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ブレーメンのマルクト広場にある市庁舎とローラント像
Town Hall and Roland on the Marketplace of Bremen
ドイツ北西部ブレーメンの市場広場にある市庁舎とローラント像は、ヨーロッパの神聖ローマ帝国において発展した都市の自治権と市場特権を象徴する優れた遺構です。旧市庁舎(ラートハウス)は15世紀初頭にゴシック様式のホール建築として建てられ、17世紀初頭にはいわゆるヴェーザー・ルネサンス様式で改修されました。20世紀初頭には旧市庁舎の隣に新市庁舎が建設され、第二次世界大戦の爆撃を生き延びた建築群の一部となっています。旧市庁舎は、41.5m × 15.8m の長方形平面を持つ二階建てのホール建築で、「横長の矩形ホール構造」と呼ばれています。1階はオーク材の柱を持つ大広間で、商人の取引や演劇の場として使われていました。2階には同じ大きさの祝祭ホールがあります。窓の間には、ゴシック期の皇帝や選帝侯を表す石像が並び、後期ルネサンスの装飾と融合して市民自治を象徴しています。地下には1階と同じ規模の石柱を持つ大きなワインセラーがあり、後に西側へ拡張され、現在はレストランとして利用されています。17世紀の改修では、列柱の11軸のうち中央3軸が大きな矩形窓と高い破風を持つ張り出し部で強調され、これがヴェーザー・ルネサンス様式の好例となっています。さらに、砂岩による精巧な彫刻装飾がファサードに加えられ、寓意的・象徴的な表現が施されました。新市庁舎は建築コンペの結果、ミュンヘンの建築家ガブリエル・フォン・ザイドルによって設計され、1909年から1913年にかけて建設されました。
ブレナヴォン産業景観
Blaenavon Industrial Landscape
プレ山及びマルティニーク島北部の峻峰群の火山と森林
Volcanoes and Forests of Mount Pelée and the Pitons of Northern Martinique
フランスの海外県マルティニークは、カリブ海西インド諸島のウィンドワード諸島に位置し、プレ山やピトン山の火山活動によって形成された険しい山々が生み出す景観が広がる島です。標高1,397mのプレ山は、マルティニーク島で最も高い山です。1902年5月8日に発生したプレ山の大噴火は、当時マルティニークの県庁所在地だったサン・ピエールの街に壊滅的な被害をもたらし、20世紀で最も多くの犠牲者を出した火山災害とされています。火砕流を一方向に射出するプレ山特有の噴火様式は「プレ式噴火」と呼ばれ、火山活動の研究において重要な事例とされています。カリブ海に面した海岸から火山の山頂にかけては、生物多様性に富んだ熱帯雨林が広がり、マルティニーク・ボルケーノ・フロッグ(通称)やマルチニクムクドリモドキなど、絶滅の危機に瀕している固有種を見ることができます。
ヘーガ・クステン/クヴァルケン群島
High Coast / Kvarken Archipelago
バルト海北部、スウェーデンのヘーガ・クステンとその対岸にあるフィンランドのクヴァルケン群島には、9,600年前の氷河期末期から現在も隆起を続ける高層海岸があります。氷河期に氷床の重みによって沈んでいた地域が、氷河期が終わり、氷床が解氷したことで地面が反発し盛り上がる地殻変動が起こっています。これはマントル上で地殻の重みと地殻に働く浮力が釣り合うアイソスタシー(地殻均衡)が成立していないことが原因とされています。隆起のスピードは1年間に8~10mmで、現在知られている中で最も氷河解氷後の地殻上昇が高い例証となっています。また、2万4,000~1万年前にかけて大陸氷河の解氷によって作られたとされる、波状の畝のついた洗濯板のような氷堆石「デ・ギア・モレーン」も見ることができます。2006年、もともと登録されていたヘーガ・クステンに5600の島々と周辺海域からなるクヴァルケン群島が加わり登録地域が拡大されました。
ヘーゼビューとダーネヴィルケの国境の考古学的遺跡群
Archaeological Border complex of Hedeby and the Danevirke
