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アウシュヴィッツ・ビルケナウ:ナチス・ドイツの強制絶滅収容所(1940-1945)
Auschwitz Birkenau German Nazi Concentration and Extermination Camp (1940-1945)
アウシュヴィッツ・ビルケナウは、ナチス・ドイツがユダヤ人を中心とする民族の絶滅を目的に設立した最大の強制収容所であり、ホロコーストの象徴的な現場です。1940年にポーランドのオシフィエンチムに設立され、1942年から1944年にかけて、ユダヤ人を中心に約150万人が組織的に殺害されました。この場所が選ばれた理由は、鉄道での輸送・運搬が容易で、周囲からの隔離が比較的簡単にできること、そしてナチス・ドイツが考える劣等民族をドイツ本国内に入れないようにするためでした。この地にて殺害された人の大半はユダヤ人だったとされ、他にも政治犯や犯罪者、精神や身体に障害のある人、ロマなどの少数民族なども命を落としました。この収容所は、20世紀における人類の残酷さの象徴です。
アメル山の城塞群
Mount Amel Castles
レバノン南部に位置するアメル山の城塞群は、中世から19世紀にかけて発展したカラアト・アルシャキーフ(ボーフォート城)、カラアト・ティブニーン(トロン城)、カラアト・シャクラ(ドゥビエ城)、カラアト・デイル・キファ(マロン城)、カラアト・シャマーの5つの要塞の遺跡で構成されています(カラアトはアラビア語で「城塞」)。これらは丘陵や尾根の上に築かれており、重要な防衛拠点として機能しました。当初は監視塔や基地でしたが、やがて十字軍やイスラム諸王朝の軍事的知識・技術・概念が取り入れられ、射撃設備や城門、防御塔、貯蔵施設などを備えた複雑な城塞へと発展していきました。また、周辺地域の交通や人・物資の往来、農業を統制するネットワークとして、行政的な面も持ち合わせていました。5つの要塞群は、約1,000年にわたるレヴァント地域の軍事的、政治的、社会経済的な組織の歴史を物語っています。
アレッポの旧市街
Ancient City of Aleppo
アンティグアの海軍造船所と関連考古遺跡群
Antigua Naval Dockyard and Related Archaeological Sites
イラン縦貫鉄道
Trans-Iranian Railway
ヴィルンガ国立公園
Virunga National Park
ヴェルサイユ宮殿と庭園
Palace and Park of Versailles
ESMA 博物館と記憶の場:拘禁と拷問、虐殺のかつての機密拠点
ESMA Museum and Site of Memory – Former Clandestine Centre of Detention, Torture and Extermination
『ESMA 博物館と記憶の場:拘禁と拷問、虐殺のかつての機密拠点』は、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスに所在する旧海軍技術学校(ESMA)の敷地内に位置する旧士官宿舎です。ESMAは1928年から2004年まで使用されていました。アルゼンチンでは、1976年から1983年にかけて軍事独裁政権が続き、その間に国家主導によるゲリラ組織や左翼勢力への弾圧が行われました。この時代は「汚い戦争」とも呼ばれ、反政府的と見なされた活動家、ジャーナリスト、学生など、約3万人の市民が秘密裏に誘拐・殺害されたとされています。ESMAはその拠点のひとつであり、アルゼンチン海軍によって5,000人以上の人々が拘禁されたとされています。
エルサレムの旧市街とその城壁群
Old City of Jerusalem and its Walls
西アジアの地中海東岸地域(レバント地方)に位置するエルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つの宗教にとってきわめて重要な意味を持つ聖地です。エルサレムの歴史は非常に古く、約6,000年前には人類が居住していた可能性があります。紀元前14世紀の古代エジプトの文書に登場する「ウルサリム」という記述は、エルサレムに関する初めての確実な言及とされています。ウルサリムは西セム諸語の「シャリムの都市」を意味する語に由来し、それが転訛してエルサレムとなったと考えられています。現代アラビア語では「神聖」を意味する語に定冠詞(Al)が付いたAl Quds(アル・クドゥス)と呼ばれます。これはエルサレム神殿のヘブライ語名である「聖なる家」をアラビア語に翻訳したバイト・アル・マクディスという名称が短縮したものとされています。現在、エルサレムは西エルサレムと東エルサレムに分かれており、世界遺産に登録されている旧市街は東エルサレムに位置しています。旧市街は約1km四方の範囲に広がり、周囲を囲う城壁の全長は約4kmあります。城壁はオスマン帝国のスレイマン1世によって再建されたもので、8つの門のうち7つが現在も使用されています。
