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古代高句麗王国の都城と古墳群
Capital Cities and Tombs of the Ancient Koguryo Kingdom
五台山
Mount Wutai
古代都市サーマッラー
Samarra Archaeological City
古代都市パルミラ
Site of Palmyra
シリアの首都・ダマスカスの砂漠の中央にあるオアシスの都市パルミラは、かつてナツメヤシが茂る地下水に恵まれた場所でした。「パルミラ」の名は、ギリシャ語でナツメヤシを意味する「パルマ」に由来しています。紀元前1世紀ごろから後3世紀の間、シルク・ロードの拠点として交易で栄え、129年にはローマ帝国のハドリアヌス帝から自由都市の資格を与えられました。パルミラの主神を祀るベル神殿や列柱道路、商人らを楽しませた円形劇場や浴場などが作られました。ギリシャ・ローマの西方文化とパルティア・ペルシアなどの東方文化の交差点に位置するパルミラの芸術と建築は、東西の文化と地元の伝統が融合し、独創的なスタイルを築きました。しかしローマ帝国からの独立に失敗したあと、街は破壊されました。
古代ホタールの文化遺産群
Cultural Heritage Sites of Ancient Khuttal
タジキスタン南部のハトロン州に広がる『古代ホタールの文化遺産群』は、7世紀から16世紀にかけてシルクロードの要衝として栄えた歴史的地域で、古代バクトリアの一部であり、中世にはトハリスタンとも呼ばれていました。ここでは灌漑技術の発展と衰退が文化景観を左右し、移住や経済の変化、多様な民族の交流が織りなされました。塩・金・銀・馬などの交易を通じて文化・技術・宗教の往来が盛んに行われ、政治的にも経済的にも重要な役割を果たしました。その中心にあったのが10〜11世紀に築かれたカライ・フルブク宮殿で、堅固な城壁や煉瓦装飾、クーフィー体銘文を備えた宮殿です。さらに浴場やモスク、水道なども確認されており、それらは高度な都市計画を物語ります。世界遺産としては仏教寺院、宮殿、集落、製造施設、隊商宿など11件の遺跡が含まれ、古代から中世にかけてのこの地の政治・経済・文化の重要性を示す貴重な証拠となっています。
胡朝の要塞
Citadel of the Ho Dynasty
古都京都の文化財
Historic Monuments of Ancient Kyoto (Kyoto, Uji and Otsu Cities)
古都奈良の文化財
Historic Monuments of Ancient Nara
古都ホイアン
Hoi An Ancient Town
古都ルアン・パバン
Town of Luang Prabang
コトルの文化歴史地域と自然
Natural and Culturo-Historical Region of Kotor
コルヴァイの修道院に残るカロリング朝時代の西構えと修道院都市遺構
Carolingian Westwork and Civitas Corvey
この遺産は、ドイツ西部のノルトライン=ヴェストファーレン州の東端に位置するヘクスター市に位置する建造物群です。コルヴァイはカロリング朝期で最も影響力があるとされた修道院の一つで、当時、最高の権威を誇る図書館があったことでも知られています。現在の修道院の大部分は17世紀末に再建されたものですが、西構え(ヴェストヴェルク)はカロリング朝期のオリジナルが保存されている数少ない例となっています。1階には円柱と支柱を備えたオリジナルのヴォールト天井のホール、2階には三方をギャラリーで囲んだメインルームなどが保存されています。これらは歴史学的に貴重な実例というだけでなく、その後のヨーロッパの文化の発展において、ロマネスクやゴシックといった教会建築の基礎となった点でも重要な意味を持っています。
コルドバのイエズス会管区教会堂と農園跡
Jesuit Block and Estancias of Córdoba
コルドバの歴史地区
Historic Centre of Cordoba
スペイン南西部、アンダルシア地方にあるコルドバは、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の文化が融合する歴史ある商業都市です。紀元前3世紀に共和制ローマの支配下に入った時にはカルタゴの植民都市が存在し、6世紀には西ゴート王国がこの地を統治します。その後イスラム勢力が制圧し、756年に後ウマイヤ朝の首都としてヨーロッパにおけるイスラム教の最重要拠点となります。10世紀には、コンスタンティノープル、ダマスカス、バクダードと並ぶ大都市として繁栄し、市街には300以上のモスクが立ち並びました。