ヘーゼビューの交易拠点とデーン人の防衛施設ダーネヴィルケは、現在のドイツ北端、ユトランド半島のシュレースヴィヒ地峡に位置し、1千年紀から2千年紀初頭にかけて築かれた、土塁・壁・堀、集落、墓地、港湾などが空間的に結びついた複合遺構です。この特異な地理的位置は、スカンディナヴィア、ヨーロッパ大陸、北海、バルト海を結ぶ戦略的な要衝となりました。バルト海の入り江、河川、湿地帯が南北の通路を狭める一方で、海と海を結ぶ最短かつ安全な陸上ルートを形成していました。ヘーゼビューは、南のフランク王国と北のデンマーク王国の境界地帯という独自の位置により、ヨーロッパ大陸とスカンディナヴィア、北海とバルト海を結ぶ重要な交易拠点となりました。ヴァイキング時代を通じて3世紀以上にわたり、西欧・北欧の新興交易都市(エンポリア)の中でも最大級かつ最重要の都市の一つでした。10世紀には、国境と陸上輸送路を管理するダーネヴィルケの防衛施設に組み込まれました。
ペーチ(ソピアナエ)の初期キリスト教墓所
Early Christian Necropolis of Pécs (Sopianae)
ベート・シェアリムのネクロポリス:ユダヤ人再興の中心地
Necropolis of Bet She’arim: A Landmark of Jewish Renewal
イスラエル北部にあるベート・シェアリムのネクロポリスは、ユダヤ人が132~135年にローマ支配に対して起こした第二次ユダヤ人反乱(バル・コクバの乱)の失敗後、エルサレム以外における主要なユダヤ人墓地となりました。この地下墳墓群は、ラビ・ユダ(族長)の指導の下で西暦2世紀から4世紀にかけて繁栄した、ユダヤ教の復興と存続を示す卓越した証拠となっています。135年以降にユダヤ教復興の担い手となり、ミシュナーを編纂したとされるイェフーダー・ハン・ナーシーが、一説には220年頃にベート・シェアリムに埋葬され、以来多くのユダヤ人がこの地を墓地に選んだとされています。この広大な地下墓所は、粘り強いユダヤ文化がこの地で花開いた歴史を物語っています。
平遥の古代都市
Ancient City of Ping Yao
中国北部、山西省の平遥は、「平遥古城」とも言われる中国有数の古都です。この地域に人類が住み始めたのは新石器時代とされます。紀元前9~前8世紀、周王朝の宣王の時代に要塞が築かれたことが街の始まりです。明代初期の14世紀、洪武帝は石積みとレンガで強固な防壁を築き、城壁内部のレイアウトも大きく変えて街を拡張しました。明代以降は華北地域の金融を支配した山西商人たちの拠点となり、清代にあたる 19~20世紀にかけては中国全土の金融業の中心となりました。平遥は全周約6.4kmの城壁に囲まれており、6基の門と72の塔を備えています。城壁内は約2.25k㎡の広さで、明代から清代にかけての街並が広がります。街路、役所、商店、民家などが往時の姿を留めていて、4,000軒近い商店や住居や、大小100以上の通りなどが現存しています。特に明・清代の漢民族の都市の特徴が非常に良い状態で残されています。「平遥の古代都市」は、近郊の双林寺と鎮国寺も含めて世界遺産に登録されています。6世紀半ばに創建された双林寺には、明・清代にかけて制作された彩色塑像約 2,000体が保存されていて、「東洋の彩色塑像の美術館」と称されます。鎮国寺は10 世紀創建の寺院で、敷地内の芳仏殿は中国で最も古い木造建築の1つに数えられています。
北京原人化石出土の周口店遺跡
Peking Man Site at Zhoukoudian
北京の南西に位置する周口店遺跡は、東アジア最大の旧石器時代の遺跡です。1921年にこの地で未知の化石人類の臼歯が発見され、シナントロプス・ ペキネンシスと名付けられました。これは北京原人のことで、現在の学名はホモ・エレクトゥス・ペキネンシスと呼ばれています。化石人類とは現生人類(新人)に進化する前の猿人、原人、旧人を指し、打製石器を使用する旧石器時代に生存していました。1929年には頭蓋骨が発見されました。北京原人は約 70万年から約20万年前の原始人類で、直立歩行をして、道具と火を使用し、河岸や洞窟で集団生活をしていたと考えられています。周口店遺跡からは40体あまりの人骨、約10万点の石器、骨製道具などが発見されました。また、北京原人よりも現代人に近い、1万9,000年ほど前の山頂洞人の遺跡も見つかっています。山頂洞人とは、北京原人が発見された北京郊外の周口店にある竜骨山の頂上付近にある洞窟から発見されたのでこう呼ばれています。ヨーロッパのクロマニョン人などの化石の現生人類と考えられています。
北京と瀋陽の故宮