円形都市ハトラ
Hatra
オカピ野生動物保護区
Okapi Wildlife Reserve
オデーサの歴史地区
The Historic Centre of Odesa
「黒海の真珠」とも呼ばれる美しい街並みが広がるウクライナ南部の都市。対岸にはイスタンブルがある黒海沿岸の港湾都市で、古代ギリシャ都市「オデッソス」の名前を女性形にした「オデッサ」と名付けられました(ウクライナ語では「オデーサ」)。オデーサの街は、当時のロシア帝国の女帝エカチェリーナ2世により、凍らない港である不凍港を獲得するため建設・整備された歴史をもちます。不凍港の獲得はロシアの南下政策において、軍事的・経済的な要でした。その後オデーサは1819年に自由港湾都市となって発展を遂げ、様々な文化が交差する国際都市になりました。世界遺産としては19~20世紀にかけての傑出した都市計画が評価されています。
ガダーミスの旧市街
Old Town of Ghadamès
カンボジアの記憶の場:抑圧の中心から平和と反省の場へ
Cambodian Memorial Sites: From centres of repression to places of peace and reflection
カンボジアではベトナム戦争中の1970年にロン・ノル将軍らの親米右派によるクーデターが起こり、シハヌーク元首が追放されたことからカンボジア内戦(1970~91年)が始まりました。1975年にロン・ノル政権が崩壊すると、翌1976年に赤色クメールを指導したポル・ポトによる政権が誕生しました。この政権は政治的反対勢力を抑圧し、集団農業によって階級のない農業社会を強制するために全国規模の治安システムを構築しました。カンボジア全土のあらゆる地域に約200の「治安センター」と「無数の処刑場」が建設され、都市から農村への強制移住、通貨の廃止、反対者の大量虐殺などが行われました。犠牲者は1000万人以上とされています。1978年には隣国ベトナムが 侵攻し、翌年にベトナムの支援を受けたヘン・サムリン政権が成立しましたが、ポル・ポト派によるゲリラ活動などの内戦は1991年まで続きました。「カンボジアの記憶の場:抑圧の中心から平和と反省の場へ」はポル・ポト政権によって大量虐殺が行われた3つの資産で構成されています。
キーウ:聖ソフィア聖堂と関連修道院群、キーウ・ペチェルーシク大修道院
Kyiv: Saint-Sophia Cathedral and Related Monastic Buildings, Kyiv-Pechersk Lavra
9~13世紀にキリスト教圏の東端で栄えたキエフ大公国(キーウ・ルーシ)が首都キーウに残したキリスト教関連の建築物群です。キエフ大公国は10世紀末にギリシャ正教を国教として公認し、ビザンツ様式の教会や修道院が数多く建てられました。キーウの中心部にある聖ソフィア聖堂はキーウ・ルーシ全盛期の11世紀にヤロスラフ賢公によって建設されたキーウ最古の聖堂です。後にロシア各地の聖堂建築に影響を及ぼしたことから、「ロシア聖堂の母」と呼ばれます。郊外の高台に立つキーウ・ペチェルーシク大修道院はやはり11世紀に建設され、宗教・学問・教育の広い分野で中世ロシア有数の「知の中心」でした。13世紀にモンゴル軍により破壊されましたが、19世紀になって再興されました。世界遺産には、ペレストヴォ地域にある救世主聖堂も併せて登録されています。
キレーネの考古遺跡
Archaeological Site of Cyrene
キレーネの考古遺跡は、リビア北東部にあるギリシャ式の都市の遺跡です。その起源は、エーゲ海のテラ島(現在のサントリーニ島)の人々によって築かれたとされています。言い伝えでは、人口増加や干ばつに苦しんだテラ島の人々が、デルフィで信託を受け、サントリーニ島から船でリビアへ渡り、新天地に都市を建設したといいます。都市名キレーネは、アポロンに愛された泉の女神に由来すると伝えられています。キレーネは地中海貿易の拠点として栄え、アテネやシラクサに次ぐ規模のアクロポリスも築かれました。前4世紀にはアレクサンドロス大王に服属し、その後エジプトのプトレマイオス朝の支配を経て、ローマ帝国の属州となりました。ローマ支配下ではその後、反乱による破壊、ハドリアヌス帝による再建、地震と津波などを経験し、都市は次第に衰退しました。そして7世紀後半、イスラム勢力によって征服され、歴史の舞台から姿を消しました。
コソボの中世建造物群
Medieval Monuments in Kosovo
古代都市サーマッラー
Samarra Archaeological City
古代都市パルミラ
Site of Palmyra