一方、コルドバはキリスト教世界が目指すレコンキスタ(国土回復運動)の対象都市となります。1212年にムワッヒド朝が衰退すると、1236年にはカスティーリャ王国のフェルナンド3世によってコルドバは奪還され、大モスク「メスキータ」はキリスト教聖堂へ改修されるなど、キリスト教文化が浸透していきました。歴史地区では、それぞれの宗教文化の痕跡が今も残されています。その他にも、フェルディナント王子とイサベル女王が居城とした「カトリック両王のアルカサル」や、キリスト教支配の初期に築かれた「カラオーラの塔」など、レコンキスタを象徴する建築物も見ることができます。
ゴレスタン宮殿
Golestan Palace
コローメンスコエ:昇天教会(ヴォズネセーニエ教会)
Church of the Ascension, Kolomenskoye
ヴォズネセーニエ教会(昇天教会)は1532年、のちに「雷帝」と呼ばれたイワン4世の誕生を祝うため、モスクワ市近郊のコローメンスコエの皇帝領地に建てられました。ここはモスクワ川の氾濫原へと続く急斜面の上、モスクワ中心部近くに位置し、現在、一帯は自然保護公園になっていて、16~17世紀の聖堂や礼拝堂、木造建築物がロシア各地から移築されています。この教会は、ギリシャ十字形プランを持つ白い石造りの教会です。ロシア建築における新たな段階を示すものとして、石造としては初めて天幕の形に似た多角錐の屋根を採用しました。特徴的な多角錐の屋根は、小さなココシュニクに縁取られた八角形の基壇から立ち上がり、その基壇自体も段状の大きなココシュニクの基部からせり上がっています。教会の周囲には階段でアクセスできる回廊が巡り、東側の祭壇部には白い石のキボリウムに覆われた「王の席」があります。壁の厚さは2.5〜3メートルと非常に厚く、内部は小さいものの、高さ41メートルの天井が開放感を生み出しています。
鼓浪嶼(コロンス島):歴史的共同租界
Kulangsu, a Historic International Settlement
厦門に面した小さな島、鼓浪嶼(コロンス島)に残る931の歴史的建造物からなっています。1842年に結ばれた南京条約によって、翌1843年に厦門が開港し、1903年に鼓浪嶼に共同租界が設立されると、中国における海外貿易の重要な窓口となりました。様々な国の外国人がここに住み着いたことから、世界の様々な様式の建築が建てられ、文化的な混交が生まれました。アール・デコやモダニズムなどの西洋の建築様式と、厦門周辺地域の文化が融合して生まれた「アモイ・デコ様式」という鼓浪嶼独自の建築様式は、その一例になっています。共同租界とは、清朝や中華民国内に築かれた外国人居留地で鼓浪嶼では各国が共同で外国人居留地を管理しました。
ゴンバデ・カーブース
Gonbad-e Qābus
ゴンバデ・カーブースは、イラン北部にある、ズィヤール朝の首都だったゴルガン(またはジョルジャン)の近くに1,006年に建設された高さ53mの焼きレンガ造りの塔です。形はやや先細りの円筒形で先端部は円錐形となっています。内部は空洞で初期のムカルナス様式の装飾があり、壁の厚さは3m近くあります。土台部分の碑文にはアラビア語で「アミール・カーブース・ワシュムギール自身が生きている間に建設を命じた」と書かれており、この時期のズィヤール朝皇帝でアラビア詩人でもあったカーブースのための建造物であることがわかります。初期イスラム建築の革新的な設計と幾何学的で斬新なデザインは、これ以降イランだけでなく中東・中央アジアへと広まっていきました。建設1000年を迎えた後2012年に世界遺産に登録されました。
サーンチーの仏教遺跡
Buddhist Monuments at Sanchi
インド中部、マディヤプラデーシュ州にある『サーンチーの仏教遺跡』は、高さ約90mの丘の上に、宗教建築が群立しています。約50の遺跡群の中には、3つの大型のストゥーパ(仏塔)や祠堂、僧院など紀元前3世紀~後12世紀までの仏教の遺構が今に残されています。遺跡群はマウリヤ朝第3代の王であるアショーカ王がレンガ積みの小塔を建立したことから始まり、王の石柱と4頭の獅子を組み合わせた柱頭なども発見されています。また、第1ストゥーパはサーンチーを代表する建造物のひとつとして有名です。アショーカ王が各地につくった8万を超すストゥーパのひとつであり最古のもので、直径36.6m、高さ16.5mの大ストゥーパは頂上部を除いてほぼ完全な形で残されていることから、古い仏塔形式の典型として重要視されています。
サカテカスの歴史地区
Historic Centre of Zacatecas
ザビードの歴史地区
Historic Town of Zabid
ザビードはイエメン西部、紅海沿いにある古都です。820年、反乱鎮圧のため、アッバース朝の総督だったムハンマド・イブン・ズィヤードがこの地に派遣されてきたことを機に発展しました。13~15世紀の最盛期には200以上のマドラサ(高等教育施設)やモスクが林立。イスラム学者により大きく発展していた科学などを学ぼうとする学生を世界中から受け入れました。今もザビードにはイエメン最多の86のモスクが集中しています。多くは簡素なレンガ造りですが、中には精巧な彫刻や漆喰の装飾が施されたものもあります。スークに囲まれた大モスクやマドラサなど、かつての名声を偲ばせる建造物が多数原型をとどめており、それがこの都市を卓越した考古学的・歴史的遺産にしているのです。