Imperial Palaces of the Ming and Qing Dynasties in Beijing and Shenyang
北京の中軸線:中国首都の理想的秩序を示す建造物群
Beijing Central Axis: A Building Ensemble Exhibiting the Ideal Order of the Chinese Capital
中国の首都・北京の中心部を南北に貫く中軸線は、北の鐘鼓楼から万寧橋、景山公園、紫禁城(故宮)、天安門などを経て、南の永定門に至るまで、全長7.8kmにわたって延びています。この都市軸は、北京の歴史的中核を形づくるとともに、中国の皇帝制と伝統的都市計画の理念を現在に伝えるものです。歴史的には、元代(1271~1368年)の首都・大都の建設とともに1267年に初めて建設され、明代(1368~1644年)、清代(1636~1912年)にかけて拡張・形成されました。元代に大都が建設された際、現在の什刹海(シチャハイ)東岸周辺を基準点として、南方向に都市の軸線が設定されました。これに沿って宮城が築かれ、都市の四方の境界が画定されるとともに、街路は碁盤目状に整備されました。この軸線は中国古代に編纂された、儒教に関わる経書のひとつ『周礼』の「考工記」で示された理想的な都城のモデルが具体化されたものでした。明代に入ると、紫禁城を中心とする内城とその南側に外城が建設され、南北へと延長されました。15世紀前半には、紫禁城の北側に景山が築かれ、東西には太廟と社稷壇(しゃしょくだん)が配置されました。さらに内城の南には天安門と正陽門が整備され、16世紀半ばまでに外城が完成すると、中軸線は永定門まで延び、現在見られる7.8kmの全体像が成立しました。その後の清代にかけて、建造物の改修や景観の整備が進められ、中軸線は皇帝制のもとで維持・発展していきました。
百済の歴史地区
Baekje Historic Areas
ヘラクレスの塔
Tower of Hercules
ヘラクレスの塔は、ローマ人が1世紀後半に建設して以来、スペイン北西部のコルーニャ港入り口で灯台や陸標(ランドマーク)としての役目を担ってきました。高さ55mのこの塔は現役で稼働する最古の灯台として有名です。現在の姿は18世紀末に修復されたものですが、土台にはローマ帝国時代の部分も残っています。かつて塔のあるガリシア地方は「ブリガンティウム」と呼ばれ、この地を治めたケルト人の一派が海岸沿いに幾つもの見張り塔を建てました。その後、一帯を占領したローマ人が見張り塔のひとつを灯台に改築し「ブリガンティウムの塔」と名付けたと言われています。そしてスペイン統一後に、ケルト文化と関係のない「ヘラクレスの塔」と改名されました。
ベラトとギロカストラの歴史地区
Historic Centres of Berat and Gjirokastra
ベラトとギロカストラは、オスマン帝国時代の建造物が良好な状態で残されている貴重な遺産です。アルバニア中部に位置するベラトは、要塞としての機能を持ちながらも開放的な雰囲気の街で、古くから職人や商人たちが暮らしてきました。丘一帯には、オレンジ色の屋根に白い壁、そして大きな窓が特徴的な同じ形の建物が立ち並んでいます。その特徴的な景観から、ベラトは「千の窓の町」という名で親しまれています。地元で「カラ」と呼ばれる城の起源は紀元前4世紀にまでさかのぼりますが、現存するものの多くは13世紀に建てられたものです。城内の地区には、主に13世紀のビザンチン様式の教会が数多く残されているほか、1417年からのオスマン帝国時代に建てられたモスクも点在しています。
ペルアス川渓谷
Peruaçu River Canyon
ペルガモンとその周辺:様々な時代からなる文化的景観
Pergamon and its Multi-Layered Cultural Landscape
トルコ西部、エーゲ海地域の丘の上に位置するペルガモンのアクロポリス遺跡は、紀元前3~前2世紀に栄えたアッタロス朝(ペルガモン王国)の首都の都市遺跡です。この都市を築いたのはアッタロス朝の創始者であるフィレタイロス。彼は、アレクサンドロス大王の死後、後継者の一人であるリュシマコスに仕えていましたが、リュシマコスが殺されてからはこの地の統治者となりました。ここには記念碑的な聖堂群や劇場、教育機関、図書館などの遺構が、大規模な市壁に囲まれた傾斜地に残ります。紀元前133年になると、ローマに組み込まれますが、それ以降も文化都市として栄えました、やがてビザンツ帝国やオスマン帝国の時代では教会やモスクも建造されたため、この地には様々な時代の遺構が残っています。
