、10世紀から11世紀に描かれたフレスコ画が有名で、アルプス北部において10世紀以前から保存されている風景壁画としては唯一の作品となっています。
17世紀ポート・ロイヤルの考古学的遺跡群
The Archaeological Ensemble of 17th Century Port Royal
ジャマイカ南東部、キングストンハーバーの河口に位置する『17世紀ポート・ロイヤルの考古学的遺跡群』はかつて栄えた奴隷貿易の重要拠点でした。17世紀にイギリス人入植者によって築かれた都市集落は整った方形の区画で分けられており、通りにはロンドンにある通りと同じ名前が付けられました。また、海賊の本拠地でもあり「キリスト教世界で最も邪悪な都市」とも呼ばれていました。しかし、1962年の地震によって大きな被害を受け、街の大部分が崩壊・水没してしまいます。街にはこの地が奴隷貿易の拠点であったことを示す港や6つの砦など要塞の遺構も存在していますが、その一部は水没したままとなっています。しかし、この残された遺構が重要な考古学的証拠となり、17世紀のアメリカ大陸におけるイギリス植民地時代の存在を今日も物語っています。
自由の女神像
Statue of Liberty
マンハッタン島南西のアッパー・ニューヨーク湾に浮かぶリバティ島に立つ「自由の女神像」は、1886年にアメリカ合衆国の独立100周年を記念してフランスから贈られたものです。建設を提案したのは、法学者で政治家でもあったエドゥアール・ドゥ・ラブライエであり、制作を担ったのは彫刻家フレデリック・バルトルディと技術者ギュスターヴ・エッフェルです。この女神像は「世界を照らす自由」と名づけられ、アメリカ人建築家リチャード・モリス・ハントによる設計の台座上に立っています。台座を含めた高さは93メートル、総重量は225トンに及びます。右手には希望の象徴である長さ9メートルのたいまつを高く掲げ、左手には「1776年7月4日」と記された独立宣言書を抱えています。女神は力強く左足を踏み出しており、その足元では奴隷制と専制政治を象徴する鎖を踏みつけています。アメリカの象徴ともいえるその姿は、入国の玄関口であったリバティ島の隣、エリス島を目指して海を渡ってきた何百万人もの移住者たちに勇気を与えてきました。
首長ロイ・マタの旧所領
Chief Roi Mata’s Domain
シュトラールズントおよびヴィスマールの歴史地区
Historic Centres of Stralsund and Wismar
シュトラールズントとヴィスマールは、ともに13世紀に築かれたバルト海沿岸の都市で、13世紀から15世紀にかけてはハンザ同盟の重要な役割を果たす都市として発展しました。1618年から1648年にかけて戦われた三十年戦争の講和条約であるヴェストファーレン条約によってともにスウェーデン領となった後は、スウェーデンにおける主要な行政・防衛の拠点となりました。このような経緯から、この地域の建築物は、バルト海沿岸のハンザ都市の特徴であるレンガ建築技術の伝統を伝えつつ、スウェーデン時代の軍事上における建築技術の発展の痕跡も残すという特徴を持っています。特に主要な教区教会やシュトラールズントの市庁舎、ディーレンハウスなどの商業建築には、建築技術と都市形態の発展の証拠が見られます。
シュトルーヴェの測地弧
Struve Geodetic Arc
シュパイア、ヴォルムス、マインツのユダヤ人共同体(シュム)関連遺産群
ShUM Sites of Speyer, Worms and Mainz
ライン川上流域のシュパイア、ヴォルムス、マインツの3つの都市に残る4つのユダヤ人関連資産が世界遺産として登録されています。これらの3都市にはディアスポラによって離散したユダヤ人のうちドイツや東欧に定住した人々を指す、アシュケナジムのコミュニティが存在していました。世界遺産には、シュパイアのユダヤ人裁判所、ヴォルムスのシナゴーグと旧ユダヤ人墓地、マインツの旧ユダヤ人墓地の4つの資産が登録されています。これらは10世紀以降のユダヤ人共同体の生活を示す貴重な証拠であるとされ、特に11世紀から14世紀にかけてのアシュケナジム特有の慣習の発現と共同体の発展、定住様式などを具体的に反映しています。遺産名に含まれている「シュム(ShUM)」という名称はヘブライ語でシュパイア、ヴォルムス、マインツの頭文字を表しています。