サフランボルの旧市街
City of Safranbolu
サマイパタの砦
Fuerte de Samaipata
ボリビア東部のアンデス山麓にあるサマイパタの砦は、二つの部分から成り、その一つは多くの彫刻が残る丘で、長さ220m、幅約60mの赤い砂岩でできた一枚岩からなり、その表面全体に動物、幾何学模様、壁龕、運河など、宗教的に重要な様々な表現が全面に彫刻されています。眼下に街を見下ろすこのモニュメントは、スペイン到来以前の伝統と信仰を証明する唯一のもので、アメリカ大陸のどこにも類似するものがなく、アマゾン地域のプレ・コロンブス時代の儀式用建造物としては最大級のものです。 もう一つが、行政および居住地区と行政機関を形成していた丘の南側の地域です。ここは、インカがこの遺跡を占領し、記念碑的な公共建築物が建つ大きな中央広場や、軍事利用のための施設、商業地域、そして監視のための居住区域など、異なる文化的な集落の建築構造が組み合わされています。
サモス島のピタゴリオンとヘラ神殿
Pythagoreion and Heraion of Samos
エーゲ海南東部、アナトリアに近い場所に浮かぶサモス島は、全能の神ゼウスの正妻であるヘラの生誕地とされており、神話上極めて重要な島です。島がポリュクラテスという僭主(独裁者)によって支配されていた紀元前6世紀頃までに、サモス島は東地中海の主な航行拠点となりました。「ヘラ神殿(ヘライオン)」の起源は、前750年頃に建築された小規模な神殿で、前670年頃の水害で崩壊しました。その後すぐに再建された神殿は、正面に二重の列柱をもつ最初の例でした。前570年頃には2倍の面積をもち、100本以上の柱で支えられたイオニア式の神殿が建築されるのですが、今度は戦火により崩壊してしまいます。そこでポリュクラテスが命を出し、パルテノン神殿をも凌ぐ、幅55.16m、奥行き108.63mの巨大な神殿を建てようとしました。しかし、250年にもわたる工事を施したにもかかわらず、結局完成することはなく、3世紀のゲルマン人の侵入により破壊されてしまいました。
サラズム:原始都市遺跡
Proto-urban site of Sarazm
サラマンカの旧市街
Old City of Salamanca
スペイン西部に位置するサラマンカは、2,000年以上の歴史をもつ都市であり、イベリア半島でも有数の文化遺産が存在します。街の南西を流れるトルメス川に架かる古代ローマ時代の橋をはじめ、12世紀に完成したロマネスク様式の旧大聖堂やサン・マルコス教会、16世紀完成のサリナ宮殿やモンテレイ宮殿などがその歴史を物語っています。特に18世紀に完成したマヨール広場は、スペインで最も壮麗なバロック様式の広場と謳われています。旧市街とその周辺には、ロマネスク様式からゴシック、ルネサンス、バロックに至るまでの宗教建築が点在し、都市全体が歴史的景観を形成しています。また、旧市街の建造物の多くは微少の酸化鉄を含んでおり、その影響で陽光を受けると旧市街全体が金色に輝いて見えることから、「ラ・ドラーダ(黄金都市)」の異名でも知られています。
サラン・レ・バン大製塩所からアルケ・スナン王立製塩所までの天日塩生産所
From the Great Saltworks of Salins-les-Bains to the Royal Saltworks of Arc-et-Senans, the Production of Open-pan Salt
ザルツブルクの歴史地区
Historic Centre of the City of Salzburg
サルト:寛容と都市的ホスピタリティの場
As-Salt - The Place of Tolerance and Urban Hospitality
サワルントのオンビリン炭鉱遺産
Ombilin Coal Mining Heritage of Sawahlunto
インドネシアのスマトラ島内陸部に位置する『サワルントのオンビリン炭鉱遺産』は、19世紀末から20世紀初頭にかけての世界的に重要な工業化の時代に、オランダによって建設された先駆的な鉱業システムです。オンビリン盆地には、1860年代にはすでに高品質の石炭鉱床があることが判明していましたが、鉱床が地下深部にあったことに加え、人里離れた山岳地帯という地理的条件が障壁となっていました。当時インドネシアを植民地として支配していたオランダは、石炭を効率的に採掘し、処理・輸送・出荷することを目的として、産業と社会を一体として機能させる総合技術システムを計画・建設しました。建設に際しては、鉱業の発展を目的としてヨーロッパの工学知識や産業技術が現地に体系的に移転される一方で、現地の熱帯気候や社会構造に合うように調整・融合されていきました。単なる技術移植ではなく、地域条件に即した近代産業システムの成立を物語る点に大きな特徴があります。