ベルゲンのブリッゲン地区
Bryggen
ペルシア庭園
The Persian Garden
ペルシアのカナート
The Persian Qanat
ペルシアの隊商宿
The Persian Caravanserai
隊商宿(キャラバンサライ)とは、古代の街道沿いに存在した、隊商(キャラバン)のための宿泊施設のことです。その起源は、アケメネス朝ペルシア時代に「王の道」として整備された道路網に沿って設けられた中継施設といわれています。その後、シルク・ロードや巡礼路の道沿いにこのような施設が大小さまざま無数につくられ、19世紀末のカージャール朝の時代まで続きました。隊商宿では水や食料が提供され、安全に休むことができたほか、民族や言語が異なる商人たちの交流の場としても機能していました。砂漠や荒野をひたすら歩いて移動していた人々にとって、これらの隊商宿は生きていくために必要な施設でした。世界遺産には、イランに点在する54件の隊商宿が登録されています。
ペルシア湾の真珠産業関連遺産:島嶼経済の証拠
Pearling, testimony of an island economy
ペルシア湾は千年以上の歴史を持つ真珠の産地で、なかでもバーレーンのムハラク島は、その産地として真珠交易の重要な拠点でした。ムハラクは、バーレーンのかつての首都で、この地での真珠採りは、19世紀末から20世紀初頭にかけて最盛期を迎えました。その貿易による富がムハラク市内の特徴的な建物や店舗を生み出しました。その建造物のほとんどは、比較的良好な状態で現存しており、特に木材と漆喰を使った高い職人技による建築は、真珠産業が育んだ独特の文化を示しています。世界遺産には、ムハラク市内の商人の店舗や住居、倉庫、それに寄付によって建てられたモスクなど17棟の建物、沖合のカキ養殖場3か所、海岸の一部、そしてムハラク島南端にあるカラット・ブ・マヒール要塞(かつては主要な漁港であり、海への出入りの玄関口として使われていた)が構成資産として登録されています。
ペルセポリス
Persepolis
ベルンの旧市街
Old City of Berne
アーレ川に囲まれた丘の上に位置するスイスの首都ベルンは、12世紀後半にこの地を治めていたベルトルト・フォン・ツェーリンゲンが森を切り拓いてつくりました。その後13~14世紀にかけて西へ向かって街を拡張していきますが、1405年の大火によって市街中心部が全焼してしまいます。もともと木造家屋が多かったベルンですが、これを機会に石造りの建物を中心として再建しました。文豪ゲーテが「訪ねた都市のなかで一番美しい」と残した旧市街は、現在でも石造りのアーケードや多くの噴水、貴重な文化財が大切に守られています。19世紀にスイスの首都となったベルンは、スイスの大都市の中で最も中世の街並みを残している街として知られています。
ホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟
Mausoleum of Khoja Ahmed Yasawi
カザフスタン南部、ヤシという町にあるホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟は1389年から1405年にかけてつくられた、現在も重要な巡礼地です。ホージャ・アフマド・ヤサヴィーとは、12世紀に中央アジアの遊牧民にイスラム教を広めたイスラーム神秘主義の指導者のことであり、中央アジアと西アジアを征服し、帝国を築いたティムールが命令を出して、もともとあった小さい廟の後に建築されました。ティムールが廟を造らせた理由として有力なのが、遊牧民に崇拝されているヤサヴィーの廟を造ることで、東方の遊牧民の支持を得るためであったということです。建設にはティムール自身も携わり、腕の立つ職人が数多く集められましたが、1405年にティムールが亡くなったことにより建設は中断され、未完成となっています。
ホープウェルの儀礼的土塁群
Hopewell Ceremonial Earthworks