シリアの首都・ダマスカスの砂漠の中央にあるオアシスの都市パルミラは、かつてナツメヤシが茂る地下水に恵まれた場所でした。「パルミラ」の名は、ギリシャ語でナツメヤシを意味する「パルマ」に由来しています。紀元前1世紀ごろから後3世紀の間、シルク・ロードの拠点として交易で栄え、129年にはローマ帝国のハドリアヌス帝から自由都市の資格を与えられました。パルミラの主神を祀るベル神殿や列柱道路、商人らを楽しませた円形劇場や浴場などが作られました。ギリシャ・ローマの西方文化とパルティア・ペルシアなどの東方文化の交差点に位置するパルミラの芸術と建築は、東西の文化と地元の伝統が融合し、独創的なスタイルを築きました。しかしローマ帝国からの独立に失敗したあと、街は破壊されました。
国境防衛都市エルヴァスとその要塞群
Garrison Border Town of Elvas and its Fortifications
ポルトガルのアレンテージョ地方、平野を見下ろす丘陵上にあるエルヴァスは、人口数万人の穏やかな街です。ここは、スペインとの国境近くに位置し、古来、軍事上の要地として知られていました。大掛かりな要塞化が進められたのは17世紀に入ってからで、特に、独立をかけたスペインとの戦争において重要拠点となりました。さまざまな軍事施設が建設され、世界最大級の空堀と稜堡という防御構造を持つ街へと変貌していきました。後には、ナポレオン軍との戦闘の舞台にもなりました。構成資産のひとつでもあるアモレイラ水道橋は、全長が7㎞あり、イベリア半島最長です。要塞が長期間の包囲攻撃に耐えるために、水の供給は最重要課題となっていました。
サナアの旧市街
Old City of Sana'a
シベニクの聖ヤコブ大聖堂
The Cathedral of St James in Šibenik
スオメンリンナ要塞
Fortress of Suomenlinna
セバスティア
Sebastia
第一次世界大戦(西部戦線)の慰霊と記憶の場
Funerary and memory sites of the First World War (Western Front)
1914年から1918年に、人類史上最初の世界大戦がありました。第一次世界大戦はイギリス・フランス・ロシアを軸とする連合国側と、ドイツ・オーストリアを軸とする同盟国側が衝突した戦争です。この戦争は、主にヨーロッパで展開されましたが、多くの植民地の人たちが徴兵されたことからも、世界大戦の性質を帯びています。また、これまでの戦争は、戦場における兵士たちが戦うという設定でしたが、この戦争では先述した植民地の人たちが徴兵されたり、各国の経済力・工業力・技術力、そして武器工場に従事する女性を含めた国民の全体が戦争に動員されたため、「総力戦」とも呼ばれています。以上のことから、誰もがすぐに終わると考えていたこの戦争は、実に四年間にわたり繰り広げられ、非常に多くの戦死者を出しました。
タウリカ半島の古代都市とチョーラ
Ancient City of Tauric Chersonese and its Chora
伝説の都市トンブクトゥ
Timbuktu
トゥルグジウにあるブランクーシの彫刻作品群
Brâncuși Monumental Ensemble of Târgu Jiu
コンスタンティン・ブランクーシはルーマニア出身の彫刻家で、20世紀を代表する芸術家の一人です。代表作には、鳥の飛翔の本質を流線形に飛躍させて表現した「空間の鳥」などがあります。1937年から1938年にかけて制作された、トゥルグジウにある「モニュメンタル・アンサンブル」は、第一次世界大戦で街を守って命を落とした人々を追悼するために制作されました。主要な作品として、「無限柱(Endless Column)」「接吻の門(Gate of the Kiss)」「沈黙のテーブル(The table of Silence)」があります。これらは「英雄の並木道(Avenue of Heroes)」と呼ばれる約1.5㎞の軸線上に配置され、2つの公園を結んでいます。この軸線の中央には聖ペテロ・パウロ教会が位置し、全体で都市空間と一体化しています。
ノルマンディー上陸作戦の海岸群(1944年)
Beaches of the D-Day Landings, Normandy, 1944
ハイチの国立歴史公園:シタデル、サン・スーシ宮、ラミエ地区
National History Park – Citadel, Sans Souci, Ramiers
ハイチ北部にあるラミエの国立歴史公園には、ハイチの独立に関連するシタデルとサン・ スーシ宮が残っています。17世紀末からフランス統治下のハイチでは、50万人もの黒人奴隷がいましたが、 その後奴隷が解放され、ハイチは1804年に独立しました。独立運動の指導者ジャン・ジャック・デサリーヌを倒して権力を握った黒人将軍アンリ・クリストフは、その権威の象徴としてヴェルサイユ宮殿を模したサン・スーシ宮を建設しました。ポツダムやウィーンのものを彷彿とさせる階段状の庭園も特徴です。背後のラ・フェリエール山 にあるシタデルは、高さ50m、厚さ5mもの城壁を持ち、約5,000人を収容できる兵舎と365もの大砲を備えていた城塞です。現在はどちらも廃墟となっています。ハイチ唯一の世界遺産です(2025年11月現在)。