『ホープウェルの儀礼的土塁群』は、アメリカ合衆国北東部のオハイオ川中流域沿いにおいて、約2,000〜1,600年前に築かれた8つの巨大な土塁群です。これらは、現在「ホープウェル文化」と呼ばれる先住民の伝統を最もよく示す遺構として位置付けられています。多くの土塁群には、広大な空間を囲む土塁と、意図的に配置された記念碑的な門が備えられています。土塁は地形に応じて幾何学的に正確な円形、四角形、八角形などの形状で構築されており、地域全体で共通して用いられた標準寸法や幾何学的原理に基づいて建設されたと考えられています。内部には複数の墳丘(塚)が存在し、土塁群は主に土塁、門、墳丘によって構成されています。これらの構成要素は、太陽および月の動きを考慮して配置されたとされています。
ホーラマン/ウラマナトの文化的景観
Cultural Landscape of Hawraman/Uramanat
ポヴァティ・ポイントの記念碑的土塁群
Monumental Earthworks of Poverty Point
『ポヴァティ・ポイントの記念碑的土塁群』は、ルイジアナ州北部、ミシシッピ川下流域にあるわずかに隆起した場所に位置する遺跡です。その名称は、敷地近くにあった19世紀のプランテーションに由来しています。遺跡は、5つの土塁、浅い窪地で区切られた6つの同心円状の半楕円形の盛土、そしてその最も内側にある広場で構成されています。この遺跡は紀元前1700年から前1100年の間に、狩猟・漁労・採集を行っていた人々によって築かれ、居住および儀式の場として利用されていました。北米における土塁建築の中でも特に優れた例とされており、少なくともその後2,000年間は、これを上回る規模の遺跡は存在しなかったとされています。
北海道・北東北の縄文遺跡群
Jomon Prehistoric Sites in Northern Japan
『北海道・北東北の縄文遺跡群』は、北海道・青森県・秋田県・岩手県の4道県にまたがる17の縄文遺跡で構成されています。縄文時代は、日本の先史時代のうち、約1万5,000年前から2,400年前までの期間を指します。これらの遺跡群が位置する北日本は、山地、丘陵地、平野、低地といった多様な地形に加え、内湾や湖沼、水量の豊かな河川などを擁し、森林資源と水産資源に恵まれた地域です。ブナを中心とする冷温帯落葉広葉樹林が広がり、暖流と寒流が交わることで沖合には理想的な漁場が形成されています。また、河川にはサケやマスなどの回遊魚が遡上します。こうした環境の中で、北日本に暮らしていた人々は安定した食料を確保し、約1万5,000年前に土器を使用した定住生活を始めました。その後、縄文人たちは1万年以上にわたって農耕文化へ移行することなく、狩猟・漁労・採集を中心とした生活を続けてきました。
ホッラマーバード渓谷の先史遺跡群
Prehistoric Sites of the Khorramabad Valley
イラン西部、ザグロス山脈に位置するホッラマーバード渓谷には、中期旧石器時代から後期旧石器時代にかけて人々が継続的に居住していたとされ、その証拠となる遺跡が残されています。最も古い痕跡は約6万3,000年前に遡ります。さらに、貝製ペンダントなどの装飾品、黄土色の顔料を使用した痕跡、装飾されたテラコッタ片といった遺物も出土しており、人類の認知行動や象徴的表現の現れを示す重要な証拠とされています。一部の貝製装飾品はペルシャ湾沿岸に由来する可能性が指摘されており、後期旧石器時代における交流・移動範囲の広さを示唆しています。これらの遺跡は、ネアンデルタール人が優勢であった中期旧石器時時代から、後期石器時代への移行期に解剖学的現生人類が渓谷に到達して居住地を拡大し、ネアンデルタール人に取って代わった過程を示しており、アフリカ大陸からユーラシア大陸へと広がっていった人類の拡散の変遷を知る上で貴重な遺産です。
ホヤ・デ・セレンの考古遺跡
Joya de Cerén Archaeological Site
エルサルバドル西部の「ホヤ・デ・セレンの考古遺跡」は600年頃のロマ・カルデラ火山の噴火によって埋もれた農村集落の遺跡です。200人ほどの住民が暮らしていたと考えられていますが、突然の火山の噴火によって急に集落を放棄せざるを得なかったためか、豆の入った鉢などが散在した状態で見つかるなど、当時の生活の様子をそのまま伝える貴重な遺跡です。この集落跡は1976年に穀物貯蔵庫を建設する工事の際に偶然見つかったものですが、その後の発掘調査により、スペイン到達前のメソアメリカにおける村落の様子が非常に良好な保存状態で見つかっています。日干しレンガでつくられた住居跡や共同浴場跡、木製農耕具がほぼ完全な状態で発掘されたほか、陶器や香具、染料などの日用品やトウモロコシやカカオ豆といった食料までもが発見されています。